偽りのもとに
古ぼけた木材。手入れの一切施されていない書物の墓場がそこには広がっていた。そこは闇に潜む虫けらたちの天国。たった今……男の横切った空っぽの棚の中には、うんざりするほどの蜘蛛の巣が張られていた。
暗がりの中、男の傍にピッタリ付いてきていた影が何やらゴトゴトと音を立てながら、自身の持つ鞄からランタンを取り出し、火をつけた。オレンジ色に灯る炎は初めこそ不安定に揺らめいていたが、やがて一点に落ち着いた。
「やれやれ……手入れが行き届いていないにもほどがある」
「ここの資料室はⅠ様しか利用されませんから……」
この埃臭い木造の空間には似つかわしくない、白を基調としたコートに身を包んだ男の姿がランタンの光に照らされ姿を見せる。固い生地にしわの一つもないきっちりとした衣装は、彼の神経質な性格を投影しているようだった。
そして彼の傍らに見える影――少女のように見える体格と顔つきではあるが、そこに幼さの面影は一切ない。無感情のその表情は到底人間の浮かべるものではない。まるで機械が予め決められた言葉を再生するように……少女は言葉を紡ぐ。
「それと……Ⅱ様からの最初の定時連絡が来ました」
「今更……か」
「現在はセリオン王国領の【レク】に滞在しているようです」
少女の報告を聞いたⅠは僅かな苛立ちを見せる。それは普通であれば気づくことすらできない程度の表情の動き。それに気付いた少女は無表情のまま――僅かに震えた。
「……セリオン王国に行くという話だったが……」
「すでに王国騎士団長を倒し、王国内に留まることは困難であろう対象が向かうのはアラスブ王国であろうと……」
聖騎士団長の件はすぐに王国中に広がるだろう。そうなれば王都の神聖騎士団も黙ってはいない。その点から最寄りの王都ではなく、次に近いアラスブ王国を目指したということだろうが……
Ⅰは少女の報告を聞き、どうも釈然としないものを感じていた。アラスブ王国は過酷なスーモ砂漠の地に存在する。最も近いとはいえ、そこへ向かうよりかはその他の国に向かうべきだ。そうでなくともセリオン王国の周囲には、他の国などいくらでもある。
「(まぁ……無駄足に終わったという報告を待つとするか……)」
普段から適当な態度の目立つⅡのこと……また大した当てもない勘というやつで行動に移したに違いないとⅠは確信していた。
まもなくこの件は脳の片隅に置いておくことにしたⅠは本来の目的である薄暗い部屋を見渡す。頼りないランタンの光によって照らされた部屋は、今にも何かが暗闇から現れてもおかしくない様であった。それが視線を横切る小蜘蛛であればよし――もしも魔物であれば常人はただでは済まない。それを理解してか否か……Ⅰは怯えの一つも見せなかった。
「それではこの部屋の前で待っていろ」
「承知しました……」
それだけ少女は言い残すと、その理由すら聞かずに部屋の外へと出て行った。その後ろ姿にⅠは見向きもしなかった。
「……今回は当たりか。こんなとこまでわざわざ来たかいがあったか」
Ⅰは最後に手に取った表紙の破けた本を積み重なった本の塔に加える。数十冊の厚みのある本を一時間足らずで読み終えたⅠは、目を付けた数冊を持参した袋に詰める。最後の一冊だけは身に着けた鞄に丁寧に入れた。
「さて……厄介な客に気付かれる前に、ここを去るとするか……」
そう呟いてⅠは少女の待つ扉の向こうへ向けて歩き始める。彼が一歩踏み出すたびに古びた木目の床は小さなうめきを上げる。扉の取ってに手をかけたⅠは、ふとその手を止めた。
刹那――場に満ちた埃の臭いは一瞬で遠のき、部屋全体の温度が急激に下がった感覚を覚える。Ⅰの傍らにはいつの間にか、彼の背丈より一回り大きい不気味な影が立っていた。
「ほう? 我々に随分と興味があるようだな」
