狼人と人間と吸血鬼
そう、私は油断していたのだ……
危険な森から抜け、すっかり緊張から解放された私は、不覚にも暗闇から忍び寄る影に気づかなかった。そして、さらに不幸なことに……最初に狙われたのは私ではなく――ヴォンであった。
「父ちゃん!」
二人の影によって羽交い絞めにされたヴォンの叫びに、私の頭は瞬時に状況の深刻さに気付いた。しかし――遅すぎた
「いきのいい亜人だな……やはり子供がいたか」
「子供は高く売れる……これならば依頼人も納得するだろう」
二人の男は……紛れもない――人間であった。始めから暗闇に溶け込むことを想定しているのが窺える漆黒のマントに、腰に短剣を差しているのが分かった。
そして、何よりその恰好からも分かる通り……この二人の人間はこういった状況に慣れている。そして、明らかに私たちを狙っていた様子だ。
「ヴォン!」
私がそう叫んだとき……気配は感じていたが、緊張と焦りで正確な位置が分からなかったこともあるだろう。潜んでいた同じく漆黒のマントに身を包んだもう二人の人間に私は羽交い絞めにされた。
「おっと! 動くなよ……亜人。動けばお前のガキがどうなるか……分かるよな?」
私に脅しをかけるように静かな声で男は私の耳元で囁いた。力で勝る亜人を相手に、先に人質としてヴォンをとった――というのは間違っていないだろう。
私は忍び寄る気配に気づけなかった自分を呪いながらも――同時に自分たちを取り囲む人間たちに対する怒りが沸々と湧き上がってくるのを感じた……
人間と亜人の溝が深いことは確かだが、少なくともこの辺りは他よりもましである――と私は思っている。集落に一番近い人間の国は、亜人をある程度受け入れているところがある。しかし、それはあくまで国としての話……こことして考えれば、それは別だ。長い間受け継がれてきた人間全体の考えを根本から変えるのはやはり難しい。
やはり、人間の亜人に対する認識が変わることはなく――おそらくは、亜人の売買は変わらず行われているのだろう。
私は人間に対し、取り立てて恨みを持っているわけではない。確かに、昔から人間は亜人に対して、容易に許されるようなことをしていなかったわけではない。しかし、亜人にいろいろあるように……人間にもいろいろな考えを持つ者たちがいるだろうと、私は考えているためだ。
しかし……しかしだ……
たった今、私とヴォンを押さえている人間たち……彼らに対して私は容赦することは決してない。そんなことをすればやられるのはこちらだ。それに、こちらはヴォンを人質に取られている。
本来であれば……ここはむやみに手出しはしない方がよいのだが……
私は自身の右腕を押さえている男に対して、鋭い蹴りを打ち込んだ。放たれた脚は、容易に男の腹に沈み込み――男は吹き飛ばされた。拘束の解けた私の右腕は自由を取り戻した。
「この……! 亜人風情が!!」
人質を取られているのにも関わらずの、私のこの行動。仲間がやられたことに逆上したのか、私のもう片腕を押さえていた男は腰から短剣を抜くと、勢いよくこちらへ突き出してきた。
しかし、攻撃に意識を集中したためか、男の拘束が緩まったことを私は見逃さなかった。素早く男の拘束から抜け出し、攻撃をたやすく避けると、私は男の腹めがけて拳を繰り出した。
「ぐふっ……!」
苦痛の呻き声をあげた男の体は、崩れ落ちるように平原の地面に倒れこんだ。
私とヴォンを襲った人間たちは、やはりそれなりの訓練を受けた者たちであることは確かだろう。でなければ、あのような短剣の扱いはできないし、迷いもなしに私へ攻撃を仕掛けることもない。対して、私は勿論そのような訓練を受けたことはない。私は集落で毎日を生きるために生活をしてきただけだ。
それほどまでに人間と亜人の力の差は大きい。この状況で私が勝つことが出来たように。技術力において亜人は人間に劣るが、単純な力勝負となれば負けることはない。身体能力も私たち亜人の方がずっと上だ。
しかし、仲間がやられたことに他の仲間が黙って見ているはずもなく――ヴォンを押さえていた二人は叫んだ。
「ちっ!」
「早くガキを連れて行くぞ!」
「父ちゃん!」
拘束から抜け出そうともがくヴォンが叫んだ。亜人が人間よりも身体能力の点で優れているとはいえ、ヴォンはまだ子供だ。それに対して、相手は訓練を受けた大人二人。ヴォン一人では無理があるだろう。それを理解していた私はヴォンを助けるべく、猛スピードでヴォンのもとへ駆けていった。
