歴史の中の吸血鬼
鳴りやむことのない豊かな喧噪の中で慌ただしい時が流れていく。質素な衣類を身に纏い、礼儀など気にすることのないような世界で生きる子供の駆け回る姿がそこにはあった。落ち着きのない後ろ姿は捕らえられ、親に叱られる姿などは見慣れたものだ。
どこか高級感の漂うローブを身に纏った人影はその様子を、ただ佇んで見つめていた。その後ろ姿からはどこか哀愁が漂う。
「(羨ましい……なんて。何を考えてるんだろ……)」
天高く伸びるセリオン王国有数の巨大建造物、賢の大図書館。その光沢する黒い外壁はすべてが魔石を含んだ石材であり、元来の石材の硬度に加え大賢者による結界魔法が融合している。それゆえに大図書館は王国が滅んでも唯一残る建造物とまで言われていた。
そして無機質な人工物に相反して建造物を飲み込むように空高く成長を続ける巨大な樹木。異質さとともに国中を包み込むその存在感は、人々と魔法との間に大きな懸隔を生じさせた。それは国の象徴的魔法使いである賢者クルークをより高尚なものとして認めるに一役買っていた。
イリーナの背丈を軽く超える重厚な扉が開かれる。華美な装飾などはなく、ただ魔法の言葉を刻まれた漆黒の板がそこに立ちはだかっていた。
やがて螺旋を描く大図書館の階段が見え始め、まるで彼女を待ちわびていたかのように一人の司書が現れた。
「イリーナ様ですね。すでに話は受けております」
「ご理解いただけているのであれば早いです。ですが、私がここにいることは……」
イリーナはそう言って周囲をせわしなく見渡した。大図書館には現在、そこまで人影は見えなかった。普段であればここにはかなりの人間が出入りする。その多くは有名な大図書館の観光が目的であるため、彼女のように本を目的としているわけではないが……
「お忍びですね、承知いたしました。それでは……何の資料をお探しでしょうか?」
大図書館の司書は淡々と……しかし人間味のある調子で言った。わざわざ【本】ではなく【資料】という表現をしたことも、司書はイリーナが大図書館にやってきた目的を察していたことにほかならない。
王女であるイリーナは存在こそ認知されているが、顔すら民には知られていない。にもかかわらず彼女の人となりを理解していたこの司書に対して、イリーナはさすが賢の大図書だと感心するとともに、どこか底知れぬ気味の悪さを感じた。
「吸血鬼に関するものを……」
吸血鬼という言葉を聞いた瞬間、司書の目が若干鋭くなるのをイリーナは感じた。
「なるほど……吸血鬼ですか」
司書の表情は一切動かず、はたから見れば司書が何を思っていたのか定かではなかった。しかし視線だけはイリーナを探るように泳いでいた。
「それではこの場所へ」
まもなく司書から一枚の紙が渡される。そこには暗号のような文字と数字の組み合わせが書かれていた。一瞬怪訝そうな表情をイリーナに対し、すぐに司書は続けた。
「6階、6段目、46列目という意味です。その付近をお探しください。しかし、いかんせん吸血鬼の情報は多くないため資料の数は限られてしまいます」
「それでも構いません」
イリーナは少しの間も置かずに答えた。その答えに司書は僅かに笑みを浮かべると、彼女に軽く会釈をした。
階段を上り始めたイリーナはまず初めに天高く伸びる螺旋、そしてその中心にできた巨大な穴に思わず息を呑んだ。古めかしくも手入れの行き届いた棚、そこにずらりと並ぶ書物の量は賢者という名を冠する大図書館にふさわしいもの。自分の部屋にある小さな本棚と比べ、イリーナはなんとなく落胆した。
しかしそんな感情に浸る余裕はなくなる。やがてイリーナは思った以上の段数の数に疲労を感じ始めた。普段から本ばかりを読んでいるイリーナの体にとっては、この程度の運動ですらかなりの負担になっていた。程なく目的の場所につく頃にはすっかり息が切れてしまっていた。図書館にきて疲労困憊になっている自分に少ない視線が付き刺さるのをイリーナは感じていた。
「はぁ……はぁ……やっとついた」
イリーナは乱れた服装を軽く整えると、視線を本棚へ向ける。本の背表紙からいくつか気になるものを選る。
「(少ないとは聞いていましたが、それでも数十はありそうですね……)」
