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赤眼の吸血鬼  作者: カエルオオカミ
砂漠に巣くう姫
112/131

獣の蹂躙

「おいカルム、シャナク様からだ」

 路地裏に身を潜めたカルムのもとに一匹の蜘蛛が現れる。彼女の相棒たる小さな蜘蛛とは違う……純粋に眷属として生み出された彼らは異形の翼を持つ。どくどくと脈打つ臓物のようなその見た目……カルムは何度見ても気分が悪くなる。

「何?」

「盗賊団のアジトを見つけて、そこの頭領と盗賊連中を殲滅しろだとさ」

「盗賊団って……」

「ああいう連中のことだろうな」

 そういってクモは路地裏の外へ這い出していく。それに従うようにカルムは表通りに顔を出した。どこか寂れた様子の街中には布製の頭まで覆う服を身につけた者たちのほかに、布の下に軽防具を身に着けた者たちがいる。子供にもそれらしき短剣を携えた者がいるが……その恰好はむしろ一般民よりも貧相だ。

「あの子も……短剣を持ってる」

「なんだ、お前も見えるのか? 俺は魔力を使って見ているから見えるが……お前には魔力は扱えないだろう」

「私、目がいいの」

「お前、猫人(ネム)だろう? あれは見えないと思うが……」

「うん、お父さんも、お兄ちゃんも……目がよかったみたい」

 お父さん――そう口にしたときカルムの表情が曇る。

「それで……アジトなんてどう見つけるの?」

「少しは頭を回せ……馬鹿だな」

 クモの呆れたような言葉にカルムは顔をしかめる。地面についた無防備なカルムの腕をよじ登りながらクモは言う。

「まぁ……大した能力も何も持たないお前にできるのは、せいぜい後をつけるくらいか?」

「後をつける……じゃああの子とか?」

 カルムは通りの反対側を項垂れて歩く少年を指さす。

「あれは駄目だな。あれも確かに短剣を持ってはいるが……あんな下っ端じゃアジトへ連れて行ってくれるかも分からん」

 クモは興味なさげにまた周囲を見渡すと、再び少年へと視線を移す。

「それに大方……ああいうガキどもを金か食べ物かで釣っていいように使ってるってところだろう。見るからにこの国は活気がない」

「ひどい……」

 カルムが思わず漏らしたのだろう……言葉にクモは邪悪な笑いを浮かべて言った。

「いいように使われているのはお前も同じだろ」

「……え?」

「お前はあいつらを外から憐れむ連中とはもう違うってことだ」

 クモの言葉はカルムを励ましているようにも(けな)しているようにも聞こえた。しかしクモのこのような物言いは今に始まったことではない。

「分かったらもう少し気配を隠せ。それじゃあ外の連中にばれるぞ」

 クモの言葉にカルムはあまりに身を乗り出しすぎていた自分の姿に気づいた。すでに数人の通行人がこちらの姿に気づいて、歩きざまに怪訝そうな視線を向けていた。

「気配を隠すって……?」

「まったく……猫人(ネム)ってのはそんなことも知らないのか? 魔物から隠れて暮らすにしても無防備すぎるぞ……」

 そういってクモはカルムの腕から飛び降りると、改めてカルムに向き直る。八つの不気味に光る視線がカルムの体を貫いた。

「魔力の放出をなるべく抑えるんだ。とにかくはじめは身を隠して息を殺せ。シャナク様の言う頭領ってのはそんな簡単な相手じゃないはずだ。お前が真正面からぶつかっても勝てない可能性を考えると……身を隠して暗殺に持ち込むのが一番だ」

「クモは? できるの」


「当たり前だ。俺は魔物だぞ? 亜人のお前なんかよりもずっと魔力の扱いに慣れてる」


 やがて二人の前を通りかかった盗賊団員らしき人物が一人――小汚いマントの下に鉄製の防具。カルムのものよりも長く太い剣を腰のあたりから下げていた。かなり周囲を警戒しているようで、目つきは鋭く、自然に周囲の人間が距離を置くようにして通り過ぎていく。

