傲慢の代償
埃一つ見つけることのできない、無垢の館はその様相に似合わず人間の気配を一切感じられない。日も上り始めた早朝。動植物たちの目覚めの始まる頃、屋敷には異様な空気が流れる。曰く彼の目覚めは日の出ている刻にあらず。彼――すなわちこの屋敷は階下の広間にたくさんの光を取り込み、寝息を立てている。
目に入る異様はそれだけではない。屋敷内のオブジェを常にうごめく黒い影。まるで日を覆い隠すことによって生まれる像、それが自由に意思を持って地を徘徊しているようにも見える。意思を持った黒い影は鋭くその赤い瞳を光らせ、この地を汚す不届き者をいまかいまかと待ちわびている。
階上に上がれば景色は徐々に変化を始める。眠りにつくこの屋敷は階下では光こそ取り込んでいたが、階を上がるにつれ空間に闇が満たされてくる。そして最上階――階を二つ上った先にあるのはすっぽりと布によって覆い隠された窓。
人の足元から頭の上程まであるその窓には本来美しい装飾がなされ、廊下に七色の光線を与える。その姿は意図的に屋敷内への光の侵入を妨げているに他ならない。この先に潜む何者かのために――
扉の前には一匹の巨蜘蛛。彼の八つの瞳には敬愛なる二人の主への強い意志を感じる。扉に閉ざされたこの部屋には光が一切存在しない。内に唯一取り付けられた窓すらカーテンによって固く閉ざされている。ちょうどその前に置かれた小さな椅子には一人の少女が静かな寝息を立てていた。
彼女の休息に意味はない。吸血鬼の体に睡眠などは必要ないのだから。
しかし精神的な面でいえば彼女といえど休息は必要だ。すり減った心の休息に睡眠は有効な手段となりうる。
彼女が眠る前に読んでいたものだろうか、椅子のそばに寄り添う小さな丸テーブルには一冊の本が置かれていた。これも日々増え続けるこの部屋の本棚の一冊、彼女が偶然些細な興味とともに手にとったに過ぎない。
物音ひとつ立てることの許されないこの空間。触れることすら気後れしてしまう彼女の存在は光すら類に漏れない。そんな存在を一人の影が見つめていた。
舐めまわすようないやらしい視線は彼女の容姿によるものではなく、純粋な好奇心によるもの……
僕はうれしいんだ。そう……うれしい。
なぜかって、そりゃ大切なものを取り戻すことができたからさ。大好きなおもちゃが壊れちゃった――その代わりなんて現れやしない。絶対にね。
少なくとも僕はそうだ。またあの頃の君を見られてうれしいよ。真っ白の――何もない君を見られてね。時折……君がまた色を付けるのを恐れて苦しんでいるのを見るのも楽しい。どっちにしても君にはやがて色が付いてしまうんだけどね。血で赤く染め上げて……最後には乾いて黒になっちゃうんだ。
僕が壊した君はまるで水晶玉のようだった。完璧すぎて磨きようがない。苦しむこともなければ楽しむこともない。そんな君を見るのも楽しかったけど……玩具としてはつまらないじゃないか。
真っ白の君は実にいろんな表情を見せてくれる。僕は君が笑うのを久しぶりに見た気がするよ。心の底から笑うのも見てみたいけど……それはさすがに欲張りか……
少年のような好奇心に裏打ちされた彼の狂気が純粋無垢な彼女の周囲を犯していく。しかし彼は彼女自身に手をかけることはなかった。それつまり、今は時期尚早――
『これから君がどんなふうに色付いていくのか……今度はどんな風に壊してみようかな。楽しみだよ……アクセリア』
「た……助けてくれ!」
一人の男が懇願するように醜く地面を這う。男の頭の先には黒髪の女が佇んでいた。フードのついた黒い外套を纏うその姿はまるで夜の闇そのもの。顔中を自身の体液で濡らし血を這いつくばる男を見て女は優しく微笑みかける。
「あら、嫌われてしまったようですね」
「頼む! 金なら荷台のも含めてこれで全部だ! 他のものなら何でもやるから!」
