少女と小さなクモ
「はぁ……はぁ……」
血で描かれた赤いカーペットが横たわる。おびただしい量の血を流しながらも彼女が生を継続できているのは、彼女の与えられた力の強大さに他ならない。
「はぁ……ゃく……はやく……しないと」
息も絶え絶えながら紡ぐ言葉に、彼は黙って見ていることしかできなかった。彼女の配下に過ぎない彼にできることは多くない。
生暖かい血を纏った彼の黒い体は、儚い月光の前に鮮やかな色を呈した。不気味に光る彼の八つの瞳は何を思っているのか……それは誰の目にも分からない。
やがて、彼女の動きは一本の柱の前に収束する。淡い魔力の光がこの場を照らし、一本の小瓶がころりと地面に転がった。
「……情けないわ……私はこれ以上動けそうもない。分るでしょう……頼んだわよ」
彼は黙って小瓶に近寄った。巨大な二本の顎が小瓶を優しく包み込むと、中の赤い液体はゆらりと揺れた。灰色の霧が立ち込める中……一匹の蜘蛛の姿は消えた。
「どうしたの、シャナク」
懐かしい声の調子にシャナクは目を覚ました。先の出来事が夢だと信じたかったが……目の前の光景は記憶と一致している。
「あ……アクセリア様……」
「次の日になってもあなたが一向に帰ってこないから……心配したわ」
優しみのある少女の声が聞こえる。それはかえってシャナクの心に重荷を与えた。嘘などはつけない――
「申し訳ありません。少し……失敗しました」
「何を?」
アクセリアの表情からは怒りどころか何の感情も感じられない。シャナクにはそれが、感情を隠しているわけでもなく、本当にその通りなのだと理解できた。
「少々……強い人間に出会いました……この失態は、私の傲慢さ故でした……」
「あなたが傲慢? 面白いことを言うのね」
少女は怒るどころか、笑みすら浮かべていた。わかりやすく感情を発露してくれればどれだけ有り難いことか……
「血はこの子が持って来てくれたわ。こんなになってまでこれを届けてくれるなんて……あなたは優しい のね」
「……はい」
到底、配下に使うものとは思えない言葉。嫌味にも聞こえかねないが、そう単純に判断するべきものでもない。シャナクは必死になって彼女の感情を読み取ろうと努力をしていたが、その努力は空しく散った。
「カルムが寝ているわ。昨日の朝くらいかしら……あなたが連れてきたんでしょう?」
アクセリアは不自然に……またごく自然な調子で話を移した。それが意味を持たない言葉であることはシャナクの目にも明白だった。
「いい朝ね。眩しい……日の光は、まるで闇を焼き尽くす聖なる光の柱……ってところかしら」
閉ざされた窓から一筋――入り込んだ光る糸が少女の純白の肌に落ちた。心を惹きつける幻想的な光景。時の流れが穏やかになったかのように、一つ一つのシーンが鮮明に頭に焼き付けられていく。耳障りな肉の焼ける音が聞こえ……シャナクは狂ったような声を上げた。
「あ……アクセリア様!? 早く、これを!」
シャナクは自分の傷の深さも忘れて、自分の着ていた外套を素早くアクセリアの頭から被せた。
理解できなかった。先の言動の不自然さからも、何かしら言葉の裏に意図があるものだとシャナクは感じていたが、それ以上は何も分からない。
「……とっても長い夜だったわ。外で過ごした夜も……昨晩、屋敷で過ごした夜もね」
アクセリアはそう言って、どこか寂しそうな表情を浮かべた。外套の下、布を挟んで触れる彼女の体から、シャナクは何も感じとることができなかった。
「謝罪の言葉すらどこかに消えてしまったのかしら……私ほど冷たい主人も他にいないでしょうね 」
「そ……そんなことは」
シャナクは焦ったように言葉を零した。彼女の立場から否定すべきことだが、果たしてそれは正しいのか……
「だから……少しは気が晴れた? 」
複雑なアクセリアの感情の一端がシャナクにも理解できた。同時に、外套の影に隠れてこちらを見つめる主の焼けただれた頬を見て、シャナクは心が痛んだ。彼女が気にしているのは先日の自身の行動。
しかし――アクセリアはシャナクの犯した罪を知らない。今のシャナクには、必死になって先のアクセリアを擁護することができなかった。
「……いいえ」
「そう……残念ね」
上辺で並べられた言葉、実際のアクセリアは妙に落ち着いていた。何事もなかったかのように、アクセリアは頭から被った外套をそのままに立ち上がった。彼女の背中に添えられていた腕が抵抗なく滑り落ちた。