「……あれにしよう」

「ふーん……まあいいんじゃないか? お前の提案の割にはまともだったな」

 カルムは軽く地面を蹴るとあっという間に路地裏の壁をよじ登っていく。猫人(ネム)の身体能力でもこの程度は可能だが、吸血鬼(ヴァンパイア)の眷属となったカルムにとっては容易いことだ。カルムは平らな屋根の上にたどり着くと、手足で屋根を踏みしめながら次々と飛び移っていく。


 目標の盗賊団員はかなりの時間を歩いていた。カルムは数棟先の屋根の上を先回りしながらその後を追っていた。やがて、目標は数人の仲間と合流すると、町の外れへと歩を進めていく。すでに居住領域は離れており、魔物も出始めるような砂漠の上だ。数人の仲間と行動を共にしているのは魔物に対抗するためだろう。カルムも砂漠の魔物とは相対したことはないため、少々の不安が残る。

 まもなく集団のうち一人が装飾として青い宝石のはめられたランプのようなものを取り出した。ランプに青白い炎が灯ったかと思うと、見る見るうちに隠された存在が姿を現す。透明な空間に新たに色を落としていくように、半分ほど砂丘に埋まった地下空間への入り口が現れた。盗賊団員たちはその光景に戸惑うこともなく地下へと足を踏み入れた。

「行こう」

「ああ……そうだな」

 盗賊団員の姿が見えなくなった頃を見計らい、カルムは入り口へ飛び込むように入り込んだ。砂丘から飛び出るようにしていた地下空間への入り口は、背景に溶け込むように今はその姿が薄らいでいる。その様子を見たクモは「お前にしては上出来だ」と小さく言う。

「あれは魔道具によるものだな。隠匿魔法によって入り口を隠すとは……場所も相まってこれでは簡単には見つからない」

 クモの【マドウグ】という言葉にカルムは頭をかしげたが、クモはそれを無視して続ける。

「しかしここから肝心だ。シャナク様は調査に向かわせた眷属との連絡がすべて途絶えていると言っていた。俺もそいつらの仲間にはなりたくない」

「……そんな話は聞いてないよ?」

「そりゃ残念。お前はシャナク様と同じアクセリア様の眷属だ。遠隔の意思疎通は可能なはずだがな。シャナク様の眷属である俺は、すでにシャナク様から連絡を受けている」

 クモはほとんど関心がないように淡々と言葉を続けた。その意味をなんとなく理解できてしまったカルムは恨めしげに街の方に視線をやった。




 地下通路は分かれ道がいくつかあったがおおよそ迷うようなものではない。カルムは迷いもなく通路を進んでいた。

「おいカルム。お前、道わかるのか?」

「ううん、適当に進んでるだけ。でもそれしかないでしょ」

「……お前が亜人の中でも狼人(ウェアウルフ)とかだったならよかったんだがな」

 狼人(ウェアウルフ)は感覚器官に優れている。魔力の流れを感じ取ることも可能なため、このような状況では進む方向の手掛かりを増やすことができる。そんなことを知らないカルムはクモの言葉を適当に聞き流していた。

 やがてぼんやりとした光が両側面の砂岩の壁を照らし始める。自然にできた洞穴のようなこの場所には似つかわしくない、質素なテーブルの上に置かれた蝋燭(ろうそく)があたりを照らしていた。燭台(しょくだい)の上に置かれた蝋燭に、雑にまとめられた紙束だけがこの空間を賑やかしていた。

「そ……そこにいるのは誰だ!」

 燭台の置かれたテーブルに注意を向けていたカルムが声のしたほうに素早く視線を移す。そこには盗賊団員らしき男が立っていた。

「ま……まさか、侵入者!? 早く、お頭に……!」

 男の顔はまさしく恐怖に染まっていた。今にも逃げ出そうと体の向きを変え始めている。カルムはそんな男の隙を見逃さなかった。男が背後を見た瞬間、素早く男との距離を詰めると、その首筋に鋭い刃を突き立てた。