感覚器官と同等ともいえる狼人の最大の武器。それは足の速さである。人間に捉えられるはずはない。少なくとも――この二人には
そう……私は考えていた。
誤りだった……
それは私のすぐ目の前を通り過ぎた何かの存在によって、すぐに理解させられた。腹の辺りに感じる気持ちの悪い生温かさ。それがすぐに血であるということを私は理解した。
直後に襲った激痛――私は地面に倒れこんだ。
「父ちゃん!」
「なるほど、狼人か……噂通りだな。足の速さだけは大したものだ」
暗闇の中であったため目でははっきりと分からなかったが……私が倒れこんだ地面は短い草が生い茂っていた。地面に近い耳から感じる、先ほどまでは感じられなかった小さな草の揺れる音――それは、何かがこちらへ歩いてくる音として、再び私の前に現れた。
足元は他の人間と大差はない。同じく身に纏った、暗闇に紛れる漆黒のマント。よくは見えないが、恐らくは短剣等の武器も所持しているだろう。それも、私の腹を切り裂いたもの……
恰好こそ大きな違いはない……しかし、その人間には他の四人との明らかな違いがあった。
強い……。
いくら人間と亜人で力の差があるのだとしても、所詮、私は集落の一住民に過ぎない。戦いを仕事とするような者とは、天と地の差があるのだ。
「これはもう売り物にならないな。そいつだけ連れていけ」
男の冷たい声が私の耳に響く。そこには、他の四人とは違う――余裕が感じられた。その一言だけで、男が私のことなど全く脅威には思っていないことを理解させられた。自分には何もできないというとてつもない無力感とともに……
「父ちゃん! 起きてよ、父ちゃん!!」
ヴォンの声が少し遠くから聞こえる。助けなくては―――
しかし、どうあがいても動く気配のない自分の体が恨めしかった。結局、私はヴォンを助けることもできずに――ここで死ぬのか……
「うわああああぁぁぁぁぁ!!!」
突然――男の悲鳴が鳴り響いた。少し遠くの方から聞こえたその声に反応して、私の腹を切り裂いた男が振り向いたことを、かすかに聞こえた地面の草の音で理解した。
私が重い瞼をあけると、そこには立ち尽くす男たちの姿――そして、その視線の先にはとても異様な光景が広がっていた。
無数の黒い物体に群がられる男の姿。しかし、その黒い物体が単なる物でない――ということは一瞬で理解できた。男の姿に合わせるように気味悪く蠢く無数の黒い影――それが無数の蝙蝠が翼をはためかせる姿であるということをその直後に理解した。
何より私の考えを確信に至らせたのは、その男の末路である。しばらくして、あれだけ群がっていた蝙蝠の姿が嘘のように無数の蝙蝠たちは男の体から離れて行った。一体あの蝙蝠が何をしていたのか――それは、すっかりボロボロになった男の漆黒のマント。そして、生気を感じられなくなった男の姿がはっきりと示していた。
生気を失った男の姿は、この暗闇の中でもその異様さが窺えた。地面に倒れこみ、私と同じ目線になった男の顔はとても人間のものとは思えなかった。その顔はすっかり水分を失った果実のように萎びており、黒っぽく変色した皮膚がかろうじて骨に張り付いているような……そんな状態だった。
「ひぃ……ぼ……ボス!! お……たすけぇぇぇぇぇぇ!!」
倒れた男の傍らに立っていた男は、怯えた声で言った。一人の獲物を仕留め、次なる獲物を求め周囲を飛び回る蝙蝠たち……次なる獲物は既に決まっていた。男は大量の蝙蝠に体中を覆いつくされ、なすすべもなく倒れた男と同じ運命を辿ることとなった。
そして次なる獲物を求め再び無数の蝙蝠が空中へ飛び立った――と同時に、私の視界には予想外の光景が広がった。
暗闇の奥から姿を見せたのは人影……体は小さく、そのシルエットは人間そのものに思えた。しかしこの状況が、その考えを否定していた。
ただ……その姿が明らかになればなるほどに、その考えは確かなものへとなっていく。白銀の髪の毛をなびかせ、おかしなことに全身を黒いドレスに身を包んでいる。この状況、そして何よりこんな場所においてはにわかに信じられない格好だ。しかし、疑問もなんとなく忘れてしまうほどの特徴がその体にはあった。