女の調子は穏やかそのもの。男の言葉さえなければ、暖かな日の元、談笑する様子にも見えてしまうほどだ。とはいえ彼女といえど、足の先から頭のてっぺんまで自身を偽ることはできない。男から滴る汚液――それが触れぬようにと、彼女は顔に笑みを張り付けながらも一歩引いていた。
「随分と気前がよろしいのですね。なんでも……とは、馬もなしにこの魔物巣食う平原からどう抜け出すおつもりですか?」
「命さえあればなんだって……っ!?」
瞬間――男の頭部は宙を舞った。紅く煌めく断面から飛び散った液体が、彼女の頬を赤く彩った。
「それならば交渉は決裂……私が求めているのはあなた方の血肉が第一。金などおまけに過ぎません」
それから間もなく――生命の痕跡すら消えたその場には一人の人影が佇むばかりであった。
黒き灰にも等しい夜の霧満ちる平原。魔物も人も等しく心と体を休めることのできるこの時。暗闇に落ちた月明かりに照らされたステージの下、一人の蜘蛛はその手を血で濡らしていた。
今は亡き者たちの残した遺物を踏み荒らすように無数の蜘蛛たちは群がり、戦利品を抱え彼女の元へと帰ってゆく。
「金品は一部屋敷に、残りは王都へ運びなさい。そうですね……大した価値もありませんし、大きなものは捨てていってもいいでしょう」
シャナクの命令を受け、彼女の眷属である蜘蛛たちが次々に小さな袋を抱え決まった一方向へと進んでいく。彼らは体格こそ大小様々だが、蜘蛛にもかかわらず翼を持っていた。その翼は翼にも関わらずまるで生き物のように――どくどくと脈打つ異形の翼。本来持つべきでないものを持たされた代償である。
主人の偏った嗜好により本来吸血鬼とは適さない蜘蛛の魔物として生み出された存在。その影響で彼女は翼を持って生まれたが、それが完全であるのは偏に主の力の強大さ故。その半分の力しか受け継いでいない彼女では力不足であった。
そんな不完全な眷属たち。それを見つめる彼女の視線は、彼女らしからぬ柔らかいものだった。主以外には冷淡な彼女も自身の分身にも等しい彼らにはそれなりの思いを持っていた。
「……」
シャナクの視線の先には鮮やかな赤い液体の入った小瓶。ちょうどグラス一杯分ほどの量だろう。昨夜あのようなことがあったとはいえ彼女の仕事は変わらない。毎日新鮮な血を主に届けなければならない。
不幸にもすれ違いにより主と別れることとなってしまった彼女は面倒事の処理の後、すぐさま屋敷へと舞い戻った。結果として主はおらずまだどこかへ行っているようだった。その後一連の部屋の手入れを行い、すぐに主が戻ってきてもよいように扉の鍵はしないでおいた。その日のうちに戻ってくる確証などはなかったが……
「(アクセリア様は今朝屋敷に戻った時にはすでにお休みでいらっしゃった。部屋のカーテンが既に閉まっていたことを考えると……本来私のするべき仕事にわざわざあの方の手を煩わせた……)」
シャナクの表情が険しいものになる。それは自身の怒りによるものに他ならない。吸血鬼である彼女にとって日の光は猛毒に等しい。吸血鬼に睡眠は必要ないが彼女はそれをよくとっている。その理由はシャナクには定かではないが、アクセリア自身それを理解していたからこそ間違っても日の光を浴びないようとった行動だろう。
しかしこれはシャナクにとって、絶対的に行わなければならない事柄であった。夜の平原を映し出すカーテンの開かれた窓はシャナクの配慮によるものだ。自分で行ったことの後始末を他者に、それも主にというのはいただけない……
加えて昨夜の出来事……シャナクを信用していないための行動である可能性もある。事実、シャナクが屋敷に戻ったのはすでに日の照らす朝。アクセリアが部屋で眠っていたこともありシャナクが行ったことといえば、部屋の鍵を閉めた程度のもの。