「がぁっ!?」

 男は血交じりの呻きとともに、いともたやすく息絶えた。突き立てた剣を強く握りしめながら、カルムの手は震えていた。深く突き刺さった剣を、男を蹴り飛ばすことで引き抜いたカルムは自分がこの目の前の人間を処理するための最適な行動をとったことに、また――恐怖を抱いていた。

「今度は早かったな、カルム。俺もそいつを早く殺すように言うつもりだった。こんな通路に死体を残しちまったのは不安だが……あれ以上騒がれてももっと不味かった……」

 ひどく冷静なクモにカルムは嫌悪感を覚えた。しかしそれ以上に、今自分の置かれている状況が不安でしょうがなかった。ゆえにクモの言葉を聞き逃すわけにはいかない。

「しかし敵のアジトらしきものは見つけた。ひとまずここを出る、一度体制を立て直したほうがいい。それと、そこの書類はついでに持っていったほうがいい。見たところゴミかもしれないが……なかなか情報がたくさん書いてある」

「……うん」

 自分の目的は盗賊団のアジトを見つけ、そこの頭領及び盗賊団員を殲滅すること。今の男はカルムにとってもたやすい相手であった。しかし他がそうとも限らないし、頭領の存在は未知数。今のカルムにはクモの判断に従うのが最善だった――

「その必要はない……」

 背後から聞こえた野太い声。その存在はクモにとっても予想外のことだったのか、キシキシと金属の擦れるような音を出す。

「お前があいつの言っていた()か? 見たところそれなりに戦えるようだが……」

 そういって大柄の男はカルムの背後で既に息絶えた盗賊団員に目をやる。

「それで? お前はなんだ……見たところ猫人(ネム)っぽいが、それにしては……いや、面倒くさい」

 その瞬間……男は強く地面を蹴り飛ばした。次の瞬間には、大きく剣を振りかぶった男の姿がカルムの前方少し上に現れる。

「お前にかけてやる時間はない」

 力に任せた単なる振り下ろし。しかし男のそれは鍛え上げられた体によって恐ろしく死に近しいものになる。咄嗟に用意したカルムの剣が大剣と接触する。激烈な男の剣撃は、触れてもいないのにカルムの頭部に強い衝撃を与えた。

「……ん?」

「だめだ、カルム! こいつには勝てない!」

 クモの声はカルムには届かなかった。たった今受けた衝撃に気を失わなかったのがおかしいくらいだった。カルムは崩れそうな自身の体をぎりぎりで支えると、触れあった大剣の刃を滑らせるように薙ぎ払う。幸か不幸か、バランスを崩したカルムの体と握りしめた剣は、大剣の力を真正面から受けることを逃れた。切り払った刀身にはかろうじてヒビは入っていなかった。

「う“っ……!?」

 刹那――カルムは自分の喉元がひどく細くなるのを感じた。後頭部がかぁっと熱くなるとともに頭の中が真っ白になる感覚。一瞬の無の後、自身の細い首をいともたやすく絞める巨大な手を見た。

「かはっ……!?」

「一発で終わらないとはな……まぁ、偶然ならいいんだそれで」

 砕け散った砂岩の壁をカルムは味わう。宙に浮いたカルムの体は、彼女がいくらもがこうとびくともしない。むしろもがけばもがくほどに彼女は自身の首元の苦しみより強く感じることになった。

 片手にカルムを押さえつけながら、この大柄な男は軽々と自身の肩ほどまである巨大な剣を持つ。片手に携えた少女を見つめて、男は凶暴な笑みを見せた。動きのすっかり鈍くなった少女の息が一瞬自由になる。その瞬間、男は大きく一歩を引き、凶暴な刃を掲げた。それは獲物を見る肉食獣の如く……刃が振り下ろされた。

