血の招待
「部屋の数なんて一つでいいでしょう? 見たところ……冒険者たちは四人で一部屋みたいよ」
私の言葉をシャナクは断固否定という立場を崩さなかった。
「お嬢様をこんな者と一緒にするなんてできません! ただですらこんな……平民の宿に!」
「宿が満足いかない理解できます。しかしこんな者とは……少し言い過ぎでは」
シレイは言いにくそうにそう言って眉根を寄せる。シャナクの言葉の意味が私にはわかる。シレイ――彼女が嫌なのではなく、人間と一緒なのが嫌なのだろう。それにこの宿は決してみてくれが良いものではない。
ここには冒険者たちも盛んに出入りしているようだ。私たちとともに来た冒険者たちに違いない。彼らにとってはこれで十分だろうし、私もあまり気にするところではない。しかしシャナクにとっては我慢できないものだろうことは今まで彼女のことを見てきた私にも何となくわかる。
「ですがシャナク様の意見には賛成です。見知らぬ人間が幼いお嬢様と一緒に寝泊まりするというのは……少し気が引けます」
シレイがそういうとシャナクが小さく頷いているのが分かった。私にも同意を求めるような視線を向けるが……私はあまりシレイから目を離したくはない。王国内の脅威に彼女は狙われているようだから。しかし私にはシャナクに聞きたいことがある……シレイの前ではできないことだ。
「……わかりました。でもシャナク、ちょっと」
そういって私はシャナクに視線を飛ばす。シャナクはそれで察したのか、私の傍まで来て私の口元に耳を寄せる。
「シャナク……シレイを監視できる?」
「もちろんです。私もそうするつもりでした」
宿の部屋を二つ取り終え、私とシャナクはシレイと一度分かれた。部屋の扉を閉め、周囲を一度警戒してから、私は気になっていたことをシャナクに尋ねた。
「シャナク……少し聞きたいことがあるの」
「……あの事でしょうか?」
「シレイはあなたのことを知っているようだったわ」
「あの人間とは魔鉱石の取引のために何度か会っています。高純度の魔鉱石ですので王族と取引をいたしました。その仲介人としてシレイが出てきました」
……魔鉱石? 一体シャナクは何の話をしているのだろう。彼女が私の知らないところでいろいろ行っていることは、何となく察していたが。王族の仲介人とは、やはり、あの人間は……
「他国の情報、それに人間の通貨。あの時わかったのはそれだけですが、アクセリア様の望むものを集めるため努めてまいりました」
そんなことを言っていたのだろうか……私は。いや、確かにそれらは私にとって必要だっただろうし、今でも必要だ。
「それじゃあもう一つ……シレイに言っていたもう一人の護衛というのは誰? そんな者はいないと思うんだけど……」
「それはカルムのことです。先んじてアラスブ王国に送り込んでおいたのです。もうすでに盗賊団のアジトを探しているはずです」
「あの子があなたよりも強いの?」
「まさか? もちろんあれは嘘ですよ。それにあれには大きな期待もしていませんし……ですが私の眷属よりはアクセリア様の力の恩恵で戦闘力があります」
シャナクの眷属は翼の生えた小さな蜘蛛で偵察能力に優れている。戦闘力は弱小な魔物以下であるが、高速移動の可能な小さな体格の蜘蛛だ。発見することは容易ではない。そんな彼女の眷属の連絡が途絶えた――すなわちやられてしまったということは、敵にも優れた索敵能力があるのだろう。確かにカルムはあの小さな蜘蛛たちよりかは強いと思うが……
「見つかるのは避けられないでしょうね……カルムは大丈夫かしら」
「素質はあるように思えました、陽動になりますし……それに一応、連絡用としても私の眷属を一人つけておきました。生意気な害虫ですが、それで死んだとしても、その程度だったということでしょう。一応でもアクセリア様の力を受けたものを失うのは痛いですが……」
「別に構わないわ、あなたがそれでいいと思うのならね」
シャナクは少し後ろめたい気持ちがあるように顔をそむけた。彼女はいつからかよくこんな顔を浮かべるようになった。何か私に隠し事でもあるのだろうか。
いや……シャナクを疑うことなど時間の無駄だ。彼女は私のために十分すぎることをしてくれている。
私は視線を外すようにそむけられたシャナクの顔をのぞき込む。一度目が合うと私の探るような視線に気が付いたのか、シャナクはそれ以上目をそむけようとはしなかった。私は浅い息を吐くと、頭の中に引っかかっていたある事を口にする。
「ねえ……盟約というのは何?」
シャナクの表情が分かりやすく歪む。彼女がこのような顔をすることは多くない。おそらく彼女の中でも答えはないのだろう。無知な私にわかるはずもない。
シャナクも知らない、という私の落胆を察したのか、シャナクは焦ったように言葉を並べる。
「お……王都ヴァンテールが何か大きな影響を他国に及ぼしているのは察していました! 国というには小さすぎるあの国が皇帝を有し、まるで国々の中心のようにふるまっているのも……」
「皇帝?」