少女の背中には、その体よりも一回り小さな一対の黒い翼が生えていた。周囲を飛び回る無数の蝙蝠の中を、一切気にすることもなく少女は歩いていた。そして同時に無数の蝙蝠は少女に危害を加える様子は一切ない。
「!!!……蝙蝠……吸血鬼か!」
ボスと呼ばれた男は、短剣を構えてすさまじい速度でその少女へと飛び出した。その速度は、私の腹を切り裂いた時以上に早く……男が私に対して手を抜いていたということを理解させられた。しかし同時に男がそれだけあの少女を脅威に感じているということも……
少女は自身の体に真っすぐと向かう男の短剣を、何を気にするでもなく、ただ男の姿を眺めていた。完全に無防備な少女の体に、男の刃が突き刺さる――しかしその刃が少女の身に届くことは叶わなかった。
「なっ……!!」
突然、男の短剣はその動きを止めた。しかし、少女が手を出した様子もなく……本当にただ、男の短剣は何かに阻まれたように暗闇の中で停止していた。
しかし、短剣の刃の周囲の暗闇がわずかにうごめく様子を私は見逃さなかった。その正体は蝙蝠。無数の蝙蝠が短剣にまとわりつき――その勢いを止めたのだ。
「馬鹿な! 俺の一撃を……蝙蝠ごときが……うわああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
悲痛な叫びを上げる男に無慈悲にも無数の蝙蝠が男の短剣を持つ手から、全身を覆いつくした。無敵にも思えたあの人間が、今はあっけなくああして無数の蝙蝠の手によって無残な死を遂げようとしている。それは、まさに信じがたい光景であり……同時に、私の中のあの蝙蝠への恐怖が大きくなるのを感じた。
男の悲鳴が消えたのは、それから間もなくの事だった。私に致命傷を与えたあの人間は……今はボロくずのようになったマントと共に倒れていた。
何の声もしなかった。自分たちのリーダーがやられ……他の二人はまだ生きているはずだ。しかし、あの蝙蝠たちには情けも容赦もなかったようで、私の目に映ったのは、悲鳴を上げることもなく、気絶していた男たちがその命を刈り取られる音。バサバサと無数の蝙蝠たちの羽ばたく音。視界には入っていないが、その音が確かにそのことを示していた。
無数の蝙蝠とともに現れた少女は、無表情で蝙蝠の羽ばたく方向を見つめていた。そこには、四人の人間が死んだことに対する興味は特に感じられなかった。
ヴォンはあまりの出来事に、しばらくの間、ぼんやりと少女を見つめていた。そして、ヴォンははっとしたように――
「あ……ありがとう! お姉ちゃん!」
お姉ちゃん……?
その言葉を聞いた瞬間、私の頭は一瞬何のことを言っているのか理解できなかった。しかし、よくよく考えてみればそれほど不自然なことでもなかった。なぜなら、少女の背丈はヴォンよりも少し高いといったところ。ヴォンが少女の事をそう呼んだとしてもおかしなことではない。しかし、それを単にそうと認められるほど、この状況は穏やかなものではなかった。
少女の体から発せられる魔力の波動は、ただ……恐ろしく強大なものだった。これほどの魔力を持つ存在が多くいるはずがない。私はこの魔力を知っていた。それは、あの森で感じたあの魔力の暴風。あの時感じたものよりもかなり小さいが――少女から感じられる魔力は、確かにあの時感じたものと同じだった……
このままでは……私も、ヴォンも殺される!! そう私は確かに感じた。自分たちを助けに来た? そんなことはあるはずがない。そこで、私はあの男が言っていた言葉を思い出した。
吸血鬼――
人間の血を糧にして生きると言われている種族……その存在自体は人間どころか、私たち亜人の中でも知らない者はいないほど有名である。しかし、実際に見ることが叶う者はほとんどいないだろう。
その性質は極めて攻撃的――かつ、その多くが別種族を大きく凌ぐ力を持っている。獲物である人間であれば、まず出会った瞬間に殺されるだろう。そして、それは亜人であっても例外とは言えない。
何故、こんな場所に吸血鬼がいるのかは置いておいて……あの少女の目的はまず血が目的だろう。吸血鬼は蝙蝠を操るとは聞いていた。なぜ自分自身では血を吸わず、蝙蝠にやらせたのかは分からないが……
そして、これから自分たちはどうなる? 吸血鬼が黙って私たちを見逃すのか?