 右肩から入り、カルムの左腰に抜けていく。大剣の描いた美しいラインが少女の小さな体に刻み込まれる。喉の奥から押し寄せる血の波は、彼女の口元に一本の線として流れ落ちた。男は壁に体をめり込ませた少女の瞳から、生気が失われるのを確認した。

「……終わったか」

 それだけ言って男は手元に込めた力を緩める。そして面倒くさそうに、大剣を地面に突き立てた。

 それは一瞬の油断。それも本来では覆されることのない油断であった……

「……っ!?」

「おっと……まだ生きていやがる」


 男が剣を手放した瞬間、カルムは剣を握りしめた手で男の腹元を狙って薙ぎ払おうとした。しかしそれは男に手首を握られることで阻止される。そのまま強く壁にたたきつけられたカルムの手からは剣が落ちる。

「ふん、落としたか。剣を持つのも面倒だ、このまま絞め殺すか」

 そういって男は少女の首に、厚い手のひらを叩きつけた。手のひらをゆっくりと内側に丸めていくと、手元に収まった少女の首を握る力を強めた。近くから分かるくらいに骨が折れる音が響く。バタバタともがくカルムの手足は剣には届かず、生身の腕では男に傷一つつけることができない。男のもう片方の手が首元に迫る。その瞬間……カルムの目は恐ろしくギラギラと見開かれていた。

 常軌を逸した力。バキバキと音を立てながらも、男の巨大な手を恐ろしい力が押し出す。そしてひときわ高い音が洞穴を満たした後……男は初めて危機感を覚えた。側面から感じる凶暴な気配。それは男にとっても非常に慣れ親しいもの……

「てめぇ……っ!?」

 空気を押しのけるような強い音と衝撃。刃物であるにもかかわらず地面に接触した瞬間のそれは凄まじい衝撃を生み出す。男は自分の愛用していた大剣によって自身の腹が大きく切り裂かれているのを見た。

「ぐぅ……っ」

 咄嗟の判断で後ろへ仰け反った男の傷は浅い。しかしそれでもなお穏やかではない傷から生じる痛みが男を苦しめる。

「まさか……腕をへし折って抜け出すとはな。ぶった切ったはずなのによ……とんだ化け物か? こいつは」

 カルムの背丈を超える巨大な大剣の刀身からは赤い血がしたたり落ちる。それはカルムの小さな体格では到底支えられるものではない。そのうえカルムの片腕はほとんどその役割を果たしていない。左手で柄を握りしめ、ボロボロになった右腕でかろうじて支えていた大剣はポロリとカルムの手を離れた。砂岩の地面を大剣が削った。

「しかし……そんな体でそいつを振るうとはな、身の程知らずにもほどがある」

 男は大剣を満足そうに手に取るとカルムに迫る。傷で男の動きが衰えた様子はない。

「おい……カルム。逃げるんだよ、早く!」

「ぁ……ぅ“うっ」

 カルムは痛みに地面に手をつく。ぶるぶると震える片腕はさらに嫌な音を立ててへし曲がった。両腕の長さが合わなくなったカルムの体がむなしく崩れ落ちる。地面に頭をこすりつけながら、再びカルムの口からは血が溢れ出す。おびただしい吐血に目の焦点も合わなくなってくる。そこに男が強くカルムの首をつかんでたたきつける。カルムは再び血を吐いた。

「あ“……ぁ“……」

「カルム!」

 手足が脱力し、ぼやけた視線は男をじっと見つめる。むしろ離せないようにも見えた。

「なかなか面白いことをしてくれる……とどめは徹底的にしないとな、そうだろう?」

 そして男はカルムの腹に大剣を突き刺した。次に力に任せてそれを振りぬき、腹を切り開く。全身の血が激しく暴れ、おびただしい量の血の色と匂いがあたりを染め上げる。すでに事切れているだろうカルムを無視して、男はさらに徹底的に彼女を切りつける。細い手足を切り落とし、首を切り落とそうとしたとき……男は背後に立つ存在に気付いた。


