獣の目覚め
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。その声にカルムは聞き覚えがあった。
「お……おい……! 早く起きろ!」
「(なぁに……クモ? うるさいなぁ……)」
「起きろって言ってるんだ! この間抜け!」
おそらくはカルム以外にも十分聞こえるほどの音。耳障りな明らかに人ならざる者の声。もしも彼らに聞かれでもすれば……折角手に入れた移動手段を手放すことになるかも分からない。
「そんな大声出したら……」
「そんなことを気にしている場合か!? お前がやられたら俺はどうやって帰るんだ! 蜘蛛の足でどれだけかかると思ってる!その前に砂漠で野垂れ死にだ!」
「いったい何言って……」
その瞬間、カルムは自身の手足に宿る違和感に気が付いた。それはむしろ、なぜ今まで気が付かなかったのかとも思えるほどのもの……
「ど……どうして、手錠? あの人たちは!? 大丈夫なの……!」
その時カルムの頭に真っ先に浮かんだのは、亜人である自分などを馬車に乗せてくれた人間たちの安否。自分がこのように手足の自由を奪われているのは、間違いなく外部の者の手によるもの。盗賊による襲撃にでもあったのか……それとも……
「お前はどこまで馬鹿なんだ! 騙されたんだよ!」
「……ダマサレタ?」
カルムにはクモの口にしている言葉の意味が理解できなかった。
「あぁ! もういい! とにかくその手錠を解いてだな……!」
「やぁ、お目覚めかい?」
聞き覚えのある優しい声がカルムの耳に届く。その声色は以前と何ら変わりのないもの……しかし、今のカルムにはなぜかその声に違和感を覚えた。
「あ……あなたは……」
「今……誰かと話しているようだったが……」
「だ……大丈夫ですか!」
カルムの脳裏には確かに青年への違和感が残っていた。しかし、いまのカルムにとってはそんなことは些細な事。彼らの現状を把握することが優先だった。しかしカルムの心中とは裏腹に、青年の様子はまったく緊張感というものがない。現に彼はカルムの言葉に訳の分からないような顔を浮かべていた。
だが……その表情はすぐに笑いに変わる。明らかに友好的なものではない……薄い笑いに……
「大丈夫って……あぁ。この期に及んでまだ理解していないんだな。やはり……亜人は知能が人間よりも低いのか」
「……ぇ」
「できれば、あのまま寝ていてほしかったんだが……まぁ、あんたがおとなしく寝ていてくれることも想定外だ。何せあんたを連れてくることなんて予定外だ。眠剤なんて用意しているわけもない……運がよかったよ」
そう言って青年はカルムの首元に手をのばす。その手に捕まってしまったら良いことなど一つもない……それはカルムにも何となく理解できた。しかし……体どころか瞼すら今や彼女の支配を逃れている。
呆然と見開いたままの彼女の瞳に……小さな影が動くのが映った。
「うわっ! な……なんだこいつ、魔物!?」
「早く手錠を壊せ! 外の連中、お前を奴隷として売り飛ばすつもりだぞ!」
気づけば青年の顔面には小さな蜘蛛が張り付き、彼女の同行者の声が荷台に響いた。その声に、カルムはようやく正気を取り戻した。
「壊せって……こんな金属の手錠、壊せないよ。それに、奴隷って……」
「くそ……まったくあの人はとことん性格が腐ってやがる! こうなることを分かって俺たちをここに向かわせやがった!」
何かがたたきつけられるような鈍い音が聞こえる。見れば、小さな蜘蛛がもろくなった床板に仰向けで倒れていた。
「……っ!? クモ!」
「この雑魚が!」
荒げた声とともに青年は床に倒れたクモを踏みつけようとする。仰向けになったクモは八本の足をもぞもぞと動かしてはいるが一向に起き上がる気配がない。魔物ではあるが、あの程度の攻撃ですら彼にとっては死に十分値することはカルムにも十分理解できた。
一瞬――手足の手錠をたやすく壊したカルムは青年に体当たりをしていた。
「うぐっ!」
青年の体はいともたやすく荷台の外に放り出された。壊せないと思っていた手錠を一瞬で壊したことも……到底少女に体当たりされただけとは思えない傷を青年が受けたことも、今のカルムにとっては些細なことだった。
「クモ……だいじょうぶ?」
「……やっぱり、簡単に手錠は壊せたな」
「ねえ……さっきの話、どういうこと?」
仰向けになったクモを拾い上げると、カルムは自分の肩に乗せる。クモは呆れたように言った。
「お前は本当に……一から百まで言わないと分からないのか。って当たり前か。本来、まだ言葉もたどたどしいガキのはずだ……」
「ねえ……早くおしえて」
外が騒がしくなり始める。おそらく外に吹き飛ばされた青年から異変に気付いたに違いない。カルムはどこか隠れられる場所を探しながらクモの言葉に耳を傾けた。
「……つまりは、あいつらもお前の集落を襲った連中と同じってことだ。子供を馬車に乗せていくつもりなんて毛頭ない。お前が亜人ってことに気づいて……ま、商品を持っていくことにした……そういうことさ」
クモの言葉が終わるとともに、外から青年の声の怒鳴るような声が聞こえる。
「亜人のガキが逃げるぞ! 大事な商品だ! なるべく傷つけないようにしろ!」