「はい……どうやら普通の王とは異なるようで、表にもほとんど出てくることがありません。顔を知っているのは国の上層部の人間のみで私がいくら調べてもそれ以上の情報は得られませんでした」
そういってシャナクは不満げに黙り込んでしまう。それ以上の調査は自分や私に危険が及ぶと感じたのだろう。シレイは私を枢国家の貴族だと言っていた。彼女は私がセリオン王国か王都ヴァンテールの貴族だと考えているはずなので、枢国家とはその二つのどちらかを指すのだろう。確かにその二国は他の周辺国に貿易の中心地として大きな影響を与えているが……それ以上の何かがあるのかもしれない。
そんな答えの出ない問いに頭を悩ませていたころ、私の思考を遮断するように不穏な流れを感じる。平穏を保っていた魔力の流れがわずかに乱れた。私のすぐ後にシャナクも気が付いたのか、ある一点を強くにらみつける。ちょうど窓枠から少し離れたところ……目には見えないが確かにそこに何かがいることが分かった。
「お待ちください、あなたたちの敵ではありません。しかし、このように外から部屋の中に侵入することは決して人に見られてよいものではありませんから」
平坦な声とともに、人影がぬるりと空間から滲み出るように現れた。
「日もまだ沈み切っておりませんし……」
そういいながら彼の視線は私を見つめて離れなかった。そこに浮かぶのは懐疑の目だ。
「このような状況は慣れているのでしょうか?」
「……」
この男はどうやら私が全く驚いていないことに疑問を感じているようだ。男の言葉に私は少し失敗したと思った。
「おっと、これは申し訳ない。ここでは関係のない話でしたね」
男は柔らかい物腰でそう言った。この人間は顔つきを見る限り若くはないようだが、その割には体つきがしっかりとしている。薄汚れたマントを身に着けているが、その下には金属製の軽防具を身に着けている。素材の質はなかなかのものに見える。
「話はシレイ様より聞いております。自分の協力者であると……単刀直入に言えば、あなた様の話は信用ならないので私たちの拠点に一度顔を見せろ」
男の目が鋭く細められる。その冷たい視線に私は思わず、次の言葉を言いよどんだ。しかしそんな鋭い視線は次の瞬間には、元の優しい目に戻っていた。
「――そう、私たちの頭が言っております」
「頭?」
「はい。シレイ様も含む、私たちをとりまとめ導いてくれている方です」
男の物言いはどこか釈然としない。まるで何かを隠しているようだ。自分だけの判断では懸念された私はシャナクの方に目をやった。しかし彼女も答えを決めあぐねているようだった。
「お嬢様……どういたしましょう」
「シレイ様は……なんといっているのですか?」
わたしの言葉に彼は小さく息を吐き、落ち着いた様子で言った。
「シレイ様は私たちの決定に従うとのことです。シレイ様が報酬としてあなた様方に示した知識――それはシレイ様の一存で決められることではありません」
その言葉に私はひどく違和感を覚えた。だが、この男はその違和感をまるで気にしていない、隠すつもりもないようだ。何か強い川の流れのようなものを感じる。このままこの男の言う通りにすることが正しいのだろうか。いつでもシャナクに頼ることしかできない私は自分の無能を呪いながらも、現在私の思う最善をとった。
「シャナク、行きましょう」
「よろしいのですか?」
「仕方がないわ……報酬がもらえなければ元も子もないもの」
私がため息をつきながらそう言うと、男は満足そうに微笑んでから私たちに背を向けた。こちらのことを背後から襲われないと確信している程度には信用しているのか……あるいはそれだけの自身があるのか……
「私はシレイ様に結果をお話ししてから外へ参ります。お二人はシレイ様と一緒に外へお願いします」
男は魔道具を取りだす。おそらくは体を隠すためのものだ。今はまだ人通りもそこそこの夕暮れ時だ。下手な動きを見せれば怪しまれてしまうためだろう。私は最後に疑問に思っていたことを口にする。先ほどの違和感の正体はこれだろう。
「それにしても……あなたたちは随分と国の宝を好き勝手出来る立場にあるのですね。私たちの要求した報酬はシレイ様の一存で決められるものだと思うのですが……」
彼女は魔眼の研究をしており、私の要求した報酬も彼女の研究によって生まれた知識に他ならない。そこにはもちろん彼女の師であるアルバード・アトラスのものも含まれているだろうが……少なくとも外野が口を出せる範囲ではないはずだ。もちろん、例外もあるが……
「それにあなた……シレイ様もそうですが、普通に暮らしていて身につく振る舞いではありません」
「……同意はいたしましょう」
それ以上彼が私に言葉をかけることはなかった。開け放された窓から身を乗りだすと、少し目を離した瞬間にその姿は消えていた。おそらく隣のシレイの部屋へと今度は向かったのだろう。やがて、今度は正しい部屋の入り口からシレイが顔を見せた。その表情は焦っている様子だったが、それでも慌てふためくようなことは決してなかった。
「このようなことになったのはお詫びする他ありません」
「構いません。それで、これからは?」