その影はというと、手足が異様に長かった。全身を黒い装束で身を包み、頭は鳥の骸。そしてその象徴ともいうべき大小二対の翼は、見るものに恐怖と絶望を与えた。世にあふれる悪意の権化……悪魔の姿がそこにはあった。
「欲しいのは力か? 貴様らの目的はなんだ?」
「単なる仕事に過ぎませんよ。この混沌の世に暗殺の依頼は絶えない。これ以上に儲かるビジネスはありませんから」
「それで悪魔の召喚とは……随分と意外なショーをしてくれる」
表情のないはずの白い骸はガタガタと音を立てながら笑う。Ⅰはそんな悪魔に応えるように、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ええ、あなたたちにはとてもお世話に……」
「あの子はまた代償を払うことになった。その後まもなく討伐された中位悪魔のためにな」
その瞬間、悪魔の怒りが垣間見える。それは恐怖をまき散らすこの外見に反し、あまりに慈悲深いと思えてしまうものであった。
「おかげでよい牽制になりましたよ。隠されていたダイヤモンド級冒険者の一人……その情報を得ることができたのは大きい」
「貴様らは我々を都合の良い道具としか思っていないな?」
Ⅰの淡々とした言葉に対し、悪魔は間を置かずに答える。辺りは途端に緊張に震え、虚空が覗く骸の目が赤く光った。決して冗談ではない殺意がⅠに浴びせられる。死が間近に感じられるこの状況にもかかわらず、Ⅰは表情一つ崩さずにいた。
「まさか? 世界の裏を支配する悪魔……その中でも頂点に位置する名高き大悪魔様。そのお方を利用するつもりなど……」
「……とりあえずは、そういうことにしておいてやろう」
悪魔の赤い瞳がギロリと怪しく煌めいたとき、周囲にどす黒い靄が舞った。膨大な魔力を有する悪魔の周囲には常に高濃度の魔力が黒い靄となって現れる。この魔力の濃度はただの人間には瘴気にもなりうる恐ろしいものだ。
しかし此度の目的でもあり、かつ今まで知識を蓄えてきたⅠは、それが自分に害を及ぼさないことを知っていた。
「……おっと、話はここまでにしましょう。待ち人がいらしたようですよ?」
Ⅰはどこかわざとらしく言い、場の空気を切り替えた。悪魔は若干不機嫌そうな表情を浮かべてはいたが、ひとまずはⅠの思惑に乗せられてやることにしたのか、視線を部屋の奥へと移した。外からの訪問者を迎えるのであれば向けるべきは扉の方向だろう。しかし二人はまるでそれが当然だというように、扉とは正反対を向いた。
突如――薄灰色の埃に覆われた木の床が黒く染まる。水の波紋の浮かぶ底なし沼が現れたのだ。それが自然のものなどでは決してなく、魔法的なものであることは誰に目にも明らかだった。
やがて、沼の底から人影が浮かび上がる。ゆっくりと黒を滴らせながら浮かび上がった人影の姿はⅠよりも小柄であり、悪魔と比べればその差は歴然である。それは明らかに子供の体格であった。ただ全身が露になった今、その姿は僅かにだが人のものとは離れて見えた。
「……ロロ」
「リトか」
少女の声と悪魔の短いやり取りが行われる。それは幾度となく二人の間で交わされたものであるようだった。
「Ⅳ……ちょうどいいところに来ましたね」
二人の間に割って入るようにⅠが話しかける。リトと呼ばれた少女はどこかぎこちない足取りで歩を進める。それも当然のこと……彼女の両足は既に体温の感じられるものではなかった。
「私はここですよ」
どこか迷っている素振りのリトを見てⅠは慣れた様子でリトに呼びかける。その声に反応してリトは1の方を見たが、開いているはずの目は彼を見てはいなかった。
「その声はⅠ……そこにいたの」
「ええ、約束していた資料を渡しておきましょう」
Ⅰはそう言って一冊の本を差し出した。リトは不安定な所作で本を触るとそれを受け取る。その瞬間――彼女の腕は鈍い音を立てて地面に落ちた。