現状の自分の状態を見て――果たして自分は彼女の眷属として、彼女の手足として、ふさわしい働きをすることができているのだろうか……
答えは否――
「……あのような下劣な人間の血をあの方に飲ませるなどと……」
シャナクの眼には目の前で揺らめく鮮血がもはや、汚物漂う濁水のように映っていた。武力においても権力においても……まだ力を持たないシャナクが安定して得られる人間の血など、平原を通る商人程度のもの。貴族を襲う機会はない。下手な行動をすればアクセリアの存在を人間たちに知られてしまうことになる。
もちろんそれによって彼女が危険にさらされることはないだろうが、面倒事を起こして彼女の手を煩わせることは避けたい。しかし事実、シャナクにとっては貴族の血でさえ、彼女の主であるアクセリアには似合わない低劣なものに過ぎなかった。
彼女の畏敬は時に度を越えた感情を生む――
「あの方に似合うのは……王を冠する一族。人間の王族ともなれば、あの方にこそふさわしい……」
そんなシャナクの願いが果たして天に届いたのだろうか、彼女の鋭い五感が対象を定める。
平原を横切るただならぬ一行。彼らは恐れもなく夜の闇を突き進んでいく。暗闇に閉ざされた平原は視界が悪く、平凡な一行であれば好んで行くものではない。ただですら危険な魔物相手に加え、夜を好む者たちには彼ら人間の抱える障害――すなわち視界の制限が存在しない。
ところが彼らはその障害を克服している。商人たちも用いるような原始的な松明に加え、魔法の類であろう灯り。
さらに武力。単なる人間では決してない魔力を持った者たちが十人弱――これらの情報から導き出されるものは……
「人間にとっての重要人物……あの馬車の装飾の華美さを見るに……本当にそうかもしれませんね」
目の前に映る光景への期待にシャナクは舌なめずりをする。彼女の蛇のような舌が、空に不気味に弧を描いた。
主人への傾倒、先日の失態。過剰な主人への思いと先の出来事に対する罪悪感は、少なからず彼女の目を曇らせた。シャナクの性質は良くも悪くも、アクセリアとは異なり感情的であった。
しかし彼女とて冷静な判断を完全に欠いていたわけではない。人間をはるかに超える彼女の感覚器官から導き出された答えは、『自分にとって奴らは取るに足らない存在』
人間にとっての重要人物を手にかけることが何を意味するのか……それを考慮できなかったのは間違いなく彼女の過ちだろうが……
「所詮は人間……負けるはずもない」
よもやもう一つも自身にとっての想定外になるとは……シャナクは考えてもみなかった。
「よくない未来が見えた……」
幼い少年の声が言う。騎士団による固い守りの施された高貴なる馬車は闇を払い進む。彼の声に反応したものはただひとりだった。
「……エルベリアでも似たようなことをおっしゃいました。それはいつの話です?」
「あぁ、すまないコータス。エルベリアでの件は別だ」
コータス――少年にそう呼ばれた男は鋭い眉根を寄せ、主君の次なる言葉を待った。
「今回ははっきりと見えた、すぐの未来だ」
「魔物か何かでしょう、少ないですが夜行性のものも平原ならば生息しているはず……」
「それならば特に話題に挙げることもない。何も変わることのない平穏だろうな。一体誰がこの馬車を守っているんだ?」
コータスのモノクル越しから見える左右非対称の眼が少年を見つめる。これといった感情の動きは一切窺うことができない。
長い上着の裾で覆い隠されるようにして、垣間見える彼の愛剣が輝く。最小限の装飾に暗い色を基調としたコータスの様相は、銀色の刃の存在感をさらに強めた。
「何者であれ主君を傷つけることはないでしょう」
「それは頼もしい限りだ。しかし、戦いから身を引いた者の言葉を信用しすぎるわけにはいかないな」