「本来……私の仲間の拠点はここからいくつかの街を超えた先にあります。砂漠上の足であるグロムを使っても半日は……」
その言葉を聞いて私は少し憂鬱な気分になった。これではかなり当初の予定から狂ってしまう。しかしその不安は次のシレイの発言によって一部は取り払われる。
「ですので転移の魔道具を利用します。片道で壊れてしまう使い捨てですが……しっかりとお二人をこの街に返します。うまくいけば数時間で戻れるでしょう」
「そう……私は問題ありませんが。いいのかしら、使い捨ての魔道具なんて。魔道具は貴重なものではありませんか?」
魔道具は人間たちの間では高価で取引される。それはこと魔力に馴染みのない人間ゆえのことだろうが……魔道具に近しいこの国といえ、決して簡単に使い捨てることができるものではないはずだ。
「心配はご無用です。今回はお二人の存在が下手をすれば国の存亡にもかかわる緊急時。これくらいは軽いものです」
シレイは笑って私の言葉を流して見せた。しかしそこにはあまり余裕を感じられない。やはり完全に割り切れるものではないらしい。
「でも、一つ気がかりなこと……もう一人の護衛? 盗賊団を処理するはずですが、私たちがそれを置いて遠くに行ってしまうのは心配ですね」
私はそう言いながらシャナクの顔を見た。不思議なことに、シャナクの表情にはひどく動揺が浮かんでいた。彼女がこのような表情を見せることはそうそうない。
「……何かあったの?」
「い……いえ、お嬢様が心配することではありません。少々……問題が起きたようで」
シャナクはそんなことを言って、それきりこの話題に触れてほしくない様子だった。それはまるで私の言及を避けているようだ。まただ……彼女を疑ってなにもよいことなどないのに……
「それではまいりましょう。私もあの人を説得できるよう尽力いたします」
「……そうですね」
転移の魔道具によって移動した先は随分と人気のない町だった。もう時間も遅いこともあるだろうが、それにしても閑散としすぎている。建物の密度も先の街よりも薄く、地面に近しい色を浮かべた焼きレンガの住居が広大な砂岩の大地に佇んでいる。
私とシャナクの前をシレイが無言で歩いていく。周囲をぐるぐると見まわすその目には鋭い緊張の色が宿っている。先ほど私の部屋にやってきたあの男も一緒にやってきていたはずだが……いつの間にかその姿が消えていた。
「国の有事ですから……気の休まる場所なんてありません。さあ、つきました」
シレイは疲れの垣間見える声で私たちに言った。私たちの前には一見廃屋にしか見えない建物が佇んでいる。しかしそこから感じられるのは確かな魔力の気配。この建物には強力な魔法がかけられている。
シレイは私たちのほうを軽く見やるとすぐに建物の壁に手を触れて何かをしている。なかなかに手間のかかる作業だろうが、そのわりには彼女は作業に集中しきれていない。ちらちらと周囲を見渡しては再び作業に取り掛かり、そしてまた目を壁から逸らす。それを随分と鬼気迫る様子でやっているのだから、彼女たちの状況というのがよくわかる。
おそらく、この場所は彼女とその仲間にとって……最も重要なものなのだろう。見たところ彼女たちの敵である盗賊団らしきものはいないが、ここまで注意するという……それは相手の危険度を上げるべきではなかろうか。盗賊団、あるいはその後ろにいる者は私の思う以上に油断ならない存在なのかもしれない。
やがて長い作業を終え、廃屋の表面に魔法陣が浮かび上がる。見ただけでも複雑そうに見える魔法陣が三重になっている。こんな魔法を使える人間がここにはいるとは思えないが……やはり魔道具によるものだろうか。
廃屋の影がまるで空気に溶け出すように薄れていく。代わりに現れたのは巨大な屋敷。セリオン王国の貴族街ほどではないが、それを思わせるような小綺麗な外観。
こんな巨大な建物が巧妙に隠蔽されていたとは驚くほかにない。しかし、果たしてここまですることなのだろうか……私の脳裏には一種の不安がよぎる。相手は優れた探知能力を持っている。シャナクの眷属がすべて行方不明になったという話から想定はしていたが、やはりシレイの警戒ようを見てもそれは間違いないだろう。まさか……今、私たちがここにいることも……
反射的に私は魔眼を発動して周囲を見渡していた。しかし怪しいものは何も見えない。魔力の貧弱な人間の魔力すら見ることのできるこの眼で見えないのならば、この周囲に怪しい魔力の塊はないに違いない。しかし、私の不安が拭えることはなかった。
その後、私とシャナクはあまり好意的でない視線にさらされる。彼らは十人程度のグループでまとまって、毛布を分け合いながら食事をとっているようだった。小綺麗な外見に対して中身は悲惨なものだ。この屋敷は冷え切った夜の砂漠の外気を十分に防げていない。吸血鬼である私にはあまり影響はない程度だが、人間にとっては不快なものだろう。それも明らかに衰弱している彼らには……
彼らの食事は黒く変色した肉、乾燥した平たいパンに色の薄いスープだった。大皿に乗せられたそれを分け合いながらほそぼそと食べている。彼らには奪い合う気力すらもなさそうだった。