「ロロ……これも古いよ」
「もともと重いものを持つようにはできていない。魔法で代用しろ」
悪魔の言葉にリトは小さく頷いた。それと同時に、腕と一緒に落ちたはずの本が彼女の目線近くまで浮かび上がった。本は薄っすらと青白い光に包まれ、闇の満ちた部屋をぼんやりと照らしていた。
「だから無駄なものをつけるのは止めろと言っている。手も足も魔力で補ってしまえばいいものを」
「でもそれじゃ……私がまだ人間である一つの証を捨てることになるから……」
リトの答えを聞いて悪魔はため息をつきながら落ちた腕を拾った。細長い影のような腕が力を失ったモノを面倒くさそうにもたげる。その断面からは血の一滴も垂れることはなかった。
「その気持ち……私は分からない気もしませんがね」
「人間とは分からないな」
悪魔は横目でⅠを見やると雑に言い捨てた。Ⅰがリトの方へ向き変える。大きく余ったリトの衣類の袖、そして眼帯を付けた片目を見つめⅠは哀れみの視線を向ける。
「残っていた片目まで失ってしまうとは……災難ですね」
「ううん……必要なことだったんでしょ?」
「もちろんです」
二人のやり取りを黙って聞いていた悪魔は複雑そうな表情を浮かべていた。
「ありがとうⅠ」
「いえいえ、また入用があれば……いつでも」
リトは1の時とは違い、迷いなく悪魔の方を見て小さく頷いた。まもなく悪魔はリトの傍により彼女の体に手を置いた。突如として巻き起こる黒い旋風。まるで塵が風に吹かれて掻き消えるように、二人の姿は消えていた。
「まったく、便利な魔法を持っている……」
Ⅰはどこか品定めをするような目つきで二人の消えた後を見つめていた。
「さて……こんな場所にいつまでもいる必要はない。不躾な輩も近くに潜んでいることだ……」
Ⅰはひとり呟くと古びた木の扉に手をかける。その瞬間、彼の顔つきが変わった。悪魔と対峙していた時とはまた違う緊張感を纏わせ、静かに扉を開いた。不快な軋み音を立てる扉は瞬間――何か質量に当たって回転をやめた。
「……」
言葉はなく……しかしすべてを理解したようにⅠは小さなため息をついた。扉の外側にはべっとりと血がこびりついていた。その原因は彼の足元……先ほどまで自身の傍にいたはずの少女の無残な姿にⅠは表情の一つも崩さなかった。
「剣で一太刀ですか……やたらと行儀の良い太刀筋ですね」
Ⅰはまるで見えない誰かに呼びかけるように言った。
「あては外れましたか?」
Ⅰはある一方向に向けてそう問いかける。まもなく、冷たい調子で返答が返ってくる。
「この様子ではここは貴様らのアジトではないな」
白を基調とした特徴的な外套を身にまとう姿。外套に縫いつけられた空色の刺繍にはある国家を象徴する紋章が刻まれている。それは王都ヴァンテールにおける神聖騎士団である証だ。
「あの神聖騎士団の犬はどうしましたか? 私はこの扉を開けるまで、この状況を把握していませんでした。絶好のチャンスだったと思いますが?」
「あの方は……今は別行動をしている。しかしいつでもお前を殺す準備はできているはずだ」
冷淡に言い捨てる聖騎士の表情をⅠは集中した様子で見つめていた。そして自分の中で何かの結論が出たのか、静かに言い放つ。
「なるほど……あれは今回は来ていないのですね」
「……」
Ⅰの問いかけに聖騎士は何も答えることはなかった。しかし、Ⅰは聖騎士のわずかな表情の歪みを見逃さなかった。
「ですが……一応警戒はしておきましょう。突然脳天を撃ち抜かれるなんてことは御免ですから……」
「私は何も言っていないが?」
「忠告ありがとう。最近の動向を見る限り……砂漠の吸血姫、崖付近での竜の大量発生、大森林での異変……上位吸血鬼」