少年の鋭い視線がコータスに飛ぶ。場に馬車の駆ける音のみが響く。それでもやはり、コータスは無表情を貫いていた。
「無駄に死なれても困る」
「どうやら私の主君は回り道がお好きなようだ」
「冗談言え、流石の私もそこまで悠長ではない」
コータスの表情が少し和らいだ。少年はそんなコータスをちらりと見やり正面を向く。その姿は幼い少年らしからぬ、堂々たる風格を漂わせていた。
「我々は常に最善を目指さなくてはならない」
コータスは頷くことで同意を示す。交わす言葉が少なくとも互いに理解をしている様子はそのやり取りが過去幾度となく交わされてきたことを示していた。
閉め切られた馬車の隙間から除く、風のように流れる景色――それを何者かの影が遮った。扉の向こうで声だけが聞こえる。
「コータス様、厄介な者が現れました」
落ち着いた女の声――高速で進むこの馬車、扉の前に人が立てるような十分なスペースなどはない。おそらくは装飾などによる馬車の突起を利用して扉の前に立っているのだろうが、そのうえでこの落ち着き……女の並々ならぬ身体能力を物語っていた。
「……人か、魔物か?」
コータスの問いかけに対し、女からの答えはすぐには返ってはこなかった。一時の逡巡の後、女は答える。
「それが……どちらとも、現状では……おそらくは魔物でしょうが」
女は話しながらも自身の中で出す言葉を選んでいるようだった。対し、コータスは一言……
「勝てるのか?」
「数名がすでに向かいました、私もすぐに向かうつもりです。周囲の守りは問題なく……どうかお気をつけて」
やがて吹き抜ける夜風とともに女の気配は消えた。声に若干幼さを感じたのも……なんとも末恐ろしいことかとコータスは思わずため息をついた。
コータスの表情はすっかり元通りになっていた。むしろ状況のため、彼の表情には険しく油断がなかった。
「やれやれ……悪い予感が当たってしまったな」
場に立ち込める緊張を多少なりとも和らげようとしたのか……少年はため息とも思える小さな笑いを零した。
魔法の灯りに照らされた豪華な馬車は道を進む。神聖たる外、高貴なる内、そのどれもが悪しき存在を寄せる魅惑の香り。すでに這い寄る悪意は着々と彼らの領域を犯していた。
「人蜘蛛か……珍しい魔物がいたものだ」
白い大層豪華な衣装に身を包んだ男の放つ一撃。警戒するまでもない……含まれた魔力は微々たるもの。人間にしては大した力量ではあるが、所詮は下等生物。
忌々しくも人間に似たこの体は奴らとは全く異なる。最上位人毒蜘蛛として、アクセリア様より与えられた堅牢な肉体。そしてそれ以上に強力なのは、歴史上数多の生物たちの命を脅かしてきたという毒。その頂点たる自身に、人間程度が何をできるというのか……
ギラリと光る銀色の刃が私の頬を貫き、首を断つ――その道筋を辿っている。初手で確実な手を打つのは間違いない。体上部は比較的防御が浅い。
しかし油断はない……この期に及んでなお失態を犯すなどは決して許されはしない。人間はずる賢さだけは厄介なことに一級品だ。チャンスなど与えはしない。
頬に当たった剣は弾かれ、よろけた人間――その頭を今度は私が狩る番だ。それによって、後続の人間どもの戦意も削げればなおよし。
「(しかし……)」
私は視線を今なお迫りくる男の、その異様な服装に向けた。
「(あのような衣装はどこかで、確か王都ヴァンテールの……っ!?)」
突如視界を赤い霧が横切った。粒状の液体に……固体も交じっている。衝撃とそして湧き上がってきた不安に、ぐっと時間が凝縮された気分がした。痛みは一切ない、そのためこのまま目の前に広がる事象を黙って見つめていることは容易い。しかしそれゆえに……図りかねない緊張に心が押しつぶされた――
「これで終われば、後から来る仲間たちに無駄足をさせるだけで済んだんだがな……自分の力量不足を後悔するよ」