亜人の血も人間と同じように彼らが食糧にするのかは分からないが、ついでに……という理由だけで殺されるかもしれない。私の聞いてきた吸血鬼というのは、まさにそういうものだった。
男たちの血を全て吸いつくしてきたのか……無数の蝙蝠が少女の元へ戻ってきた。少女の周囲を飛び回る蝙蝠、少女の体に纏わりつく蝙蝠と様々だが、彼らに共通しているのは、誰も少女に危害を加える様子はないということだ。そして、少女もそのことをよく理解しているのか……親しい相手を見るように口元にわずかに笑みを浮かべたかと思うと――再び無表情に戻った。
少女はその光のない目でヴォンを見つめるとともに、少女の周囲に群がる大量の蝙蝠がその赤い瞳で一斉にヴォンを見つめた。
その瞬間――動かないはずの私の体はとっさに動き、地面に膝をつき、深く頭を下げる格好で少女に向かい……そして懇願するように言った。
「どうか、その子だけは見逃してほしい!! それが叶うなら……私はどうしてくれてもかまわない!」
話が通じる相手かも分からない。だがその時の私はそんなことを考える余裕はなかった。ただ――あったのは、ヴォンを守らなくては……という気持ちだけだった。驚くほどに、私の体は恐れがなかった。今から殺されるかもしれない。そんな恐怖がなかったのは、恐らく……それほどまでに私のヴォンを守りたいという思いが強かったのだろう。
そんな私の思いが届いたのか……少女の動きが止まった。それと同時に、ヴォンをじっと見つめていた蝙蝠の視線が外れた。
ヴォンはまだ状況を完全に呑み込めていないのか……少女と私を交互に見つめる。ヴォンはなぜ私が深い傷を負っているのにもかかわらず、こうして頭を下げているのかも理解していないのだろう。少女の視線は完全にこちらへ向いていた。
少女はゆっくりと私の方へ向かってくる。狼人としての優れた感覚器官が、ピリピリと私に危険を知らせる。少女は私の目の前までやってくると、私の目線に合わせるようにしゃがんだ。
私を見つめる少女の瞳は片方だけが不自然に暗闇で赤く光っていた。少女はとても優しく……しかし冷たい声で言い放った。
「その代わり……? 今のあなたに一体何ができるの……?」
少女のそんな言葉は私の中で響き渡った。何も言い返すことは出来なかった。実際その通りだったし、もしも間違っていたとしても……私は何も言い返さなかっただろう。
もしも瀕死の私に何かできるのだとすれば――せいぜい、それはこの少女の糧となるくらいだろう。しかしそれは意味のないことである。私がわざわざ差し出さなくとも、少女はそれを得ることが出来るのだから……
「なん……でも――私ができることならなんでも――ですから……お願い……します……」
全く意味のない言葉の繰り返し……ただ懇願をするだけで、この少女を納得させることは到底できないだろう。しかし、今の私にはこれしかできなかった。
しかし幸か不幸か……私にとっての幸運は、この少女が普通の吸血鬼とは違ったこと。そして、不幸はというと――それもまた、この少女が普通ではなかったということだろう。
しかし、死ぬよりも不幸な事などありはしない……そう考えると、私は結果的に幸運だったのだろう。
少女は口元にニヤリと笑みを浮かべた。それは彼女が蝙蝠に向けていたものとはまた違う……嫌な感覚がした。
少女が手をかざした。跪く私に向けられたその手――私は今にも殺されるのではないかという感覚に襲われていた。
その瞬間――私は自身の体に何かが流れ込む感覚を感じた。それは、まるで穏やかな川の流れが突如として流れを変え――激流となったような……そんな感覚だった。何かが私の全身を駆け巡る。体が焼けるような熱を感じ、体全体が一度バラバラになってしまいそうな……
そう思ったのも束の間……私の中で暴れまわっていた何かは嘘のように静まり、穏やかな感覚とともに……私を苦しめ続けていた痛みがさっぱりと消え去ったのを感じた。
信じられない……と思いつつも、私は恐る恐る自身の腕を自分の腹に当ててみた。身に着けていた服に付いた血の冷たさを感じた。気持ち悪く張り付いたその服とは裏腹に……確かに、自分の体には元々なかったかのように傷が消え去っていることを私は感じた。
一体何が――
私がそんなことを思っていると、その様子を変わらない表情で見つめていた少女がゆっくりと口を開いた。
「それで……なんでも、してくれるんですね?」
先程とは明らかに違う少女の言葉の言い回しに、私は少し疑問を抱いた。しかし、その後の少女の一言が私のそんな感情をすぐに吹き飛ばした。
「それなら……あなたのお仲間のところへ案内してくれますか?」
その瞬間――私は自分の過去の行動に後悔をした。自分はどうなってもいい……そんなことを思って言った言葉が……まさか自分の仲間にまで及んでしまうことになるとは――
少女の言葉には先ほどまでの冷たさはなく、優しく丁寧な言葉だった。そんな言葉とは裏腹な恐ろしい彼女の言葉に、私はかえって言いようもない恐怖に襲われていた。
「集落の他の者には……どうか何も……」
「……私はあなたの仲間に手を出さないとは言ったつもりはなかったのですが……」
少女の言葉に優しさはなかった。その言葉の冷たさは、既に傷ついた私の心をさらに抉った。今の私にできることは……ただ集落の方へ向けて歩いていくことだけだ。
そのことを何も知らないヴォンは……私の様子を不思議そうに見つめていた。




