魔法の存在
洞窟内の景色は一向に変わることはなかった。変化といえば、魔物に遭遇することはなくなった。これだけ歩いているのにも関わらず、外に出ることもなければ行き止まることもない。それほど大きな規模の洞窟ということだろう。
魔物を目にするどころかその魔力を感じることすら少なくなり、より孤独を感じるようになった。孤独――そもそもそんな感情が何故生じるのかも分からない。元々独りならば、そんな感情が生じることもないだろう。私はただ知りたいだけだ。
私は何も知らない。自分のことですら。私に残された記憶の断片に自分に関するものは一切ない。だからこそ知りたい……そんな思いがもしかしたら私の中にあったのかもしれない。外に出たいという気持ちも……もしかしたらそこから生まれたものなのかもしれない。
思った以上に……私の中であの白い蝙蝠の存在は大きくなっていた。あの短い時間であったとはいえ何もない私に唯一生まれたであろう……弱く、少し突いただけで壊れてしまいそうな脆い関係。あんなものを関係と呼んでしまうとは……わたしも大概思い上がっているのだろう。
魔力の塊が近づいてくる。二つ……一瞬魔力と勘違いしてしまったが、それは紛れもない魔物のようだった。ゆらゆらと地面の上で揺らめくそれはいつまでたっても定まった形をとる気配がない。
それは不思議な姿をしていた。透けた半透明の体の中に丸い球が二つ浮かんでいる。その二つの球が見せる動きを見る限り……あれは目だろう。ぎょろぎょろと眼球を回して周囲を見渡すと私の存在を捉える。二体の魔物はこちらの様子を窺うように洞窟の床のみならず、壁を這って移動を続けている。
その様子から魔物の敵意を感じ取ることはできなかった。私を警戒しているようではあるが、それ以上のことをしてくる様子はない。しかし今の私にとって、その事実は決して私を安心させるものとはなりえない。いつその警戒が敵意となってこちらに牙を剥いてくるか分からない。このことは、私がこの洞窟で目覚めそして今まで……経験から導き出された答えだった。
私は飛び上がった。といっても翼を使って飛んだわけではない。私の体は私自身が驚くほどに、自分自身のことを理解していた。私の思った通りに……いやそれ以上に完璧に飛び上がった私の体は洞窟の天井に足をつけると、上から二体の魔物を見下ろした。二体の魔物の視線はまだ私を捉えていない。彼らの目には私の姿が突如として消えたように見えたことだろう。よもや自分たちの真上にいるとはすぐには気づかないだろう。そんな魔物の一体に向けて、私は拳を振り下ろした。
彼らの間に仲間意識があるかは定かではないが、少なくとも自分自身の危険という形で私への警戒心を敵意へと変えることだろう。であったとしても脅威を一つ減らすことができたと考えれば、成果としては十分だ。
ふと覚える違和感。私の振り下ろした拳は、魔物の体を貫き洞窟の地面に少し沈む、という形で留まっていたが、違和感はその手に触れたものにあった。ぬらりと、洞窟の淡い青光を反射して光るそれは、本来であれば先ほどまで生きていたものであるはずだった。死んだはずのそれには、妙に生命感がした。ぬるぬるとしたそれはひとりでに動き、私の腕に手を滑り地面に落ちた。見れば私の立つ地面にも同様のものが散らばり……そして動いていた。
その魔物が死んでいないことは自然に理解できた。散らばった魔物の体が再び一つになろうとしているのは、まさしくそれらに意思がまだ存在している証拠だ。こちらの攻撃が通用しないとなれば、この場をどう乗り越えれば良いのか……
逃げる……
それが最初に思い付いた行動だった。少なくとも今の自分にはこの魔物を倒すすべはない。どんなに体が傷ついても相手は再生できるようだ。それはまさしく自分自身と同じ。もしも私が自分自身を殺せと命令されたとして、その方法を私は知らない。
その刹那私の視線を何かが横切った。当たらなかったのは運が良かっただけであると言えよう。僅かな魔力を感じた次の瞬間には、それは私の視線の先にまでやってきていた。分かったのは若干緑を帯びた何かであるということと、この魔物を連想させるぬらりとした液体であるということだ。そうでなくとも、誰がそれを放ったかなどということは言うまでもない。この場に存在するのは私と二体の魔物だけ。そのうち一体は私の視界に収まっている。
わずかな時間とはいえ敵から注意を逸らしてしまった自分自身に反省する。しかし今さっき起こった出来事は、確かに私にとって驚きに値するものだと思う。魔物の攻撃はそれに収まらなかった。幾何学的模様の描かれた円盤から先ほどの液体が飛び出す。
生命の根源である魔力。それを用いて具現されるのが魔法である。私の中の記憶は今まで感じたことがないほどに鮮明であった。目の前で繰り広げられる光景にも、魔法を用いる魔物に対してもさほど驚きを感じなかった。