「あなたはとても優秀ね、シャナク。アルバート・アトラスについて、もう分かったみたいね」
「それは……まだお話していなかったはずですが……」
「シロが言っていたわ。とてもご機嫌そうにね」
アクセリアは若干不満げな顔を浮かべた。そこで初めて、シャナクは彼女が漆黒のローブをすでに着込んでいることに気づいた 。
「……!? 今すぐ準備いたします!」
「そうね……ゆっくりでいいわ……ゆっくりで」
アクセリアの語気は柔らかく、シャナクは本当に自分の事を心配しているのだと分かった。故に彼女の歩みには後悔が付きまとう。彼女は主よりも自分を優先した。主は配下である自分の失態を置いて、彼女自身を責めているようだった。
一体何があったのかは分からない。しかし少なくとも、シャナクはアクセリアの心の隙を利用した――失望されることを恐れて、伝えるべき事実を隠し通したのだ。嘘はついていない、聞かれていないのだから。そんなシャナクの策略を、今のアクセリアは見抜くことはできない。そのことすらどこかで……シャナクは理解していた。
すでにシャナクはアクセリアに背を向けて歩き出すところだ。傷ついた体を引きずって……もはやシャナクに真実を話す余裕はない。心の隙を作っていたのは、彼女もまた同じ……
「ねぇ……シロ、いるんでしょ」
アクセリアは誰もいない空間に向かって話しかける。朝日の照らすその空間は極端に静かで……どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。姿の見えない何かをアクセリアは睨みつけた。
それでも……まるで彼女をあざ笑うかのように、それは姿を見せることはなかった。
「……お前、私のこと知ってたでしょう?」
耳を塞いでも脳裏に響き続ける、死への呼び声。歪んだ魂が形を成して視界を埋める。悪意に満ちた笑い声が、自分たちを嘲笑っている。
少女は焼け野原の上で蹲っていた。目を閉じ、耳を塞ぎ、五感のすべてを閉じて……この現実から逃れたかった。
ふと、鈍い音が聞こえる。燃え残ったわずかな草を揺らす高い音に、土を鳴らす低い音。二度と聞きたくない……悪夢の音だ。
恐る恐る少女は目を開ける。かつては自分を可愛がってくれた、親しい者の頭がそこには転がっていた。
「はぁっ……はぁっ……」
一度は見た光景に慣れてしまったのか、あるいは声を出すことすら、叶わないほどに動揺していたのか。少女は再び顔を覆った。流れる涙すら、すでに枯れ果ててしまった……
現実を受け入れなければならない――
次の瞬間、カルムは天井を見上げていた。埃の一つすら見えない綺麗な部屋。体を包み込む柔らかなベッドは、再びカルムを夢の中へと誘う。
そう、夢……悪い夢を見ていただけに違いない。でなければ、こんなに綺麗な場所でのんびりと寝ているわけが……
「……うぅ」
「……人の顔を見てそれですか……つくづく、あなたは不快ですね」
夢……これが夢ならばカルムは今頃、藁と木でできた家で目を覚ましたことだろう。時刻は夜明け前――いつでも自分を迎えに来るのは、親愛なるたった一人の兄。長たる強い父と、それを支える優しい母の姿を見て育ってきた。
無機質なベッドの前にシャナクは立っていた。不機嫌な顔は変わらない。しかしカルムの目には、どこかシャナクの顔が苦し気に見えた。
濡れた服に触れるシャナクの手が、真っ赤に染まるのを見てカルムは思わず声を上げた。
「あぁ、血が……」
カルムにとってもおよそ無意識の反応。それを見たシャナクはあからさまに不快そうな顔を向けた。
「はぁ、まさか私を憐れんでいるつもり?」
「そ……そんな!?」
「自分の状況が理解できていないの? 下等生物があまり調子に乗ると……」
そこまで言って、急にシャナクは脱力したようにベッドの上に手をついた 。カルムは一瞬何かされるのではないかと身構えたが、すぐにそうではないのだと気づいた。カルムにとっては聞き覚えのない、弱弱しく粗雑な調子の声が聞こえた。
「……アクセリア様をお待たせするわけにはいきませんから、今日はこれくらいにしてあげる。次、同じことをすれば……」
しかし、そこでシャナクは言葉を止めた。そして何やら素敵なことでも思いついたかのように、口元に笑みを浮かべた。
「いや……あぁそうね、カルム……あなたにお願いがあるわ」