背の小さな彼女には手の届かない位置にあるものも多かったが、そんな時には、どこからともなく現れる大図書館の司書の魔法によって目的の本はふわりと彼女の手元に降りてきた。
イリーナ手元に収まりきらない大量の書物を司書の手を借りながら図書館内に設置されたテーブルへと運んでいく。分厚い本は彼女の力では五冊程度が限界。ほとんどが司書の手によって運ばれていた。司書といえば、細身の体にもかかわらず片手で十冊以上の本を軽々と運ぶ。そんな姿を見て、イリーナはより彼らの得体の知れなさを実感した。
積み上げられた本にイリーナは素早く目を通していく。じっくり読んでいれば、この一冊一冊が厚い本を読み終わるのにどれだけの時間がかかることか。そんな彼女の一心不乱な様子を通りすがる者は皆、目を丸くして窺っていた。
吸血鬼の生態は知っての通り。人間の血のみを糧とし、日光や聖水に弱い。さらには清らかな水にまで影響を受ける。これだけを聞けば吸血鬼とはなんと弱点の多いことか……当然それに及ぶだけの能力を持っている。
人間には決して叶わぬ身体能力、おまけに恐るべき再生能力を持っている。それに加えイリーナの知識にはなかったのは吸血鬼の【吸血衝動】というもの。曰く、吸血鬼という種族自体に人間の血を求めることを強要するようなものであり、吸血鬼の好戦的な性格というものにも関係していた。
また吸血鬼は眷属というものを作ることができるらしいが……そこにはイリーナは深く触れなかった。
イリーナが一つ気になったのは、本の中に描かれる吸血鬼が魔物としてはいささか豪華すぎる衣装を身にまとっていることだった。それは王国の貴族が普段身に着けているものに似ていた。好戦的と名高い吸血鬼が一体どうしてそのような文化体系を維持することができているのか……
「(吸血鬼の生息地とされる陰陽の森についても気になります。一年を通して霧に包まれているなんて……そんなことが本当にあるのでしょうか……)」
吸血鬼を主に記した歴史書に目を通し終わった頃、ふと彼女の背に声をかける者があった。
「焦りは禁物ですぞ? イリーナ姫」
どこか年齢の感じられる声質。身分は隠しているはずの彼女に対してこうも確信をもって話しかけてくるこの男にイリーナはまさかとすぐさま振り返る。
「あ……あなた様は!?」
「おっと……大きな声はご遠慮を。わしもここで大勢に囲まれるわけにはいきませんからな」
そう言って賢者クルークは穏やかに笑う。現在は魔法使いの象徴ともいうべき杖は手にしていない。しかし彼の纏う紫に青の刺繍が入ったローブは隠しても隠れない堂々たる存在感を醸し出していた。
「今日は人が少なくて何より……」
「クルーク様……グルコス様の件はなんとお礼を申し上げてよいか……」
イリーナは深々と頭を下げる。それは先日、彼女がエルドラ城にてオルクスたちに見せたものよりも深く……様々な感情の込められたものであった。クルークはその様子をしばらく見つめていると、やがて諭すように優しく言葉をかけた。
「イリーナ姫……王族がそう簡単に頭を下げてはなりません。ましてや魔法使いなどに……」
「高名な賢者様に比べれば、一国の王女としての肩書きなど何の意味も持ちません」
頭を下げたままイリーナは言う。そこには確かに自虐的な語感が込められていたことに間違いはない。そんなイリーナの様子に、クルークはまるで義父のような温かな表情を浮かべ、回顧するように天高く続く螺旋を眺めた。
「あなた様の姿を最後に見たのはいつでしたかな……」
「私がまだまともに立つこともできない頃でしょう。私は覚えてすらおりませんから」
「それは……いつの間にかそんなに月日が経っていましたか……」
軽い思い出を口にした瞬間、二人の表情はお互い緩んだ。そんな表情のまま、クルークはイリーナに向き変えると本題に入った。
「さて、何をそんなに焦っておられるのです? 吸血鬼のことなどをお調べになって……」
イリーナの顔は途端に真剣なものになり、目にも自然に力が入ったように見えた。
「一つの仮説がございます。グルコス様の命をも脅かした今回の王国の襲撃。それとピロー大森林における異変。これらは互いに関係していると……」