上位吸血鬼という単語を口にした瞬間、聖騎士の表情がするりと変わったのを見て、Ⅰはにやりと笑った。
「なるほど、それですか。確かに上位吸血鬼を殺せるのはあれか……あるいはあの女剣士くらいですか。あとは……あなたたちの長もいい線を行っているかもしれませんね」
「……くっ」
意地の悪い笑みを浮かべたままⅠは聖騎士から視線を外す。
「さてと……」
Ⅰの視線は死んだ少女の方へと向かっていた。対峙する聖騎士から視線を外したその様子は一見隙のように見えたが……聖騎士は一歩たりとも動くことはなかった。
「罪なき少女がこの有様とは……聖騎士とやらもなんと残酷なことをする」
「血の宴の幹部、死宴の一人。それに付添う者がまともなわけがない」
「それもそうですね……しかし、処理が面倒だ」
仮にも死んだ自分の知り合いに向ける言葉としては冷酷すぎるⅠの言い草に、聖騎士の目つきが鋭いものとなる。
「あれがいないとなれば……なんと退屈なことだ」
「……舐めるなよ!」
瞬間――聖騎士の振るう剣先がⅠのいたはずの空間をかすめた。確かな殺意の込められた細剣は逃した獲物を再び見据えると、その矛先を再び向ける。
「それがあなたの聖剣ですか……確かに効く相手には効きそうだ。人間相手ではその有利が生かせないのでは?」
「それだけではない」
そう言って聖騎士は鋭い剣先をⅠに見据えさせ、静かに目を閉じた。両手で握りしめられた剣の柄から力強い波動が伝わっていくのをⅠは感じた。
「光剣・【水翔】」
白い靄に包まれた銀色の刀身は、やがてその硬質な形状を歪ませていく。否――歪められたのは刀身の金属ではなく、刀身から跳ね返る光であった。真っすぐ剣へ向かった光たちは刀身の纏う水分によってあらぬ方向へと飛び交っていく。
「おや……水芸でも見せていただけるのですか?」
「もっと面白いものを見られるだろうな」
不自然に空中に漂いながら刀身を包み込む水。不規則に思えたその動きは次の瞬間、すべてが意思を持ったように一つの方向へと伸びていく。剣から伸びていくその姿は、まるで刀身から無数の棘が生えているようにも思えた。
聖騎士は無数の棘と化した水分を振り払うように剣を軽く振るう。瞬間――二者の間に不穏な風が流れた。
「それで……終わりですか」
「あぁ、終わりだ」
静かな二人のやり取り。まもなく……Ⅰの顔に斜めの線が入った。それとほぼ同時、Ⅰの背後の壁にも同様の線が入り……倒れた。木の天井に遮られた、薄暗いこの場所から見えるのは外の光。屋根に打ち付ける雨の音だけがこの場を支配していた。
「まともに相手をしていれば、手間取ったかもしれないな……」
湿った風景を背に、まるで坂を滑るようにⅠの頭部の半分が落ちた。
「死宴の連中は化け物揃いだと聞いているが……これで生きていれば本物だな」
何気ない一言。任務を無事達成した聖騎士はその瞬間――僅かな隙を見せた。
「真っすぐな男だ。単純とも言えるがな」
自身のすぐ後ろからした聞きなれた声に、聖騎士は頭よりも体が先に動いた。しかし横薙ぎに振るった聖剣はむなしく空を切るだけだった。
「自身の正義を皆とする連中はこれだから好かない」
「なぜ……生きている!?」
「凡人は総じて世俗から離れられない。そんなお前は一生真実に気づくことはできないだろう」
Ⅰは意味深な笑みを浮かべる。相手にはまだ余裕があることを察した聖騎士は再び剣を構える。そこには一切の油断も隙も無い――はずだった。Ⅰの姿は一瞬にして掻き消える。
「は……速」
「果たして……それはどちらだ?」
聖騎士の目はそのⅠの動きが魔法の類ではないことだけは理解していた。しかしその動きは直線的なものではなく、ある程度の複雑さを含んだものであった。故に聖騎士はⅠの身体能力の高さが信じがたかった。
「どういう……ことだ?」