「……なんだ?」

「あ……あの、それは……」

「話に出ていた虫野郎だ。もう殺した」

 不健康にやせた男は目を軽く泳がせると、取り繕った笑いを浮かべて言う。

「それは……流石で……」

「うるせぇ! てめえら何してる! こんなところまで侵入させやがって……!」

「しかし頭領……近頃は侵入者が多いもんで……」

 男――ゴザックは軽い舌打ちをする。そんなゴザックから部下の男は顔をそらした。

「それで? 用があったのか、それともこの俺を呼びつけただけなのか……」

「へ……へぇ! もちろん、蝙蝠が頭領を連れて来いと……」

「蝙蝠? あぁ、あの糞吸血鬼(ヴァンパイア)か……あの野郎、大した用もない癖にこの俺を呼び出しやがる」

「で、ですがね……目的のものが手に入ったと言って……」

 部下の男の言葉を聞いて、ゴザックは面倒くさそうに首を振る。そして何かを決めたようにじろりと男を見下ろした。

「まぁ、いい……とりあえずそいつと……その剣も捨てとけ。そんななまくら持っていてもしょうがない。外に放り出しておけば……勝手に魔物の餌にでもなるだろう」

「へ……へい!」




「ち……カルムが死んじまったか。シャナク様への言い訳……考えないとな」

 血に染まる砂の上……硬い地面を見つけたクモは少し段差を挟んでカルムを見下ろした。もはや肉片といってもいいほどにカルムの体は欠損している。首がついているのがせめてもの救いか……

 切り落とされた手足は無造作に放り捨てられており、すでに一本の場所がわからなくなっていた。いずれにしろ、哀れな最後だとクモは彼女を見下ろした――

「……ぅ“……ぉ」

「……!? まさか……それで、生きてるのか?」

「ぁ……ぁ“……」

 蚊のささやくような声……クモはカルムの生気のない瞳が確かに動くのを見た。砂岩の高台からクモは素早く飛び降りると、カルムの血に濡れた体に張り付いた。

「確かに吸血鬼(ヴァンパイア)は再生能力が優れているから、その再生能力を受け継いだ眷属も……だが、まさかここまでとはな」

「ぅ“……」

 クモはそう言って周囲を見渡す。首の自由に動かないクモは体を回転させながら冷え切った砂を踏み散らす。見渡す限り無機質な砂丘が広がり、生き物の気配は感じられなかった。

「仕方がない……生きてるんじゃぁな。お前が魔物の餌になるのを黙ってみているわけにもいかん」

 そう言ってクモは青白いクモの糸を展開する。彼は魔法が使えるほど高等な種族ではないためこれは種族特性によるものだ。粘着性のある糸は触れたものの動きを制限する。しかしそれ以上の力で破られてしまえばそれまでの心もとない要塞だった。

「これである程度外敵からは身が守れる。大物はさすがに無理だけどな……」

 クモは虚空を見つめるカルムの瞳が自分を見たように感じた。

「ぅ“……ぉ”」

「あんまり無理するなよ……」

 意外な言葉にカルムの視線が揺れた。単に偶然だったのかもしれないが……

「……お前に死なれたら困るのは俺なんだ」

 月の光はあっという間に地平線の先に落ち、やがて陽の光が乾いた地面を照らす。こうして長い夜は終わった。降り注ぐ光がクモの体を(きら)めかせたとき……彼は全身に悪寒が走るのを感じた。





 王宮内には異様な空気が漂っていた。王の住まう処に相応しいその建造物はまさに絢爛豪華(けんらんごうか)というほかない。しかしその(きら)びやかな光景は不気味に散らされた宝の山によって支えられていた。

 本来表に出すべきではないとして宝物庫に収められた品々。それが今は雑に地面に積まれいくつもの山を形成している。多くは金貨やミスリル貨といった貨幣だが、その中に埋もれるようにして王国の象徴というべき魔道具が顔を出していた。