「それはまさに……突拍子もない仮説ですな」
「ですが……この二つを関係させずに考えるほうが、無理があります。とても偶然とは……」
イリーナの言葉には揺るがぬ確信があるようだったが、彼女にしては疑問の余地のある答えだとクルークは感じていた。
「それで……吸血鬼のことを?」
「はい……ですが、分からないことばかりです」
手を後ろに組みクルークは話し出す。その言葉に一切の淀みはなく、既に幾度となく考察を行った結果のように思えた。
「この二つの関係性を認めるに至らない主な理由――吸血鬼はとても人間の国にお行儀よくやってくるような種族ではない。血や虐殺が目的ならば民間人を襲えばよい。間違っても聖騎士と剣を交えてくれるようなものではない。日の光も問題ですな。もしそれを認めてしまえば……今までの吸血鬼の習性、性質、そのすべてを否定することになる。そんなことになれば……世の学者たちは火を噴くでしょうな」
それはイリーナにとっても重々承知のことであった。ましてや知識を得た今では一層その言葉を否定することは難しい。しかし論理だけでは語れない何かが……イリーナの結論を妨げていた。
その時、クルークの足が止まる。穏やかな老人という印象はすっかり抜け落ち、今では賢者然とした油断のできない相手だ。自分の父であり王であるミルド三世と対峙している時とはまた異なる緊張感がイリーナを包み込む。やがて……クルークは静かに言葉を紡ぎ始める。
「少し風変わりな話をしましょう。吸血鬼に関する本はこの大図書館にすら100もない」
「それほどまでに……吸血鬼の情報は不足しているのでしょうか……」
イリーナは視線を僅かに泳がせながら言う。どこか沈んだ表情のイリーナにクルークは不気味なほど淡々と言い放った。
「わしは司書に吸血鬼に関する資料を求められたらこの辺りだというように言っております。文献の数も実際の一割にも満たない量しかないと」
「な……!?」
イリーナは目を見開いて絶句する。クルークはそんなイリーナをよそに至極冷静な様子であった。
「なぜ……そんなことを!?」
「禁書となっておりますからな。もちろん、吸血鬼だけではありません。世の中には様々な理由で封印された書物が数多くある……それは現在、わしが大切に保管しております」
「そ……それは!?」
イリーナは自分でも気づかぬうちにクルークに言い寄っていることに気づいた。彼女の表情も自然に懇願するように感情的なものとなっていた。そんなイリーナに対しクルークは困った様子で言う。
「イリーナ姫……そんな目で見られても困ります。いくらあなた様でもそれをお見せすることはできませんからな。もちろん、あなたの御父上……国王の頼みでも」
「……そうですか」
どこか自分でも理解していた答えにイリーナは力無げにへたり込んだ。クルークは複雑な表情を浮かべていた。彼の温厚そうな表情の下には、決して違えることの許されない決断が隠されていた。
「すべてをお話しすることはできませんが……歴史の空白、最上位吸血鬼というものに関し、良いものを見せてあげましょう」
「ほんとうですか!?」
イリーナの嘘偽りのない表情は、かつてクルークの前に現れた幼い少女の姿を彷彿とさせた。それを見てクルークは改めて自分の決断が間違っていないことを実感した。
黙したまま進むクルークの後を追い、徐々にイリーナは違和感を覚え始めた。目に見える本棚には先ほど立ち並んでいたような分厚い書物はなく、今のイリーナならば五分もいらずに読めてしまうようなものしかない。それは彼女の幼い記憶に残る……絵本に他ならない。
「クルーク様……まさか、馬鹿にしていらっしゃるのですか!? これは絵本ではありませんか……!」
やがて一つの本棚の前で立ち止まったクルークの背中に、イリーナは苛立ちを含ませた言葉を浴びせた。先ほどまでのクルークの調子を見る限り、ここでふざけるようなことはないだろう。しかし、イリーナにはクルークが何を考えているのかが分からなかった。それがまた彼女に苛立ちを募らせる。
とうとう振り返ったクルークは妙な笑みを浮かべていた。その表情からは到底彼の感情を推し量ることはできない。
