蝙蝠との遭遇
外に出るとは言ったものの、一体どこに行けばいいのか。先ほど倒した巨大蜘蛛の亡骸を眺めながら私は考えていた。この空間からほかに通じる道は、岩肌にぽっかりと開いた横穴のみ。しかしどの穴が外に通じているかなどは分かるはずもない。何か……どの道が外に通じていることが分かれば。そんなことは単なる夢想に過ぎない。今の私にできることはここから一番近いこの横穴の先に進むことだけ。それが外に通じていればよし、でなければ戻ってほかの道を試すだけだ。
私は歩を進めた。そんな私の夢想に……果たして神は応えてくれたのか。ふと視界に違和感が生じた。妙にくっきりとしたような……初めはそんな些細なものだった。
それから数秒後……明らかな変化が視界に現れた。簡単に言えば、とても良く見えるのだ。いやむしろ見えすぎているといったほうが正しいか。空間に、何か青白い靄のようなものが漂っている。それは特にクリスタル周辺によく見られるようだ。しかし今重要なことはそこではない。
その中で別の何かが見えた。青白い靄ではない……流れを。それは横穴の奥のほうから流れ出してきているようであった。そして、流れ出ている穴は一つだけではない。ちょうど私の目の前の穴からも同様にその流れは見られた。外から何が流れ込んできているのか……分かったものではないが、今の私にとって……それは一種の心の支えにもなっていた。あてもない道を進んでいくよりは……何かがこうして道を示してくれている。私はその先へ進んで行くことにした。
翼をもつ者は空を飛べる……そんな考えが私の中にはあった。そして私自身も――自分が空を飛ぶ……ということに何の疑問も持たなかった、飛べると思っていた。にもかかわらず……なぜ翼が生えているのに飛べないのか。先ほどから必死に翼を動かしているのだが、体が浮く気配がない。
重さ……確かにそれもあるだろうが、違う……私の中にある考えは単なる気のせいではない。確実に空を飛べる……という確信が私の中にあるのだ。私の体を――それを持ち上げるにはいささか頼りなくも思えるこの翼に対し……私は絶対的自信を持っていた。
しかしそんな私の思惑に反し、無情にも私の体は浮かぶ気配はなかった。全く飛ぶ気配がないのに翼だけがパタパタ動いているのは……傍からみればとても滑稽に見えることだろう。私の中にある数少ない私自身の断片。それが違ったということは、私の……私自身に対する信頼を損なうことに繋がる。
いまだに状況が掴めず頭は混乱したままだ。これは時が解決してくれるのだろうか。私の頭はその場で足踏みしたままであるが、私の足は先へ進み続けていた。洞窟の外を目指して……
そして私の目の前に立ちはだかったのは、私の体の数倍はあるだろう二足歩行の生物。手足は筋骨隆々。しかしその頭は牛であった。腕には斧を持ち……というよりも腕が斧になっている。間違いなく斬られれば体を一刀両断……いや、私の体に対して巨大すぎるそれに斬られれば、むしろ叩き潰されるだろう。怪物は斧で私を斬らんと腕を振りかぶる――
ゆっくりと……
怪物の放つ私への殺気を感じた私は、戦闘が始まることを予感していた。先ほどから私に道を示してくれている右目のおかげか……怪物の動きが手に取るように分かる。時間が遅くなったようにも感じるほどだ。次の怪物の動きを読み取った私は、余裕をもってかわそうと足を踏み込んだ。
しかし、一つ私には意識していなかったことがあった。私は自分の目や翼にばかり注目していて、自分の身に着けているものにまで注意が及んでいなかった。思った以上に、丈が長いものであったなどと――
私は足を踏み込んだと同時に、長い衣類下部の裾を踏みつけた。横に飛び出すはずであった体はまるでモノのように地面に向かって勢いよく倒れた。
その瞬間……体中に戦慄が走るのを感じた。
早く起き上がらなければ斬られる……! 今もなお私の体めがけ振り下ろされる斧がそれを証明している。分かっていても体がそれ以上動くことはなかった。
赤い鮮血が勢いよく飛び散り、両足の感覚がなくなるのを感じた。幸いであったのは、倒れたおかげで足のみで済んだということだろう。もしもそれがなければ、今頃私の体は両断されていたことだろうから。しかしどちらにしろ、この状況は変わらない。すぐにでも、この怪物は再び斧を振りかぶり私を両断するだろう。
……足無しでは流石に戦えないだろう。驚くほどに私は冷静だった。記憶のない私には悔いとか、そういったものから生じる、生への執着というものがなかったのだろう。私は諦めたように体の力を抜いた……
ふと違和感に気づいた。右足の感覚がない。そう……無いのだ。全く痛みがない。そうして右足の感覚が徐々に戻り始めた。再生しているのだ。斬られたところから影のようなものが伸びて再生していく様は自分のことながら不気味であった。勝ち誇った様子だった相手もその不自然な光景に動揺したのか、今は固まっている。
どうやら神はまだ私を見放してはいないらしい。そんな隙を私の目は見逃さなかった。思い切り地面を蹴って、相手の頭の真上で回転し足を上に向けて宙を蹴る。そして相手の首筋に思い切り手刀を振り下ろした。これで倒せる……私の頭はそれを理解していた。