「時を操る能力……とでも言えば理解できるか?」
外で降る雨の音が妙に響く。Ⅰの言葉はあまりに突拍子もないものだった。
「あいにく……領域内には限るがな」
「……ありえない、そんなことは神でもなければ不可能だ!」
「ふ……狭い常識だな」
聖騎士はⅠの言葉を断じて信じているわけではなかった。こちらを惑わすためのはったりだろうと……しかしそうでなければ何なのか。Ⅰの思惑通り、聖騎士は正常な判断を失い始めていた。
ふと、聖騎士はⅠから距離をとるように後ろへ下がる。一切の隙は見せぬよう、神経の先まで意識を張り巡らせながら――
「(幸い、相手は油断している。先の現象の正体がわからない以上……まずは距離をとるべきだ)」
それは同時にⅠの言う、領域に関して検証する意もあった。罠である可能性もあるが、それは百も承知であった。
まもなく、聖騎士は素早く後ろへ飛びのいた。気づけばⅠとの距離はかなり開いていた。この距離であれば聖騎士はすべての攻撃を弾き返す自信があった。
「光剣・【水断】」
雨の影響で湿った空気を打ち払うように、聖騎士は両手に握りしめた聖剣を振り下ろした。周囲を漂っていた水蒸気が見る見るうちに可視化し、剣が空気を押しのける間、次々に刀身へ纏わりついていく。やがて刀身が地面に触れる瞬間、凝縮された水分が一気に解放される。刹那、荒々しい水の衝撃波が木製の床を分断しながら一人の男へ向かって飛んでいった。
「(……! 魔力の膜が確かに張られているな。奴の言うことも全てが嘘ではなかったということか)」
聖騎士は自分の体を通り抜ける魔力を感じながら宙を舞う。視線の先には攻撃の余波で崩れ落ちた古びた壁が見える。建物の支柱もその芯を失ったのか、みしみしと鈍い音が屋内に響き渡る。長い月日を経たこの小さな建物の最後が近づいている。
すでに屋外と直接つながっている天井を見つけると、聖騎士はそこから飛び出すように外へ出た。けたたましい音が鳴り響く。眼下には湿った木材の瓦礫が積み重なっているだけだった。
「これで終わったとは思っていない」
聖騎士は再び剣を構える。周囲に満ちた水の影響から、先ほどよりもさらに巨大となった水のベールが聖剣を覆っていた。目標は眼下に広がる瓦礫の山。数秒の間、凝縮された力を解放するため、聖騎士が剣を振り下ろそうとしたとき……
「領域内から出れるとでも思ったのか? 時の流れが違う……」
突如として隣に出現した人影……鋭い衝撃とともに、聖騎士の体から大量の水しぶきが上がった。
「この雨の恩恵か? 体の周りにも纏わりついているようだな」
Ⅰと聖騎士はそのまま瓦礫の山に着陸した。不安定な足場の下、二人の人影は少しも体制を崩さない。
「しかし……完全には防げなかったと見える」
「く……」
雨に濡れる純白の衣装にじんわりと赤い染みが現れる。より一層強い炎を見せる聖騎士の目を確認して、Ⅰはふと何かを思いついたように笑った。
「……このまま殺してしまってもつまらない」
殺人組織に身を置きながらどこか気品さを感じられる仕草。並べる掴みどころのない言葉の数々……Ⅰにどこか得体の知れなさを感じていてた聖騎士はついに彼の本質を掴んだ気がした。まるで子供が自身の玩具で遊ぶように……しかしその笑顔には恐ろしき邪悪が隠されていた。
「時間の流れを元に戻してやった。10秒間、お前にチャンスをやろう」
Ⅰはそう言いながら指を鳴らすと、静かに身に着けた眼鏡に手を伸ばす。それとほぼ同時、聖騎士はにやりと笑った。
「……その油断が仇となったな!」
瞬間――空間を埋め尽くす雨粒。Ⅰと先ほどまで聖騎士がいた場所に道ができる。その一本道だけはまるで晴天の日の大地のように水気が感じられなくなっていた。失われた水分は蒸発したわけではない。そのすべてが吸い寄せられるように聖騎士の周りを漂っていた。