「絵本を馬鹿にしてはなりませんな。絵本には古くからの伝承をもとにした話もございます。イリーナ姫、こちらの絵本をご存じで?」
そう言ってクルークが本棚から抜き出したのは、やはり薄い絵本。表紙には何やら赤と橙の組み合わせによる、うねる渦のようなものが描かれている。そしてそれらを背景とし、全面には黄色、白、黒の何かが描かれているが……あまりに抽象的過ぎてイリーナにはそれが何かいまだに理解できなかった。
「……小さいころに侍女からよく読み聞かせられました。決して手を出してはならない三つの存在……子供を怖がらせるためのものです……」
「しかしこれはすべて実在しておる」
間髪入れずに放たれたクルークの言葉にイリーナは一瞬動揺した。しかし、その言葉の真意を量るには、クルークは言葉足らずに過ぎた。そんなイリーナの意を汲み取ったのか、クルークは続ける。
「今からちょうど1000年前の歴史の空白、そして現暦はその時から始まっております。そしてそれ以前を【禍史】と称することからも……聡明なあなた様ならば何か気づいているはずです」
つい今しがた歴史書に目を通していたイリーナにとっては記憶に新しい単語だった。またそれだけではなく、王族の血を引く者の当然の知識としても彼女は以前から【禍史】のことを知っていた。
「歴史書に残る3000年のうち、存在した最上位吸血鬼はたったの三体。」
今まで気にも留めなかったこと。薄っぺらい紙の本に視線を落としたイリーナの眼には静かな炎が宿っている――クルークの目にはそう映った。
「もう一度読んでみるといい……何か気づくかもしれません」
それだけ口にするとクルークはイリーナに背を向けた。イリーナは口元に覆うように手を当て、目を閉じていた。すでに頭を思考の海に沈めており、それ以上彼女がクルークに声をかけることはなかった。
「あの時……」
殺しておくべきだったのかもしれない。いや、殺しておくべきだったのだろう。自分自身の命をすべて懸け、さらに周囲の人間数千人を犠牲にして世界の脅威かもしれない存在を排除することができた。
しかし……そんな決断をすることができるほど、自分は冷酷ではなかったということ。
「(……いや、違うのぅ。わしはただ恐ろしかっただけじゃ。あやつに手を出すことが……あやつと言葉を交わすだけで、わしは震えが止まらんかった)」
私の視線は古びた机上へ向かう。堅牢な結界で封じられたこの禁書はまさしく【真実の本】。あれを手にすることが、どれほどまでに勇気のあることであり、どれほどまでに恐ろしいことであるのか……私のみが知っている。
「(おそらく……真実に最も早くたどり着いた人間はわしが最初じゃろう。イリーナ姫も、やがては気づくかもしれんが……そのころにはもう手遅れに違いない)」
封印され空白の1000年間。歴史書に残る最上位吸血鬼はたった三体。かの有名な【吸血鬼王】、世界各地で神出鬼没に姿を見せることからつけられた【神隠れの吸血鬼】……そう、一体足りない。
彼女は最後の最上位吸血鬼、それと空白の1000年間の関係性には容易に気づくことだろう。しかし、今回の事件と結びつけることは叶わないだろう。単体で人類という種自体を根絶させることすら可能な存在である最上位吸血鬼。だからこそ、その最上位吸血鬼が関わっている事件がこれほどまでに小規模なはずはない。
だからこそ……あの時に殺しておくべきだったのだ。
再び視線は移り一枚の絵画へと私の眼は吸い込まれた。『神罰』――そこには三体の存在が描かれている。
絵画の中心に描かれるのはまばゆいほどの黄金の髪を持った少女の姿。少女の纏う衣装はどこか神秘的でただの人とは思わせないような迫力がある。左側に描かれるのは白銀の龍。荒々しい表情は龍という存在の恐ろしさとともにその威風堂々たる存在をありありと映し出している。
そして最後……右側に描かれるのは黒い翼をもった人影であった。姿はそのほとんどが塗りつぶされているが唯一、左目のみが描かれていた。翼の方向や手のように見えるものを見る限り、それは体を横から描いたもののように見えた。少なくとも――これが【夜の支配者】として描かれているのは確かであった。