男は赤い血滴る剣先を軽く振る。飛び散った血が霧雨のように草原の地に降り注いだ。
今になって痛みを強く感じる……切り傷を通り越して抉れた右頬からは生暖かい感触が伝う。
予想外だ……人間にこの体を傷つけることができるなど。魔力をほとんど感じない剣にあれほどの破壊力はない。となると、何か剣に細工がしてあるのか……あるいは私の知らない何かが……
治癒再生のため急速に凝固する血が肌に張り付く感触に私の頭は冷静さを取り戻した。訂正……ただの人間じゃない。思い出した、あの衣装は――
「光剣・【烈鋭】」
男の持つ剣が今度は淡い赤の光に包まれる。魔力の量は大したことはない、あの程度であればよけるまでもない。しかし理性とは反し、本能が告げる。あれを受けるわけにはいかない……
相変わらず不愉快な顔をする……これだから人間は嫌いだ。
男は弧を描きながらまっすぐ掲げた剣、その剣先をこちらへ向ける。刃の軌道に取り残された淡紅色の光がまるで流れ始めたせせらぎのように、夜の海に色を落とした。
「随分と知性の窺える目をしているな。まぁ本来の生息地でもないこの平原……狙いが我々であるのは、偶然か?」
「人間が……」
「おぉ……人語まで介するとは、だが礼儀というものは知らないようだな……!」
その刹那……均衡が崩れた。
光に覆われた剣を構えながら、男はこちらへ駆け出した。迫りくる獣の刃、あれはあまり受けたくはない。しかし回避を想定した行動にはリスクが生じる。こちらに力の有利があるのならば別だが、憎々しいことにあの人間には私に……それも決して浅くない傷を負わせることが可能だ。
刃は目前まで迫ってきていた。流石に一歩も動かない私を前に違和感を覚えたのか、男の表情に若干迷いが生じた。しかしここまできて、行動にまで迷いを生じさせることはなかった。
赤く輝く刃は、今度は私の喉を貫かんと迫る。刀身から放たれるオーラが激しく肌を撫でる。触れてもいないのに痛みを生じさせた。
急速に圧縮された時間の狭間、私は至って冷静だった。剣を持つ男から感じるのは、強い自信と若干の殺意。熱を持った金属の棒を前に私は土に足を滑らせるようにして一歩引いた。喉元寸前まで迫った剣先……そして急激な空間の移動に取り残された黒髪が強烈なオーラを前に切り裂かれた。
「冥土の土産に……それくらいはあげるわ」
剣によって切り離されたのはわずか数本の細い黒髪。ちょうどいいじゃないか。下等な人間にはこれぐらいがふさわしい。
剣にはやはりかなりの勢いが込められていた。しかしその代償に、男は自身の得物に引かれ、無様にがら空きの懐を晒した。横一線、空を斬る私の腕とともに人間の腹部に赤い筋が刻まれた。
「ぐぁっ……!」
男は醜い呻き声を上げる。手加減などはしたつもりはないがそれでも殺すには今の攻撃は浅すぎた……
私のつけた腹部の傷跡を手で押さえながら、男は地に膝をついた。それでもなお剣の先を野に突き立て、こちらを生意気にも睨みつけていた。
「魔物の分際でひどく頭が回るな……今のは硬質化した糸か?」
僅かたりとも怖気づいた様子はなく、男は囀る。 忌々しい……その身の丈に合わぬ視線も、汚らわしい声を聴いていると耳が犯される……
「今の攻撃に毒を盛らなかったのを後悔するぞ……」
「……人間は無駄口ばかりね」
「お互い様じゃないか」
なおも男は余裕な表情を浮かべる。苛立たしい……何がそんなにおかしいのか。
あぁじれったい、こんな雑魚に構っている暇などない。今も夜闇を進みゆく馬車は知れたこと。こうしている間にも血は遠ざかってゆく。幸い、眷属の一匹が馬車に付いているため見失うことはないが……
「(すでに夜は更けた……アクセリア様もお目覚めになっているはず。いつまでもお待たせするわけにはいかない……)」