「我々のように外で行動できる者はもう少しましな食事ができますが、力のないものはああしているしかありません。盗賊団にもし敵対されてしまえば……殺されるだけでは済まない」
シレイが盗賊団に襲われていたように、盗賊団に敵対されて逃げることもできなければ殺されるか、最悪の場合はここの情報を漏らされてしまう。それを防ぐためにシレイをはじめとした外で活動する者たちは彼らを外には出せないでいるようだった。
「たとえ……彼らが王宮のある都市に行ったところでろくな生活はできないでしょう。あそこにもうまともな仕事は残っていないし……いつ命が脅かされるかもわかりません」
外に出るものは限定的になってしまうため、シレイのように盗賊団側に顔を覚えられていしまっているものも少なくないようだ。
「もともとはこの街も栄えていましたが、都市があの状況です。今はどこもこのような状況でしょう。今から10年ほど前から……人は国を出るか、死ぬか……最後はそんなところでした」
「住民はこれで全部ですか? それにしては随分と少ないように見えますが」
「自分で食料確保の手段を持っているものはここにはいません。もっとも、そういった者たちは国を早々と出ますから……今、都市以外の街に残っているのは自分の土地を持っている富豪がほとんどでしょう」
なるほど、彼らをこうして匿っているのは助けるためだけではなく監視の意味もあるのだという。このような地獄としか思えない生活を送っていてここを出たいと思わないはずもなし――彼らの好意的でない視線は必ずしも私とシャナクに向けられたものではないということか。
やがて、シレイに連れられた私たちはとある一室にたどり着く。街の住民たちの生活のために散らかった先ほどの広間とは違い、この一室は幾分整っているように見える。部屋には神経質なほどに積み上げられた資料の数々に血の滲んだ壁面が峻烈なこの国の実態を現わしているようだった。
「サルタ兄様、彼らが先ほどお話しした方々です」
サルタと呼ばれた男は、資料が乱雑に散らばった机の上から目を離す。その目はシレイとよく似た鋭く油断のできないものだ。サルタはシャナクを見つめて少し表情を緩めたように見えた。しかし次に私に視線を移したサルタはあからさまに警戒心を強めた。
「……信用に値しない」
「兄様……」
「シレイ、まさか疑問に思わなかったわけではあるまい。国の一大事を一貴族の身で解決しようなどと怪しいにもほどがある! 王国に事情を話し、聖騎士の力を借りるのが一番だろうに」
「それは……そうですが」
そう言ってシレイは私に後ろめたそうな目を向ける。その瞳には確かな懐疑が込められていた。ここに来てから私にとってもシャナクにとっても予想外のことが起き過ぎている。私もこのようなことでごまかせたとは思っていなかったが、それでもここまで不信感を露わにされるとは思っていなかった……
「果たして……セリオン王国も王都ヴァンテールも、この現状を認識していないのでしょうか?」
私はずっと疑問に感じていたことを口にした。そんな私の言葉にサルタの表情からは若干懐疑心が引き、代わりに呆れたように息を吐いた。
「知っていて放置したというのか、ありえん。そもそも我が国は国交も少ない。ただですらこの国は貧しいのだ。魔道具の生産が滞って活気のなくなった現状を見ても、疑問に思う者は少ない」
果たして本当にそうだろうか……サルタは実際他国の者ではないし、私はすぐにこの国の異変に気が付いた。貧しいことこの国に慣れている彼の目から見れば違和感などはないのかもしれないが、意外と国の異様さは顕著なものだ。
サルタの言葉にはどこか作為を感じる。彼は自分の国が他国から見捨てられたことを信じたくないように思える。
「そう……私はすぐにおかしいと思いましたが。ですが、もしもこのことを知っていたとしたら? 国の異常を伝えて聖騎士に助けを求めるような輩がいたら?」
もしも私の考えが正しいのならば、アラスブ王国のこの現状を他国は知っていながら知らないふりをしているはずだ。最もこの国と関わり合いのあるセリオン王国は知っているだろう。そこに隠している国の真実を言いふらすようなものがあれば必ず口封じをするはずだ。何より……吸血鬼である私が今、あの国に行くことは非常に危険だ。
「自分が殺されるから、自分たちだけで解決しようということか? つまらん憶測だ」
「でもそれで済むならば余計なリスクを冒す必要はないでしょう?」
「王都はこの国を見捨てるということか」
「さぁ、様子見というところでしょうか?」
サルタは静かに私の表情を窺っている。こちらが嘘をついていないか観察しているというところだろうか。私の推測に嘘はない。嘘があるとすれば……私が人間であり、貴族であるということだろうか。いくらサルタが鋭い目を持っているとはいえ、このことを私の表情から見破ることは叶わないだろう。しかし……何か失敗しただろうか。彼は瞳に浮かべた闇をより深くする。
「兄様……」
「……それでも私はあなたを信じることはない。何よりあなたの言葉には一番大事な部分が欠けている。一体どこに様子見をする意味がある。魔道具の生産国である我々からの心象が悪くなるだけだろう」
