事前の備え
その影は一本の木に寄りかかって座り、湖の方向を向いているように見える。
もう少し近づいてみると、その影の姿がだんだんと鮮明に見え始める。
光を通さない漆黒のローブ、そしてそれに反するように銀色になびく長い髪が日の光に照らされ輝いている。
私はそれを見てしばらく見とれてしまう...。
そうしてしばらく見ていると、その影はこちらに気づいたようで顔をこちらに向ける。
その瞳は、片方は黒く若干青みを帯びている。
そして、もう片方は不自然に赤く光っており、見ていると吸い込まれそうになりそうになる。
私は慌ててその赤い瞳から目を逸らす。そしてなおも見つめてくるその瞳にうまく目を合わせないようにしながら、向こうへ顔を向ける。
つい先ほど、その姿に思わず見とれてしまったが決して油断はしてはならない...。
この少女はその見た目と反し、恐ろしく強大な力を持っている。もし彼女がその気になれば、私など一瞬で殺されてしまうだろう。
とはいえ、私が生きて彼女の前に立っていることが出来ているのは、その気はないというわけなのだが...。
彼女のちょうど座っている木の下とその周囲を見てみると、やはり辺りの木がかなりの量の魔力を帯びている。中には魔草と十分呼べるものもあるだろう。
普通であれば、これでも十分彼女が異常な量の魔力を発していることが伺えるのだが、私はどうも違和感を覚える。
というのも、数日前の彼女と比べるとどうも魔力が小さく思えるのだ。
以前は近づくこともはばかられるような威圧感を感じていたのだが、今はそれほど威圧感は感じられない。
理由ははっきりとはしないが、少なくとも今の方がいいことは明らかだろう。
「今日が出発の日ですか?」
少女が口を開いてそう話す。
予期していなかったことだったので一瞬対応に迷うが、私は声は発さずにただ頷く。
すると少女もそれに応えるように頷くと
「では、すぐに出発するということでいいですか?」
彼女が言っていることは、今すぐここから人間の国に向かうのか?ということだろう。
となればその答えはNOだ。私はまだ荷物を取りに行ったり、集落の者たちに挨拶をするなどしなくてはならないことがある。
とはいえ、彼女を無駄に待たせるようなことをして怒りを買う、などということはしたくはない。
私は恐る恐る...
「..いえ...。私はまだ集落に用があるので、出発するのはもう少し後になります...。」
ではなぜ今呼びに来たのか、と言われてしまっては困る。しかし、今日出発するということを言ったことには、彼女がどこにいるのかが分からない以上早めに声をかけておく必要があったのだ。
もし今日見つからないということでもあれば...それはどうしても避けたかったのだ。
「そうですか。では、私は先に向こうで待っているので...準備ができ次第、ということで。」
そう彼女は言うと、小さく地面を蹴って集落の方向へ飛んで行ってしまった。
翼も出しているわけでもないのにどうやって飛んでいるのか...と思ったが、あまり深く考えることはやめた。
それにしても向こう...と言っていたが、まさか集落ということはないだろう。
実際、集落にいることが出来ないというために集落を離れ、こちらへ来ていたわけなのだから...。
ともかく、私は早く用を済ませるため、足早に集落へ戻っていくのだった。
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私は集落から少し離れた場所に岩陰を見つけたので、そこにめがけて降り立つ。
ところで、どうやって翼も出さずに飛ぶことが出来ているのか...ということなのだが。
実際のところ、翼を出していないわけではない。実はローブの下で小さく広げて空を飛んでいるのだ。
魔力を込めれば別に羽ばたかなくても飛ぶことはできるためである。
とはいえ、やはり翼は広げて飛んだ方が早く飛べるし、なにしろその方が気持ちがいいのだ。
そうはいっても今は日がギンギンに照り付ける日中。そんなことをすれば、ローブに覆いきれなくなった翼が日の光で焼けこげる...ということになるというわけだ。
というわけで、私は仕方なく翼を小さく広げて飛ぶということをしていたわけだ。
日中出歩くだけでなく飛ぶこともできるのだ。あまり贅沢は言ってはいられない。