その言葉にようやくカルムはクモの言っていたことが呑み込めた。信じていた存在に裏切られたショックからか、あまりの急な展開に頭がついていけないためか……カルムの頭は真っ白になっていた。
「……ほらな」
少し残念そうなクモの声が聞こえた。今度はカルムに完全に正気を取り戻させることはできなかった。
「今すぐ荷台に乗せてある剣を取りに行け。奴ら、あの剣もどこかに売るつもりで捨てずにとってあるぞ。お前が自分たちを脅かす存在なんて微塵も思ってない」
呆然とするカルムをまるで煽るように、クモは冷淡と告げる。
「そう思っているうちに全員殺しておけ」
「……!? 殺すって……」
「あんな連中を今から行く王国に生きて戻らせてみろ? お前は王国でろくに動けなくなる」
「……とりあえず気絶させてどこかに縛っておけば……」
クモの予想だにしない言葉にもうカルムの頭はぐちゃぐちゃだった。カルムの提案にクモは焦りと苛立ちからか声色を変えて言った。
「そんな時間はない!それにそんなことをやってるうちに誰かに見られたらどうする? ここはアラスブ王国の目と鼻の先だ」
「ここが……アラスブ王国の目と鼻の先……」
カルムは物見から外の景色を見た。慌ただしく走る商人姿の人間たちの背景にきめ細かい砂の大地が広がっていた。むんとした熱気が満ち、地平線の先は蜃気楼によってぼやけている。もはやここは彼女の知っている世界ではなかった。
「それにだ……人間の一人や二人、今のうちに殺せるようになっておけ。シャナク様がお前に何を求めていると思う?」
シャナクという言葉を聞いた瞬間、カルムは身の震えを感じた。
「お前の経験した悲劇……そして人間への恨みに期待してるんだ。そんなお前が人ひとり殺せない子供のままだとしたら?」
「……殺される」
無慈悲な彼女の自分に対する所業を思い出してカルムは震えが止まらなかった。同時の立たされている状況の深刻さに気が付いたともいえる。そう考えると……不思議なくらいカルムはクモの言葉に耳を傾けることができた。
「連中はお前の憎む奴らと何ら変わらない……」
その瞬間、太い棍棒のような腕がカルムの首元を捕まえた。
「このガキ!」
見れば、それは最初にカルムと顔を合わせた男だった。もとよりカルムのことをよく思っていなかった男の力に加減はない。いや……そもそもカルムのことなど会話のできる獣としか思っていないのかもしれない。自分の体格を大きく上回る大男の力は予想以上に強く、呼吸が一瞬止まる感覚をカルムは味わった。とはいえ、先日彼女が味わった苦痛に比べればこの程度はどうということでもない。
カルムの突き出した拳が男の側頭部に当たった。男の首はいともたやすく折れ曲がり、そのまま木目の壁に強くたたきつけられた。
「あ……」
「人間なんてもろいもんさ。少なくとも、お前が対峙した魔物と比べればな」
物音を聞きつけたのか、慌ただしく動き回っていた気配がより一層激しいものになる。
「――が殺された!」
「剣を持ってこい! こうなれば手足の一本や二本切り落としていい! 愛玩用としてならいくらでも変わり者が現れるさ!」
どこに隠し持っていたのか、金属音が聞こえる。商人が到底持っているようなものではない。
はじめは恐怖を抱いていた。あの時と近い状況、力のない自分には何も抵抗するすべがなかった。しかし今は違う。まるで何かにとりつかれたようにカルムは荷台の外へと飛び出した。
とうとう……カルムは足を踏み入れた。裸足の足裏に感じられる砂の感覚は焼けるように熱かった。しかしそれ以上に、彼女は自分の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。まだ心のどこかで、彼女は穏やかに集落で暮らす自分の姿を夢見ていた。足元の砂漠に落ちる影は、自分を捕らえようと迫る人間たちのもの。すぐに砂は赤く染め上げられた。
「や……やめてくれ! 俺たちが悪かった、亜人を捕らえるなんてもう二度としない!」
恐怖をその顔じゅうに張り付ける、かつて自分が優しい人間だという妄想を抱いていた青年の姿を見て、カルムは改めて自分の手を眺めた。
赤い血で塗り固められた掌は彼女の殺した人間の数を彷彿とさせる。カルムはもう自分が元の無垢な子供には戻れないことを知った。
「早くここから逃げたほうがいい。ここは王国からは少し離れているから今すぐってことはないだろうがじきにこいつらの死には気づかれる」
「うん、分かってる」
カルムは青年の顔面を深く貫く剣をゆっくりと引き抜いた。細い刀身には今やべっとりと赤黒い塗装がなされ、重さすら感じられるほどあった。
「正面から行くと後から怪しまれる。それに……その服と剣もどうにかしないとな」
「うん……」
「随分と落ち着いてるな」
「……もうわかったから」
カルムの言葉にクモは面倒くさそうな、しかしどこか満足げな様子で言った。
「ならいいけどな。ちょうどそこに小さなオアシスがある。服はどうするか……適当に通りかかった人間を殺して奪っても……」
「ううん、これでいい。洗えば落ちるはず」
「……それもそうだな。これ以上殺すのはさすがにリスクがある」
ぶれる視線の先のオアシスを見つめながら、彼女は最後の情景を見た。セピア色の世界はどれも懐かしく……思えば思うほど、大粒の涙が零れてしまいそうだった。
「かわいい服……もう一回着たかったな……」