確かにサルタの言うとおりだ。だが、それを差し置いても一国を救うためにかける労力は計り知れない。たとえ魔道具のことがあるとはいえ、簡単に戦力を向かわせることなどできない。それなのに何故……サルタは自分の国が助けてもらえると信じて疑わないのだろう。
「話はそれだけか。そちらはそちらで勝手にやるがいい。止めはしないが協力もない。シレイ、お前もこのような者の傍にいる必要はない」
「しかし兄様! このまま何もせずに国が衰退していくのを見ているだけですか!」
「策ならば考えている」
呼び止めるシレイに目も向けず、サルタは冷たい視線を私に向けた。これ以上の話をする気はないようだ……
終始不機嫌そうな表情を浮かべていたシャナクに目線を送ると部屋から出ることを伝えた。シレイはまだサルタと話をするつもりだったようだが、彼女とは少し話をしなければならない。
「作戦の話をしよう」
「シレイ様には話されないのですか?」
「あの子を危険にさらしたくない」
そう口にするサルタの表情は、先ほどアクセリアと対した際と大きくは変わらない。しかし確かに、そこには感情が含まれていた。
「あれだけ自信を持って言えるのだ。奴らのもう一人の護衛というのは相当の腕前なのだろう。事実……あのシャナクの力も並大抵のものではない。シレイからの話によれば二人の盗賊団員を一瞬で倒したという……」
サルタは再び、険しい表情で続ける。
「フィグリス、お前にはあの女はどう映った?」
「アクセリア様ですか?」
「ああ、私には何か隠しているようにしか見えなかった」
サルタの言葉には確信が含まれていた。その強い感情にフィグリスは視線で肯定を示した。
「そうですね……私には彼女の言い分を完全に否定することはできませんでした。事実、王国には10年以上前から怪しい動きがありました。それが一切外に漏れることがなかったなどとは言えないでしょう」
「やはり、お前もそう思ったか」
サルタの言葉にフィグリスは無言でうなずいた。それからすぐに、フィグリスは何か腑に落ちないことがあるように、小さくうつむいた。その様子からサルタはフィグリスの意を察した。
「ですがあの振る舞いには疑問が残ります。確かに年齢の割には聡明ですが、貴族らしくはありません。シレイ様の話でも他国の民を殺そうとしたとか」
「それも子供だ……何より、枢国家の貴族だという割には発言に躊躇がなさすぎる。自国が盟約を破っていることをあそこまで声高に宣言するのだ。枢国家の貴族だというのは嘘に決まっている」
サルタの言葉に同意するように、フィグリスは眉をひそめた。
「あの合理的さは王族に通ずるものがあるが、それとも少し違う。そうだな……ちょうど」
その瞬間――部屋の戸を叩く音が聞こえた。それが誰によるものなのか、二人とも理解しているようだった。二人は互いに目配せをすると、フィグリスがドアの向こうの相手を出迎えるために向かった。
「答え合わせは後にするとしよう。いずれにしろ……黒幕に会ってみればおのずと奴の正体も見えてくることだろう」
「アクセリア様……兄ともう少し話をさせていただけませんか?」
「あの様子では話し合いは無意味でしょう。約束通り、顔は見せたのです。これ以上は不要です」
理由はわからないが、サルタは異常に私を警戒していた。国の一大事なのだ。シレイの様子を見ても、状況の好転のための有効な策はないように思える。あの猜疑も理解できないことはないが……それにしても藁にも縋る思いではないのだろうか。まさか……私の正体を見抜いた、ということはあり得ないだろうが。
「……問題が解決すればいいだけです。私に興味があるのはそれ以降……」
シレイの表情が少し曇る。人間の集団を滅することに苦はない。問題はその後……シレイは私との約束を果たしてくれるのだろうか。
「兄と話し合わなければなりません。国の宝ともいえる知識をそう簡単に渡すことは……」
「国を救った英雄に渡すものとしては十分でしょう。それに……その許可を出すのはあなたの兄ではないでしょう」
現在の国の荒れようを見るにろくに王は働いていないようだが……生きているのならば彼を説得すればいい。死んでいるのならば……それもいいだろう、国が混乱しているうちにもらうものをもらってしまえばいい。
「アクセリア様は魔眼について知りたいと言っていましたが、それでは曖昧過ぎます。膨大な資料をすべて渡すことはできません。それに極秘情報のやり取りですから、お二人には契約を結んでもらう必要があります」
契約という言葉に私が首を傾げていると、隣のシャナクが小声で補足をしてくれた。私がカルムに対して行ったものと同系統のもののようだ。大きく異なるのは、あの時とは違い、私とシレイは対等であるということだ。
どうするべきだろうか……本当ならば私の右眼を調べてもらいたい。しかし、そのためには私の眼について説明をしなければならない。これを見せることで私の正体が見破られることはないが……