これで、もう一つの問題もどうにかできればよいのだが...。
その問題というのは、再び喉の渇きを意識し始めたということだ。
別に血を飲んでいないわけではない。いや、実際には私が直接飲んでいるわけではなく、蝙蝠たちが勝手に私に持ってきてくれるというのが正解だ。
そのため、私は魔物の不味い血を直接口に含む必要がなく、それで血の問題は解決しているつもりだったのだが...。
変わらず、蝙蝠たちは私に血を持ってきてくれるのだが、どうも喉の渇きが収まらない...。
やはり自分で直接、口を通して血を飲む必要があるのだろうか...。でも私はあの不味い血を飲む気にはもうなれない...。
そんなわけで、私はこの喉の渇きに耐えるほかないのだ。
もしかしたら、人間の血を飲む必要があるのかもしれない。
集落でウバラが言っていたことによると、どうやら吸血鬼は人間の血しか飲まないらしいし...。
いままで、その必要は感じていなかったのだが、やはり私も人間の血でないとだめなのかもしれない...。
そう、ちょうど私はこれから人間の国に行く。
つまりは人間の血を飲むこともやろうと思えばできるのだが...。
ところがそういうわけにもいかない。あまり騒ぎを起こしたくはないのだ。
人間の血を吸う者が現れたとなれば、間違いなくそれは吸血鬼ということになるだろう。
そんな人間の天敵が国に紛れ込んでいたとでもなれば、何としてでも排除しようとするだろう。
先日の竜のこともあり、あまり危険な目にはあいたくない。
それに、吸血鬼には多くの弱点がある。私のまだ知らないものがあってもおかしくはない。
そしてそれは間違いなく命取りになるだろう。
そういうわけで、この案は却下だ。
そうはいっても....喉が渇く...。
サクッとやって、サクッと飲めば問題ないんじゃないか...。イヤイヤ!
ついそんな考えがよぎったが、すぐに抑え込む。
とりあえず、今は我慢するしかないのだ。
私は、岩陰の比較的日の当たらないところに座り込む。
......。
何もしないでぼーっとしているのは耐えがたいことだが、待つといった以上は仕方がない。
また、魔法の練習でもしようとは思ったが、先日の戦いのために消費した魔力がまだ回復しきっていないのでこれ以上消費するのは危険だと思ったのでやめた。
竜と戦ったのは二日前のことなのだが、それでもまだ魔力は半分も回復していない。
魔力が減ることによる危険性は、今回の戦いで十分に理解したので、今後は魔力の使い方についてもっと慎重に考える必要がある。
とはいっても、何もしないのはどうしても我慢できなかったので、とりあえず私は自分の体に潜んでいる蝙蝠を数匹出してみることにした。
腕の一部が黒く染まり、そこから数匹の蝙蝠が飛び出してくる。
出てきたのは、よくいる普通の黒い蝙蝠だ。それを見て、ふとあることを思い出す。
それはシロのことである。
あれほどうっとうしくまとわりついてきたあのシロが、狼人のヴェルドに出会ったときから見当たらない。
別にいつの間にかいなくなった、というわけではない。
というのも、私がヴェルドを助ける前にある命令をシロにしたからだ。
「私がまた森に戻ってくるまでに、なるべく多くの仲間を集めておくこと...。」
そんな感じの命令をしたのだ。
これは、周辺の探索をしたりするのに多くの蝙蝠がいると便利だな~、と思ったからだ。
普段は私の言うことを一切聞こうとしないシロだが、この命令は素直に聞いてくれたので安心した。
まあ、もし聞かなかったらいよいよ切り捨てよう、と思っていたのでシロは命拾いをしたというわけだ。
さて...
私がわざわざ蝙蝠を出したのには理由がある。
それは、事前に人間の国の視察をするためだ。
人間の国というのは、私にとってはまさに未知の場所だ。そのうえ、私が吸血鬼だということを絶対にばれるわけにはいかない。
そんなところに情報なしで行くのは、どうも気が引けるので先に情報を集めることにしたわけだ。
私が出した蝙蝠は三匹。あまり多くても目立ってしまうのでこのくらいがちょうどいい。
「ここから一番近い人間の国に行って、なるべく多くの情報を集めてきて。いい?」
私がそう言うと、蝙蝠たちは小さくうなずいて飛び去って行く。
ところで、人間の国の方向は私も知らないのだが....大丈夫なのだろうか...。