私の体に向けて放たれた液体は、私の顔に肩……そして胴体をかすめるようにして飛ぶ。先ほど液体が飛んで行った先の岩肌は、ちょうど液体が触れた場所を中心に小さな窪みができていた。岩を溶かす液体が触れれば、私の体がどうなるかは見ずとも分かる。ふと、体に鋭い痛みを感じた。今まで感じたこともない……いや、感じたことがないものだ。魔物の魔法は体に触れる前に躱したはず。それなのにどうして……
答えはすぐに出た。私が翼のことまで考慮できていなかったためだ。魔法が翼の一部を溶かしてしまったことは予想できたが……痛みが生じたことは驚きだった。ビリビリとした感じたことのない痛みというものは、私を不快な気分にさせた。この痛みの元である翼を無性に手で押さえたくなった。しかしそれは右目の時とは違い、容易にはいかない。私が殺したはずの魔物はすでに元通りの体を取り戻していた。その間も魔物の片割れが私を攻撃するべく魔法の準備を行っている。
いよいよ私は逃げる準備をしなければいけなかった。そんなことは分かっている。打つ手のない相手にこれ以上構っている余裕などない。外に出ることが目的の私が魔物に背を向けることに、何を抵抗しているのか……
足は動かなかった。まるでこの魔物から逃げることを否定するかのように。胸の奥が焼けるように熱くなった。背筋が凍るような黒い冷気とともに私の頭に何者かが語り掛けた。
手を前に出せ……と
動揺と困惑の中で出るはずもない声が出そうになった。私はその行動をすることに何ら抵抗はなかった。それに抗う意味も、この状況を脱する方法も持ち合わせていなかったから。
瞬間……魔物が魔法を発動するよりも早く――私の魔法が発動した。
どす黒い赤の円盤――即ち魔法陣から飛び出したのは、それと同じ赤黒い液体だった。まるで洪水のように魔法陣が流れ出した血の水は、まるで生き物のように踊り二体の魔物を飲み込んだ。一瞬の出来事だった。瞬きをする暇もなく目の前で起こった事は、一時私に我を忘れさせた。やがて岩肌に吸い込まれるようにして消えた液体の前に、二体の魔物は姿を消していた。後に残った洞窟の壁は大きく抉られており、一回り大きな空間がそこには出来ていた。
意識を取り戻してからも頭を渦巻く濁流は収まらず、この状況をすぐに呑み込むことはできなかった。それは二体の魔物が姿を消したことでも、自分が使い方を知りもしない魔法を使えたことに対してでもない。もっと漠々としたものだ。私の興味はいつでも自分が何者であるかにあった。今もそれは変わらない。私は自分自身が不思議でたまらなかった。
沈黙は数分続いた。私の口は声を発しない。にもかかわらず、今までにないほどの静けさをこの時の私は感じていた。この少女の体は私に様々なものを提示する。体の状態、特徴、そして記憶。先ほど傷つけられた翼はいまだ完全に回復していない。この体にも弱点はあったということか……
目的であり興味であるはずの自分自身。知識は増えているはずなのに、なぜかすっきりとしない。知れば知るほどに、私以外の存在を感じてしまう。
私の右目は再び敵の存在を私に伝える。思わずため息が漏れる。変わらず敵意を向けてくる魔物の存在に、私はすっかり興味を失っていたのかもしれない。あるいは、それによってまた私への疑心を深めることを嫌がっていたのか。
近づいてきた魔力は複数、少なくとも30ほど。今までであれば逃げる姿勢であったかもしれない。しかし今の私には魔法がある。不思議と私の体は先ほど魔法を使った時のことを覚えていて、さらに私の頭はその確信を持っていた。
いくつもの小さな靄が集まって一つの大きな青白い靄が視界に映る。すぐにそれはどす黒い赤によって消えることになるだろう。
空に先ほど同様に手を突き出し、その時を待つ。私の心は何も感じていないようだった。声をかけてくれる者がいるわけでも、手を引いてくれる者がいるわけでもない。たった一人で、確信の持てる当てに従うわけでもなくここまでやってきた。
疲れた……
どうやら私の心はあの短い休息で回復できるようなものではなかったようだ。すっかり私の精神は疲れ果ててしまった。失われた記憶も、変わらない景色も、それに拍車をかけた。私は無感情でその時を待った。
音が聞こえた。洞窟の奥から聞こえたのは、バサバサと何かが羽ばたくような音。それを聞いた瞬間、私の中に小さな希望が生まれた。希望などというにはあまりにその出来事は小さく……取り留める価値もないものだった。しかし、何もない私にはそれで十分だった。
姿を現した大量の蝙蝠にはきちんとしたまとまりはなく、それぞれ散らばって飛び回っているように見えたが、よく見ると一匹の蝙蝠を中心に群れを成していた。黒の中に一つだけある白。それは紛れもなく、以前私の前に現れた白い蝙蝠であった。