「契約は構いません。ここは人目が多いので……外に出ましょう。見せなければならないものがあります」
「見せなければ……? それは私との契約に必要なものですか?」
「その通りです」
私は静かにシレイの目を見つめて言った。そんな私に何か感ずるものがあったのか、シレイは不思議なほど神妙に私の後をついてきた。彼女も少なからず私のことを疑っていると思うのだが……サルタほど私に警戒心は抱いていないようだ。やはり……助けられたことが影響しているのだろうか。
生気の薄い視線を浴びながら、私たちは屋敷の外へと出た。陰鬱な空気が頭の上からのしかかる感覚を覚えた。困惑の色を見せるシレイに私は右眼の力を開放して見せる。途端に暗闇に包まれた視界は晴れ、若干恐れを覚えるほどに世界が透き通った。
「そ……それは……」
私の眼を見た瞬間、シレイは驚いたように目を見開いた。これが何かを知っている反応だ。
「魔眼……」
「やはり……あなたの目から見てもこれは魔眼ですか?」
「はい……私のよく見知っているものとは違いますが……もしかして、魔力が目に見えますか?」
「ええ……あなたは人よりも魔力が多いようですね」
シレイの魔力は人間の中では多いほうだ。そうはいっても、魔物に比べれば微々たるものだが。私とシレイの一連のやり取りを見ていたシャナクは、不安そうに私に視線を送る。
「お嬢様……」
「今躊躇っても意味がないと判断したわ。私はもともとこの右眼について知りたかったの」
私の言葉を聞くと、シャナクも納得したように、それ以上は何も言わなかった。
「……アクセリア様、もう分かりましたから……それ以上無理をなさる必要はありません」
「……?」
そんな時、まるでそれが当然かというようにシレイはそんなことを口にした。一体シレイは何を言っているのだろう……
「そのままでは立っていることも難しくなります……魔眼の魔力を抑えることはできますか?」
その瞬間、私はシレイの言葉の意味を理解した。眼の周りを奔流のように流れていた魔力を私は冷静に拡散させていく。やがて透き通っていた視界はグラスが水滴によって曇るようにぼやけていき……元の薄暗い景色が広がった。
「私も実際に魔眼を目にするのは初めてです……アクセリア様の右眼には確かに魔力の流れとともに魔法陣が浮かび上がっています。それが魔眼である何よりの証拠です」
シレイによれば、魔眼は魔力を与えることで活性化させることができる。その際、魔眼に刻まれた特殊な魔法陣が浮かび上がるようだった。そして眼が宿す魔力量によって魔眼の色は白から青から、青から紫へと変化していく。それはあの本で見た内容と同じだった。そして確信できたのは私の赤い魔眼はやはり特殊であるということだ。
魔眼はその発動にも維持にも膨大な魔力を必要とし、それを発現した子供は多くが死に至る。特に人間で魔眼を有しているものは極めて少なく、大体が幼いころにコントロールができずに魔眼に魔力を吸い尽くされて死んでしまう。
「それゆえに魔眼は不吉の象徴と称されます。アクセリア様もご苦労をされたことでしょう……」
シレイが憐憫を込めた視線を私に向けた。そんな覚えもない哀れみに……なぜか私はとても心が痛くなった。怒りなどではない……あの洞窟で目覚めてより一度も感じたことのない感情だった。
「アクセリア様」
その声に私はふと現実に引き戻された。シャナクの表情はひどく焦りを含んでいた。私の呼称にすら気を使えないほどに……
「……申し訳ありませんが、今すぐに宿に戻ります。アクセリア様は宿には戻らず……どこか安全な場所で待っていてください」
「シャナク、どういうこと?」
私の問いにも答えず、シャナクはシレイに鋭い視線を向ける。それはもはや命令に近しいものだった。首を縦に振ることすら許されず、シレイは転移の魔法陣の準備を始めた。
「待って、シャナク。私に何も話さないつもり?」
「……向こうについたらお話します」
一向に私の言うことを聞こうとしないシャナクに、私はだんだんと苛立ちを覚え始める。その間にシレイは転移の準備を終えたようだった。困惑の表情を浮かべながらシレイは言う。
「準備は……できました、シャナク様。ですが、アクセリア様にお話しされなくてもよろしいのですか?」
「……後にさせてください」
「シャナク! 一体どういうつもり!」
珍しく私は声を荒げた。抑えきれない感情だった。それは怒りよりも、先に焦りが表に出たことによるものだった。シャナクの様子は明らかにおかしい。あの時の……ボロボロになって戻ってきたシャナクの姿が脳裏に浮かぶ。
乱暴に私が掴んだ腕をシャナクは落ち着いた様子でよけると、とても穏やかな声で言った。
「アクセリア様、こちらを……私が生きているうちはこの私の眷属も生きているでしょう」
その言葉に私は頭が真っ白になりそうだった。この様子ならば、シャナクが何かに気づいたことは確実だが……なぜそんなことを言うのだろうか。
「アクセリア様は気にする必要はありません。ただ……私の眷属との連絡がちょうど途絶えたところなのです。おそらく敵がいます……私の眷属を見つけ出して殺すことのできるほどの相手です。三人で接近すればばれてしまいます……その人間がいる限りは」