たかが一障害に過ぎない騎士風情が――どうしてこうも私の前に立ちふさがるのかが分からない……
「エリアル様!」
「一度お引きに、あとは私たちが!」
「(……はぁ?)」
驚きと倦厭――二つの感情の狭間で思わず冷静さを欠くところだった。あの馬車にいた魔力を持った人間の数は少なくとも十人。当然最低でもあと九人、この厄介極まりない人間が現れる可能性があるということ。
しかしあるいは……
エリアルと呼ばれたあの忌々しき人間。後に現れた二人の聖騎士は、エリアルの腹部の傷を見て、私をさも仇というように睨みつけた。
たとえこの人間共が魔物として――私を見下していようと関係ない。
剣を素早く抜き放ちこちらへ向かう二人に対し、私は奴らに聞こえない程度の声で素早く魔法の詠唱を行った。中位程度の雷魔法。威力は高いが、目標が限定過ぎて当たりづらい。しかし相手は私が魔法を使えることなど露知らず、本当に私の思う通りならば、奴らはかわすことなどできない――
「が……は……」
「ば……馬鹿な……」
そして――瞬時に展開した私の魔法陣目掛け……天高くから針孔に糸を通すように、白い閃光が私のすぐ正面に降り注ぎ、二つのシルエットを貫いた。
思わず歓喜の笑みを浮かべたくなる。しかし冷静さを失ってはいけない……
「魔法まで操るか……俺との勝負、手を抜いていたということか?」
「必要ありませんから。あなたに割く力など、なんともったいないことか」
「舐められたものだ。魔物にここまで馬鹿にされたのは初めてだよ」
やはり……私の思っていた通りだった。このエリアルという人間、この男が特別だ。先ほどの二人は間違いなく神聖騎士団の一員ではあろうが……今は無様に地に伏している。
当然……一部とはいえ、私もアクセリア様の力を賜った身。一介の聖騎士程度に苦戦を強いられることなどあり得ない。そして、注意すべきはこの男……
一番の実力者が最初にやってきたことには疑問を覚えるが……こちらの力量を事前に理解していたということか。だとすればこの二人は……助力に来たとはいえ、実力差を理解できなかった、ただの馬鹿か……
「どうした? 二人を倒したことに満足か?」
倒れた二人を見つめる、そんな私の心中に気付いたのか、エリアルは言った。並べた言葉こそ特に取り上げることもないものであったが、その裏には明らかにこちらを刺すような激情が含まれていた。
「助けに来たとは言え……実力を見誤ったのは愚かだ。だが、貴様にそれを嘲笑われる筋合いもない」
奴の様子が一変した――
面白味も特にない普通の人間だと思っていたが、訂正……苛立たしいほど厄介だ。もちろんここで私が倒されることなどあってはならない……ありえないことだが、それ以前に人間ごときに邪魔をされている場合でもない。
エリアルは……魔力にやはり変化はない。しかし気のせいか、視界の先に霧がかかったようにぶれ、歪む。暗闇を通すこの目にさえ、夜の帳に一点、エリアルの発する蛍火のような微々たる光が広がる様が見えた。
妙な緊張感を覚える。まさか、この人間に負けることを考えているわけが……
男の歩みはいまだ始まってはいない。しかし意思の歩みではすでに私の眼前まで肉薄し私と対等に張り合っている。
信じ難い……信じ得ない……ここまで気を乱されるのは真にこの人間のせいか、あるいは単に目的の遅延による焦りによるものか。
忌々しき人間によって乱された私の心は皮肉か、後から現れた二人の人物によって掻き消えることとなる。この状況下で……現れる人物など、考えるまでもなく聖騎士の一員。厄介な障害がまた増えるということだ。
「シル、ジイル」
エリアルの声に呼応して、闇の中から二つの人影が現れる。
……少し、予想外だったのは……現れた人物がかなり幼く見えたことか。吸血鬼たるアクセリア様を例に挙げれば、見た目などは問題にはならない。しかし、奴らは人間……年齢は大体見た目通りで正しい。すると……あの二人はこの場にはあまり相応しくないように思える。