 よく見てみれば絢爛豪華に思えた王宮には降り積もった埃が目立つ。王の住まう処にもかかわらず、掃除が行き届いていないということだ。


 謁見の間、その玉座は周囲と比べて見劣りしない程度には豪華な装飾が成されている。謁見を行う予定はなく、ここには護衛の兵士の一人もいない。にもかかわらず、玉座には静かに腰を据える王の姿があった。

「あらあら……この国も終わりね」

 王の顔を見下ろすように立った女が一人。不敬ともとられるそんな行動に誰一人として声を上げる者はない。

上位吸血鬼(ハイ・ヴァンパイア)に支配されているとはいえ……国一つ切り捨てるとは素晴らしい御方だこと」

 そういって女は身に着けた眼鏡の縁に軽く触れると、無遠慮に王の顎に触れる。強制的に顔を上げさせ、直前まで近づけた王は魂の抜けたような虚ろな表情を浮かべていた。

「【透化(トレヴ)】」

 小さく発された言葉とともに、女の体が周囲の景色と同化した。王の顎に触れていた手はいつの間にか離され、力なく王の顔は下を向いた。再び静寂の戻った謁見の間――一匹の蝙蝠が横切った。




「【深陰(ヴラム)】」

 青色の模様の描かれた扉を突如として現れた黒い炎が包み込む。焼かれれば簡単に崩れてしまうような木の扉である。しかし黒い炎はまるで意思でもあるかのように青の模様に沿って動き始める。やがて黒い炎が消えるころには、鮮やかな青で描かれた模様は灰のように扉の表面から崩れ落ちた。

「念入りな結界魔法ね。それなりの使い手がいるのかしら」

 ドアノブに手をかけ、扉は蝶番を軸に回転した。強固な魔法に守られている割にはいともたやすく扉は開かれた。

 部屋の中は十人はいてもまだ余裕があるほどの広さだった。黄ばんだ古い紙束が机の上、あるいは棚に押し込められている。紙には黒いインクで書かれた文字がびっしりと並んでいる。かなりの期間手入れがなされていないのか、部屋の隅には埃がたまり、紙束のから漏れた紙々が地面に散乱し、無慈悲にもそれらには虫が(たか)っていた。その紙束が何であるのか理解している彼女としては、この部屋の主が憐れで仕方なかった。

「流石はアラスブ王国のアトラス家というべきか……勉強熱心ね。特に魔眼に関してはずいぶんと進んでいるようね」

 本棚から数冊の本を、そして机の上に積み重ねられた紙束を軽く見て女は呟いた。部屋には数台の魔道具が置かれていた。そのサイズは大人の背丈はある女を凌ぐものだ。これほど巨大な魔道具はどこを探してもこのアラスブ王国以外には存在しないだろう。

「それに……あら? 悪魔の研究だなんて物騒なことを……」

 そして女はある文書を見て心底興味深そうに笑みを浮かべた。何かを思案するように女は口元に手を当てる……やがて女はまた笑みを浮かべた。今度は意図の読めない冷たい笑みだった。

「……これは契約とは関係がないから。残念ね、あなたに教えてあげる義理はないの。これは単なる私の好奇心……」

 女はそう言って手にした厚みのある本を机に置いた。淡泊な革閉じの本は女が軽く手を振ったかと思うと、突如彼女の足元から現れた光沢のある塵に包まれる。塵はまるで生きているかのようにまた一つ、また一つと書物を巻き込んでいく。机の上に散らされた紙々、虫に喰われた古紙までも――塵はすべての書物を運び、すべてをあるべき場所に返していく。女の鋭い視線とともに、塵はやがて宙に消えた。

「千年ぶりかしら……あの子が動きを見せたのは」

 吐息交じりの呟き。身に着けた眼鏡をはずすと、彼女のまるで星屑の浮かんでいるような瞳が現れる。再び彼女が扉に手をかけ、部屋の外へ歩を踏み出す。刹那――彼女の姿は嘘のように掻き消えてしまった。

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