そう話すシャナクは至極冷静で――動揺していた私が恥ずかしくなってきた。彼女の言葉に違和感はない。確かにシレイはただの人間だ。私たちのように素早くも動けなければ敵に簡単に殺されてしまうかもしれない。正直言って邪魔だ。それならばシャナクが一人で行ったほうがいいのではないか……そう思えるものだった。
「シャナク様、ほかの宿ならば私に当てがあります。少々……不便な場所ではありますが」
シャナクはシレイの言葉に一瞬不満の感情を浮かべたが、安心したように背を向けた。向かう方向は宿屋の方向だ。
シャナクは、ああ言っていたが……何かを見落としているようでならなかった。私とシャナクの数歩の距離ではない……何か透明な隔たりがあるように思えた。
その後、私はシレイに連れられて臨時の宿についた。十分な家具もなく、貧相な寝具がいくつか置かれただけのこの場所はもしもシャナクが見れば悲鳴を上げそうなものだった。シャナクはああ言っていた。私もあの時は納得したはずだった。にもかかわらず、私はむずむずと神経がいら立つ感覚を覚えていた。そう――血のためだろうか。思い出せば体に軽いだるさを感じる。そういえば最近は口にする血も少なかった。この国までの移動中も普段よりもずっと少ない量の血で済ませていたし、今日はそれすらも口にしていない。
「アクセリア様……気持ちも分かりますが、今は休みましょう。その魔道具が動いている間はシャナク様も無事なのでしょう」
シレイの視線の先には窓際でシャナクから渡された眷属の蜘蛛が静かに蠢いていた。確かに、本物の蜘蛛を渡されたとは思わないだろう。
「……分かりました、休みます。ですから……一度、私の寝台に入ってはいただけませんか」
「寝台に? ……! なるほど分かりました」
何かを察したようにシレイは迷いなく私の傍にやってくる。その表情は穏やかなもので歩に迷いはない。私の思い通りだった。
「私は経験がありませんから、シャナク様には叶わないでしょうけど……アクセリア様が安心して休めるように努力いたします」
シレイは枕元に腰を掛けると、私のほうを優しく見つめる。その表情には昼間感じていたような懐疑心は一切感じられない。そう、この人間も……シャナクでさえも、私に向ける本質的な感情は変わらないのだ。
「さあ、こちらへ」
シレイに促されて私は体を横たえる。すぐ頭の隣にシレイが腰かけている。彼女はまるで水の泡を撫でるかのように、とても気遣った様子で私の体に触れる。そして安心させるように私の背中を撫でてくれた。私の心は彼女の行動に、何も感じることはなかった。時間が過ぎるほどに焦慮が強まっていく。
「シレイ」
「はい……?」
その瞬間、まるで積み木が崩れ落ちるようにシレイは寝台に倒れこんだ。周囲に漂う魔力が、先の魔法の余韻として残っている。
私は静かに寝台から起き上がると、小屋の扉を開ける。砂漠の夜の冷え切った風が吹き込んでくる。不毛な大地に築かれた街並みが今は静まり返り、道を行く人の姿はほとんどない。私は魔眼を発動させると、建物の影の先にある一つの建造物を目にした。心地のよい月光を浴びた瞬間、私はひどい悪寒に襲われた。
宿屋にたどり着いた。自分の心臓の鼓動がこれまでにないほどに高まるのを感じた。まさか……他人のことでここまで自分が動揺するとは思わなかったのだ。心を満たしていた無数の弦が今ではほとんどが切れ、心もとない数本の弦が張られている。少しでも衝撃があれば切れてしまいそうだ。
地面がこすれる音が聞こえ、心なしか重みを感じる扉を開いたとき――周囲の音が一瞬にして虚空に吸い込まれた。短く高い――水の飛び散る音が聞こえた。
宿屋の状況は悲惨なものだった。原型をとどめない血肉が飛び散り、床は足元が浸るほどの血で埋め尽くされている。夜の闇からも遮られたこの建物の中……視界が薄暗くてよかったと私は感じていた。もしもここが光のともった空間だったのならば、鼻腔を突き抜けるこの濃厚な匂いに私の理性は敵わなかっただろう。今すぐにでも、地面を這いつくばりこの大量の血液に顔を埋めたい……しかしそのような愚行が許されるほど、今のこの状況は楽観的なものでもない。
「……ずいぶんと丁寧なものね」
私は理性を保つように言葉を口にした。これはこの宿屋を運営していた女将の……おそらく娘だったであろうものだ。今では原型を保っているのがやっとなほどに顔が崩れている。そのうえ衝撃によって崩れたような痕跡もない。苦悶に歪んだこの少女の表情が物語っている……何しろこの少女には胸がほとんど残っていない。巨大な虚空が顔を覗かせているだけだ。
「そうなると……あれは女将? あの装備は冒険者のものかしら……」
いくつも転がる肉塊の中に人間の頭部らしきものがいくつか……それに明らかに戦いを想定した防具が転がっている。そしてあの特徴的な長弓には見覚えがある。私の記憶にはあの冒険者の名前すら残っていないが……
見れば見るほどに悲惨な光景だ。どの死体もあまりに損傷が大きすぎるあまりに痛々しさも感じない。なにしろ……そこにはモノが転がっているようにしか見えないのだから。