「エリアル様。言われた通り、コータス様に申し伝えました」
「そうか、粗相はなかったか?」
「はい……おそらくは」
淡々としたやり取り……どこか自信の欠けた返答が少女の声が返る。やはり声は幼い、しかしやり取りはそれを感じさせない。
忌々しき白の装束……やはりあの少女も聖騎士らしい。そしてもう一人は――
「どうしたのさ、シル~? もしかしてなんかやっちゃった~?」
どこか鼻につく……緊張感のない声が聞こえた。
「うるさい、エリアル様の前だぞ」
「なにさ、シルだって僕とあまり変わらないじゃない? 特に何かに夢中になると――」
「一回黙れ……」
あぁ……なるほど、どうやら余計な先入観が私にもあったらしい。いくら聖騎士などと言って厳かなイメージを喧伝しているとはいえ……このような人物がいるというわけか。
この私を散々邪魔してくれた、エリアルという人間。それとあの二人は決して浅くない関係性のようだ。
しかし、この状況を理解していないわけではなかろう。まさか……三人がかりならば私がどうにでもなるとでも思っているのか……?
湧き上がる苛立ち……自分でも重々理解している。人間にはまだ私の知らない、おかしな言動がある。とはいえ、この感情は簡単に収められるものではない。私を侮ることはアクセリア様のお力を侮ることも同意。人間ごときにそんなことは許されない……
エリアルは二人へ顔だけを向け、真剣なまなざしを向ける。視線は横を向いているが……注意が私から離れることはない。
「二人とも……倒れた二人を頼む」
シルと呼ばれた少女がエリアルの傷を見つめる。
「その傷で戦うおつもりで?」
「浅い……」
「決して無視できない傷です。ここは私にお任せください」
シルは毅然とした態度で言ってのける。流石は……聖騎士といったところだ。
「ということは……一人でか?」
「私は未熟ですので……エリアル様やジイルを傷つけてしまう恐れがあります。ですが時間稼ぎぐらいは……もちろん倒すつもりですが」
そういってシルはこちらを鋭く睨みつけた。
……エリアル以上に鋭利で、混じりけのない殺意だ。胸のあたりがじりじりと熱くなる。今になって頬の傷が痛む……
厭わしい……
「……ってことは~? 僕の役目?」
「それと俺だな」
いよいよ彼らは前向きな姿勢を見せ始めた。エリアル……それとあの卑賎はジイルといったか。随分と人を苛つかせるのが得意らしい。
……もしもこの私の感情も奴らの手の内だというのならば、精神戦では私の敗北を認めざるを得ない。その点……やはり人間のずる賢さは非常に鬱陶しい。
すでに地に伏した人間共を抱え、去った馬車の方向へ向かおうとする二人……逃がしはしない。
「それを黙ってみていろと?」
ならば力で蹂躙する。私は奴らの歩みを遮るように視線の先に立ちはだかった。
その瞬間……
視界の中心にまばゆく光が広がった。力強く空間に亀裂を入れるこの青い閃光はまるで稲妻……否、これは本物だ……
「違う、私が相手だ……魔物」
聞き覚えのある声質と口調。殺意のこもった鋭い睨みを聞かせる少女がそこにはいた。その姿を見て、私の心はまるで十年来の友人にでも会ったかのように親しみに満ちる――
しかし……すこし拍子抜けだ
魔力のこもった剣先を向ける少女を見て、口から思わず笑みがこぼれた。
「……随分と可愛らしい聖騎士もいたようですね? 神聖騎士団とは人間の中でも強者ぞろいと聞いて多少警戒していたのですが……まぁ、一部というわけですか」
シルは何も答えない。ただこちらをにらみ続けているだけだ。
「あの中で一番魔力が豊富なのはあなた……ということは最も強いのはあなたということですか……と判断できれば良いものですが……」