思った通り、まるで剣で切り裂いたかの如く怪物の首筋を私の手はすり抜けた。怪物の首は勢いよく吹き飛んで、頭のない怪物の首から鮮血が噴き出した。
今まで喉の渇きに耐え、血への欲望に理性を保っていた私だったが、それをきっかけに理性が吹き飛んだ。直に怪物の返り血を浴び大量の血を口に含んでしまったのだ。そして同時にあまりの不味さにはっとしたようにすぐに理性を取り戻す。激しい意識の濁流に私の精神は若干の疲労を感じた。
私の体は既に完全に再生している。普通の生き物であれば、こんなことはあり得ないだろう。そのことであれば、私の目の前で絶命をしているものが証明している。しかし、そんなこと以上に今の私には余裕がなかった。先ほどから喉の渇きが激しくなってきている。再生はしたが、多くの血を失った。それを補うかの如く、私は猛烈な喉の渇きに襲われていた。私には選択肢はない……
私に与えられたのは、目の前に倒れるこの怪物の血だけだ。
しばらく洞窟内を歩き回っていたが……全く外に出られる気配が無い。その間も私は何匹かの魔物と遭遇した。先の巨大な蜘蛛や牛の頭をした怪物は洞窟内でも強い存在だったのだろう。その後私が出会ったのはいずれも弱いものばかりだった。
特にここには蜘蛛が多く生息しているようだった。それらの姿はあの巨大な蜘蛛によく似ており、おそらくは幼体だろう。彼らは群れを成して行動しているようで、一匹一匹は大した事はないが、群れで襲われればただでは済まないだろう。ゆえに私は極力魔物を避けて行動をするようにしていた。魔物からは魔力を感じることができる。生物の生命の根源でありこれがなければ生物は生きることができない。当然、私にもそれは当てはまる。今も自分の中を穏やかに流れる魔力を自然に私は感じている。魔力の流れが私に魔物の位置を知らせてくれる。同時に右目に映る青白い靄。今もなお洞窟内を満たしているそれが魔力であることに気づくのは決して遅くはなかった。
思いがけず、私の意識はあるものに向いた。先ほどから私の近くについて回る魔力が一つ。隠れているようだが、私の目は誤魔化せない。この目にははっきりとその姿が見えている。蝙蝠――しかしそれは白かった。いつの間に私についてきていたそれは、どうやらこちらの視線に気づいたのか、ふらふらとその姿を見せた。普通蝙蝠は黒いはずだが……どうも私はこの白い蝙蝠に親近感を抱いていた。
こちらに対する敵意は感じられない。ここの魔物の多くは問答無用でこちらに襲ってくるものばかりだったが、それゆえに生まれた感情なのだろうか……
……思えば、ここに来るまでに私は一人――自分が何者なのかも分からないまま、ここまでやってきた。度重なる喉の渇きは私には誤魔化せない。吐き戻しそうになるような魔物の血を口に流し込むのはかなり辛い。精神的な疲労も限界が来たか……?
少し休憩するつもりで私は岩壁に体をもたれかからせ、地面に腰を下ろした。相変わらず青白く光るこの岩壁からは若干の魔力が感じられる。ここまで歩いてきて、洞窟の景色はほとんど変わっていないようだが、よく見るとクリスタルが少なくなったように思える。魔力である青白い靄も若干薄くなったような気も……
そんなことを考えていると、先ほどの白い蝙蝠が私のすぐそばにまでやってきていた。この白い蝙蝠が何を考えて私に近づいてきたのかは分からないが、向こうも私を自分にとって無害なものだと判断したのか。どうせ今だけだ――私は少し休んだらここを出発するつもりでいる。魔物に遭遇すればこの蝙蝠はすぐに逃げてしまうだろう。
ただ……少しだけ寂しさが和らいだ気がした。
あぁ……目が疲れた。それも右目だけが妙に疲れる。この視界がやはり原因だろう。どうにかして元には戻らないのだろうか。
とはいえこれを戻してしまっては、私は進むべき道を失ってしまう。私が魔力以外に感じる流れ……それを信じてここまでやってきたのだから。
私は瞼を閉じ、右目を手で覆うようにして押さえた。これで少しでも疲れが引いたらと思ったためだ。しかし疲れが引くことはなく、また目を閉じているのにも関わらず視界が変わることはなかった。暗闇の中に青白い魔力と、洞窟の奥から依然として流れを感じていた。
「!?」
ふと右目に映ったのは巨大な魔力の塊。この魔力の大きさは魔物であることは明白。それが目の前に現れたということは……
「……っ」
慌てて立ち上がった私は強く目を見開いた。しかし、そこには魔物などいなかった。白い蝙蝠がこちらを見つめていただけだ。まさか……私の心配を?
思わず蝙蝠に向けて伸ばした手はそれが私の勝手な勘違いに過ぎないことを教えてくれた。痛みはない……蝙蝠の牙によって刻まれた指の傷を見つめて、私は自嘲的な笑みを浮かべた。そんなわけはないか……
単にこの白い蝙蝠は好奇心のようなものでこちらに近づいてきただけだ。その証拠に白い蝙蝠は私への興味を既に失ったのか、姿を消していた。私の右の瞳はその存在を捉えていたが、それを追うつもりはなかった。