再び――ぴちゃぴちゃと粘り気のある水音が聞こえる。ここにシャナクはやってきたはずなのだ……まだそこまで時間もたっていない。私は重い足を持ち上げ、濡れた床を踏みしめる。そこにはやはり……水の音が響いた。
まて……それならばさっきの水音は……
沈黙の満ちていたこの空間に突如として張り詰めた空気が降り立った。吸血鬼のこの眼を持ってしても薄暗い視線の先……そこには一人の人物がいた。
彼女は自分とどこか似通った姿形をしていた。自分とよく似た黒のドレス……それに赤を含んでいる。そしてはっきりと観察するのは初めてである……黒い一対の翼。吸血鬼の象徴……そして自分のものしか見たことがないためにこうして客観的に目にするのは初めてだ。
「あら……ずいぶんとお早い到着ね」
「これは……あなたがやったの?」
「そうよ……ふふ、姿がそうなのは知っていたけど……やはり声もかわいらしいわね」
彼女は不敵な笑みを見せると、こちらに注意をむけつつも何かを行っている。どうやら壁に何かを描いているようだった。
「何をしているの?」
「魔法陣を描いているのよ。大きな魔法は事前に描いておいたほうがいいのよ」
荒いヒビの刻まれたレンガの壁には血で描かれた赤い魔法陣があった。時間とともに流れていくはずの血はどういうわけか細微な模様を描いて崩れない。魔法の効果は分からないが……とても楽観視できるようなものではなかった。
「……ここに一人、来たはずよ」
「そうね……でも慌てないで」
そういって彼女は魔法陣を描く指をピタリと止めた。そして軽く壁に掌をかざすと、それに応えるように魔法陣が光を発し始めた。その瞬間――私は一瞬判断が遅かったと感じた。彼女は平然と戦いの準備を始めていたということだ。
不気味なくらいに静かな旋風が巻き起こり、魔法陣はそこら中にまき散らされた血液を吸い上げていく。数秒もたたないうちに、あれほど満ちていた血の香りが消え失せてしまったのだ。
「……」
「後悔したの? 迷わずに血を飲んでおいたほうがよかったんじゃないの?」
彼女の言葉に私は喉の奥に締め付けられるような痛みを感じた。そして思い通りになるのは悔しいが――後悔をせずにはいられなかった。
「吸血鬼は強いから……ましてや上位吸血鬼ならばね……敵となる存在は探してもそうそういないわ。でも油断はしては駄目ね……血を普段から飲んでいないのは余裕の表れかしら?」
虚空を見つめていた瞳が一転して私を見つめている。このように体を貫かれるような鋭い視線を浴びた経験はない。不思議と感情が乱れる……不安がこみあげてくるようだった。
「違うわね……あなたはもっと馬鹿らしい理由……」
「……無駄口はそれくらいにして。シャナクはどこ?」
背中の翼を軽く動かすと、彼女は冷酷な笑みを見せた。そして私の注意を引くように、彼女は視線を少し落とした。
「シャナク……シャナクねぇ……あなたの足元に落ちてるわよ」
嘲笑に満ちた彼女の声を聞いた瞬間、私の背中一面に悪寒が広がっていくのを感じた。屋内は暗いが私の目には十分に見える。湿気を失い干からびた床一面には枯れた肉片の山……その少し上を覆い隠すように焦げ臭い匂いが広がっている。その中心にはおそらく人型の土塊のようなものが転がっていた。原型は確かに保っているものの色はなく、それが生き物であるとは到底思えない。
心の中に不穏な空気が漂う。頭で危険だとわかっていても、手足が勝手に動いていた。魔力はほとんど感じられないが確かに生きている。今すぐシャナクを連れてこの場から逃れてもさしたる問題もない。とにかく……この女から今すぐにでもシャナクを引き離したかったのだ。
しかし、そんな私の動揺を先読みしていたかのように……目の前の吸血鬼は狂暴な笑みを見せた。
体の左半身に強い衝撃を受ける。耳をつんざくような轟音に体が潰れる嫌な音――しかし痛みはほとんど感じることがなかった。衝撃に身を任せるしかなかった私はいともたやすく宙を舞うと、脆い宿の壁に叩きつけられた。ヒビ割れの刻まれたレンガの壁はまるで鋼鉄のようにびくともしなかった。むしろ体と壁とに圧迫された翼から滲む痛みのほうがよっぽど大きかった。
私の体を押しつぶす巨大な質量は赤黒い表面をしており、時折ボロボロと表面が零れ落ちる。やがて、その巨体は明白な余裕を感じさせる動きで私の体を離れていく。今の衝撃で体の四肢がかなり傷ついたが……それでもほとんど影響がないのが吸血鬼という生き物だった。
「国の外で同族に会えるなんて、これは運命だと思わない?」
「……何が目的?」
平常通りとはいかない私の声に彼女はぱぁっと顔を輝かせた。その全く読めない表情変化に私は困惑していた。怒りや動揺が私の中で渦巻いていた。
「目的はあなたよ、アクセリア。一目ぼれよ」
「一体……いつから私のことを知っていたの?」
彼女は流れるような動きで自分の頬に手を触れさせた。ひんやりと体の芯にまで届く寒気に、私は今まで感じていた不安の正体に気が付いた。
「……素敵なお屋敷をお持ちでしょう?」