平生とは異なるシャナクの言い回し。そして何より初めて、自分の名前を呼ばれたことにカルムは驚いた。
「あなた、アラスブ王国に行ってくれる? 私たちとは別にね」
それだけでシャナクは話を終わりにしたそうでいた。しかし、小さな集落出身――人間のことはおろか集落の外のことなど、興味すら抱くことのない環境で育ったカルムにとって、アラスブ王国などという場所に心当たりはなかった。加えて、シャナクたちがそこに行くということすら初耳だった。
「詳しくはそれに聞きなさい」
シャナクはそう言って目線をカルムのそばにいた小さな蜘蛛に向けた。それがいることに気づかなかったカルムは驚きの目を向けるとともに、若干安心感を覚えた。
「あの……どうやって行けば……」
カルムが言い終わるよりも先に、シャナクはうんざりした様子でため息をついた。
「……ここからしばらく行った平原の道に人間の商人団がいます。あと一時間もすれば近くを通るでしょうね」
人間――その言葉を聞いてカルムは怯えた様子でいた。その理由に気づいていたのか否か、シャナクは冷たい視線をカルムに向けた。
「何……? それに乗せてもらいなさい。まさか、人間があなたを放っておくとでも?」
困惑した様子でいるカルムをよそに、シャナクは続けた。
「人間は物好きですから、子供を魔物の闊歩する平原に一人、放り出すなんてことはしないでしょうね」
シャナクの言葉には若干の侮蔑 が含まれているように、カルムには思えた。こちらに笑いかけながらも、一向に目を合わせようとしないシャナクに――カルムは一瞬だけ違和感 を覚えた。
どうやら決して浅くない傷を負っているようだったシャナクは、その後おぼつかない足取りで部屋から出て行った。シャナクがいないこの瞬間を見計らっていたかのように……今まで沈黙を貫いていた者が口を開く。
「はは! お前からすれば、ざまぁみろってところか?」
「……何が?」
「あの傷だよ。まさかシャナク様でもあんな深手を負うことがあるなんてなぁ……日頃の行いか?」
「そんなこと……」
とても彼女側の者とは思えない言い草に、カルムは言葉に詰まった。
「言っちゃだめってか? シャナク様に聞こえやしないよ、ここからじゃあね。それともなんだ……かわいそうとでも思ったか?」
「……」
沈黙するカルムの姿を見て、表情のない小さな蜘蛛は確かに――笑った。それが喜びによるものではないということは 、カルムにもよく分かった。
「こいつは傑作だ……とんだお人よしのお姫様がいたもんだな。ここには優しい人なんて一人もいない、間違っても心を許したりするんじゃないぞ」
「……心配してくれるの?」
「んなわけないだろバカ、俺は自分を大事にしてるだけだ。お前が馬鹿やって俺に責任を押し付けられたらたまらん」
小さな蜘蛛は乱暴に言い捨てると、ベッドの上をのそのそと這い出す。そのまま白いシーツの上に張り付くと再び動かなくなった。カルムは自身の下半身を隠す毛布をどかした。
「……しゃなく様に?」
小さな蜘蛛と同じようにベッドから這い出したカルムは、ベッドのすぐ脇に立てかけられていた剣を手に取った。
カルムは立てかけられた剣を手に取る。新しいものだ。先にカルムに渡されたものとは違い、刀身にも傷はなく新品そのもの。そして若干刀身が細く、体の小さなカルムにも持ちやすいものとなっていた。
「名前は?」
「はぁ?」
「名前はなんていうの?」
小さな蜘蛛はいかにも面倒くさそうな声で言った。
「そんなもんは与えられてないな。あの堅物野郎にすらないんだ、俺にあるわけがないだろう」
「でも……なんで呼べばいいのか分からない……」
カルムの言葉に小さな蜘蛛は、いかにもため息をついていそうな様子でシーツの上から飛び降りた。それから、再びのそのそと動き出すとカルムの足元まで這って行く。
「クモでいい」
「くも?」
「ああ、素敵なネーミングセンスだろ? アクセリア様ゆずりだよ」
「……そのまま」
思っていた以上にカルムの反応が小さかったことに不満があるのか、クモは悪態をついて言った。
「はっ、満足したか? ならせいぜいこの素敵な名前を呼び続けられるようにするんだな 」
それを聞いてカルムは小さく笑った。身の丈に合わない剣を布で包んで、カルムは慎重にそれを両手に持った。再びクモは面倒くさそうに……素早くカルムの足元に飛びついた。




