夜の世界
「はぁ? 乗せていってくれ?」
「はい……お願いします」
商人らしき服装をした男は明らかに嫌そうな顔を浮かべる。一回りも二回りも大きな人間を前にカルムは必死に頭を下げていた。
「帰んな、わるいがガキを一人乗せていく余裕はないんだ」
「荷物と一緒で構いません! どうか、お願いします!」
「全くしつこいな……こっちにも行く先があるんだ。人の行く先に合わせる余裕なんてない」
それだけ言い放つと男は、引き留めようとするカルムの手を乱暴に振り払い自分たちの馬車の元へ戻っていく。
その時、一人の別の人間が姿を見せた。やはり商人と認められる格好をしていたが年齢はカルムと話していた男よりもかなり若く見える青年であった。
「いいじゃないか、乗せてやれよ」
「はぁ……お前何を」
「いいから……ちょっとこっちにこい」
そう言って若い青年は男に耳打ちで何かを伝えた。それから間もなく、男は了解したようにうなずいた。青年はカルムのほうにやってくると、手招きしながら言った。
「よしあんた、俺と一緒にこっちに来な」
「そ……それは、どういう……」
カルムは困惑しながら青年の顔を窺うように見る。青年の顔は特別温和そうというわけでもなかったが、悪い人間というようにも見えなかった。
「乗せてやるってことだよ。子供をこんなところで捨て置くわけにはいかないだろう」
「ぁ……ありがとうございます!」
まもなく馬車の中に招き入れられたカルムは、そこが荷物の載せられた荷車ではなく彼ら商人たちと同じ場所であったことに気が付いた。青年に何かを言われたことが原因だろうが……荷車に乗せることも嫌がっていた男がなぜこのようなことを許したのか、カルムの中には若干の疑問が残った。しかしそれに関して何か答えを出せるほど、カルムは成熟していなかった。
「それで、どこへ行くつもりなんだ? お嬢ちゃん」
「あ……アラスブ、王国です」
カルムがそう答えると青年はぱぁっと笑顔を咲かせた。
「アラスブ王国? そりゃちょうどいい。俺たちもそこに行くつもりさ」
「本当ですか!?」
「本当だ、運がいいなお嬢ちゃん」
青年は馬車の物見から顔を出すと、外で作業をしている仲間たちに指示を出しているようだった。なんとも親切なことに、青年はカルムの身に着けていた唯一ともいえる荷物である剣を自分たちの荷物と一緒に運んでくれるという。剣など持ちなれていないうえにそれには鞘すらもない。剣を持つ意味など理解していなかったカルムはなんの疑いもなくそれを受け入れた。
青年の隣には先ほどの男が座っていた。嫌悪感を隠そうともしない視線を男はカルムに向けるが、その目つきは何かを観察するような目だった。
「おい、カルム」
突然耳元から発せられた声にカルムは一瞬心臓が飛び出しそうな思いをした。
「ちょっと……今話しかけないでよ」
「なんだかあいつら……気にならないか?」
クモのいう「あいつら」というのは自分を乗せてくれた人間たちのことだろうと、カルムにも十分理解できた。しかしクモの言葉はいつも通り、どこか緊張感のないものだった。ゆえにカルムも特に気に留めることはない。
「どうして? 私なんかを乗せてくれていい人でしょ」
カルムは前に座る青年と男に聞こえない程度のささやき声で姿の見えないクモに答えた。その返答はどうやらクモにとっては思い通りのものではなかったのか……クモは何故かあきれた様子で、それ以上言葉を発することはなかった。
透き通ったガラス越しに見えるのは暗々とした夜。空にかかった闇をほのかに照らす月明かりが街並みを映し出す。月明かりを受け、無数のガラス球のような光体が姿を現す。微弱な青白い光を出す魔力の塊、それが徘徊する様子は、この景色が通常とは異なる世界にあることを示していた。
「定時報告です」
月明かりのみに照らされた部屋――置かれた家具といえばテーブルと椅子の二つのみ。生活感のないこの広々とした空間には二人の人物があった。
「聞けば聞くほど素晴らしいことだ……千年もの時を待った甲斐がある」
淡々とした少女の報告、それに対し男はさも嬉しそうにテーブルの上に乗ったグラスを持ち上げる。透明なグラスに注がれた真紅が夜の光を前に煌めいた。
「あなたもこちらへ来てはどうです? 私とともに至福の時を……」
男の声に呼応するように、やがて闇の向こうから現れた少女の姿はまだ15、6ほど。青みがかった銀色の髪に薄いベールのかかった純白の衣装。姿形にはまだ幼さがありながら、その仕草からは動き以上の何も感じることはできない。
一欠けらの躊躇いも見せず、少女はもう一つの椅子に腰をかける。冷たい目が男をじっと見つめていた。
「あなたもそこにいるだけでは手持無沙汰でしょう」
男はそう言って自分のグラスを少女に差し出した。少女は男の手が添えられたグラスに視線を落とすと、感情のない目を再び男に向けた。
「一従者に過ぎない私が貴方様の時間を妨げるのはどうかと思いますが……」
「あなたは特別ですよ」
男の喜びの含まれた声とともに、ガラス越しの夜景が赤紫色のベールに包まれた。自然な動作で男は少女の手に触れる。その瞬間――身が凍り付くような冷気が男の体を駆け巡った。
「既に貴方様のご意思は国中に宣しておきました」
「……あ、あぁ」
一瞬意識の離れた男は少女の声で我に返った。少女に伸ばしたはずの手は空を切り、それを彼女は何とも思っていないようだった。軽く椅子を引き、少女は立ち上がるのを仄めかす。男の差し出したグラスは手の付けられないままだった。
「それでは、失礼いたします」
月光の届かない闇の奥に一つの人影が消えたころ……男は鮮やかさを失いつつあるグラスに再び口をつける。やがて酔うように眼下を包む赤紫のベールを見つめた。
「まぁいい……あの方を迎え入れる準備を進めなければ。そのためには……」
その声とともに、男の手にしたグラスの色がみるみる穢れていく。やがて灰色の塵へと姿を変えたグラスは、テーブルの上にむなしく崩れ去った。
「まずは邪魔者の処理を行わなければな……」