「光剣・【霙】」
聖騎士の白い息の混じった言葉とともに、透き通った雨水の中に白が混じり始める。不規則に膨れ上がった氷混じりの水は、やがてその一つ一つが鋭利な刃として形を変える。あらゆる方向からⅠを狙う水の刃は、そのどれもが魔力を帯びており触れたものを容赦なく破壊する。
発動した本人すら状況を確認できないほどの濃度――砕け散った氷のつぶてが巻き上がり周囲の空気を冷却する。白い霧が立ち込め始めたころ……人影が姿を現した。
「ば……」
「何かしたか?」
その時、聖騎士は自身の体の状況を改めて認識した。胸に突き立てられた氷の刃は、もともとはⅠに向けて放ったはずのものだった。
「いつの間に……」
「お前程度、時間の操作すら必要ない」
聖騎士は胸の痛みに耐えかね、湿り切った土壌に膝を落とした。この奥義を以てⅠを仕留めるつもりであった。しかし結果を見てみれば残ったのは無傷の男と満身創痍の自身。
いまだ自らの服装の乱れを気にする余裕がある目の前の男――聖騎士は最初の時点から自分の選択が誤りであったことを理解した。
「本当に小娘はいないようだな」
Ⅰは周囲をぐるりと見渡し、とうとう結論が出たように言った。彼の目にはもはや目の前で膝をつく男の姿はなかった。
「それにしても……一人で私に挑むとは。お前の独断か? それとも神聖騎士団はそこまで馬鹿だったのか?」
「私の独断だ……しかし、私を殺しても何にもならないぞ……」
「だろうな、下っ端に用はない」
Ⅰはゆっくりと聖騎士のもとへと歩み寄っていく。その手には抜きはらった剣が一本。先端の恐ろしく尖ったその剣から逃れる術はもはやない。
その瞬間――その瞬間だけは、確かにⅠは油断しきっていた。もしも彼女がⅠの警戒していたようにこの周辺に潜んでいたのなら……この隙を逃すことはないだろう。結論、彼女は本当にこの場にはいなかったのだが……
聖騎士はこの最後のチャンスを見逃さなかった。騎士団より託された貴重な魔道具。その発動にⅠは気づくことはなかった。
「……死んだ? そこまでの傷ではなかったと思うが」
膝をついた状態のまま息絶えた一人の聖騎士――Ⅰはその脳天に剣先を容赦なく突き立てた。声はなく、空虚な雨音のみが響き渡る。まもなく、聖騎士の体が後ろ向きに倒れる――その音だけが空気を震わせた。
「まあいい……一応止めは刺しておくとしよう」
Ⅰは空を見上げる。薄っすらと青空にかかっていた雨雲は晴れ、日の光が大地に注ぐ。雨で洗いきれない血の匂いがほんのりと漂っていた。
「ほう……」
ふとⅠはあることに気づく――視界の端にヒビが入っている。
「一矢報いたか。図らずとも、私の最大の弱点を……しかし遅かったな」
聖騎士の成れの果てにちらりと目をやるとⅠは瓦礫の奥に押し込められていた荷物を抜き出した。中に入った本に問題がないことを確認するとⅠは歩き出した。
「人工魔眼……性能は文句なし。この眼鏡をかけていなければ魔力を吸い尽くされてしまうのが難点だが……」
人工魔眼……魔眼が共通して持つ能力。並はずれた観察能力により、攻撃の完全なる見切りを可能にする。それに加え、独自の能力である認識阻害。短い間ならば幻覚すら見せることが可能。そして認識速度の操作。相手を遅くし、自身を速めれば……時すら操るに等しい。
「見せかけの力と笑うか。しかしこれに抗えるものなど存在しない。それが魔眼というものだ」
Ⅰは呟くと暗い笑みを浮かべた。彼の片手には二つの鞄が掛かっていた。
「神でもなければ……か。当然だ、時を操るなど絶対神フィアーにしかできん。子供でも知っている常識よ」
血に濡れた鞄の片方をⅠは振り捨てるように地面へ叩きつける。鋭い音とともに、中からは見覚えのあるランタンの破片が飛び散った。