シルはなおも沈黙を貫いている。
――歯ぎしりのような音が聞こえたのは気のせいか。
「是非教えて頂きたいものですね。人間が魔力以外に、いったい何を持っているの……」
「よく喋る口だな。それ以上喋れば、今すぐにでも殺す」
我慢の限界が来たのか……とうとうそれは口を開いた。今にもこちらへとびかかってこんとする濃厚な殺意。理性でそれを押しとどめているというのも、また親しみ深い。
偏った思想による心の隙。それはよく理解している……
「言葉を交わすことすら拒みますか……まぁ、下等生物に何を期待しているわけでもありませんが……」
「魔物と交わす言葉など持ち合わせてはいない。低俗な獣の戯言など聞くに値しない」
憎らしいほどに、この少女には恐れがなかった。淀みがなかった。まるでその言葉が当然とでも思っているかのように。
「人語を介す魔物など……魔物は魔物らしく野を闊歩していればいい」
ただ……唯一私と異なるのは、あれには私に対する嘲りがないということか。だとすれば言葉とは裏腹に、なんと滑稽なことか……
「でなければ我々人間にとって脅威になる。ついでに貴様は魔物らしく人間を見下しているようだな」
そういってシルは剣を構える。刀身を覆っているのはやはり魔力だ。今まで目にしたことがないほどに荒々しく、落ち着きのない鋭い魔力。属性はやはり大きく雷に寄っており、青い閃光の中に時折紫電が混じる。とうに全身を覆う魔力は、明らかに少女の武器のみならず体にまで影響を与えている。
「私を舐めてかかったことを後悔させてやる」
私がどうこう言うよりも先……耳にへばりつく硬質な音とともに、不快な魔力の津波が押し寄せた。横薙ぎに振るわれた刀剣は私の眼前を通り過ぎた。とっさに回避を行わなければ切り裂かれていた……
雷のこもった魔力が肌を鋭利に撫で、体の芯にまで届く鈍い痛みを生じさせた。先ほどの男を超える速度による攻撃。狙いは甘いが、一撃で仕留めるため……的確に急所を狙う。
私を一人で倒すつもりだという自信。単なる虚勢ではないらしい……
「……避けたか。ちょこまかと……いい度胸だ」
そういい捨てると、シルは乱暴に地面を蹴ってこちらへ飛び掛かる。尖った剣先をしっかりと向け、殺意のこもった光のない眼でこちらを見据えている。
まるで天より地面を穿つ雷のように、青い光をまとった人影が迫る。やがて大地を巨大ないかずちが襲った――
剣の突き立てられた周囲の草々は黒く変色し、わずかに地面が抉れていた。一撃の余韻はいまだ収まらず、刀身から漏れ出す魔力が青い稲妻となって大地を伝う。膝を平地につけ、剣を強く握りしめたシルはこちらを見据え、強い睨みを利かせる。
無傷の私が気に入らないのか、仇に対するような態度を見せる。先のエリアルとは別種の感情……
油断はできない。しかし、焦る必要もない。
「……っ」
短い舌打ちが聞こえた。今度は一言も発さずにシルはこちらに飛び込んでくる。
「光剣ッ! 【烈雷】」
大量の雷を纏いながら、剣先をこちらに向け狙いを定める。青い閃光に包まれた少女の黒髪は雷と混じりあい、鋭利な刃物のように逆立っていた。
狙いを定めたまま、少女は平原を滑る。なめらかな動きはまるで氷の上を滑っているかのようだ。明らかに雷の影響を受けたその不自然な動きは、徐々にその速度を落としていく。
まだこちらとは距離がある。あの人間は他の聖騎士とは違い魔力が豊富だ。剣による攻撃と見せかけて魔法でも打ってくるつもりか、あるいは……
「【岩壁】」
眼前に現れた土壁はいともたやすく崩れ去る。大蛇のように地面をのたうちまわる電光が、草々を通して私の足から体を駆け巡る――
しかしそれらは私を害すには達しない。ピリピリとした感覚はするが……それだけだ。対して、私の生み出した土石の残骸から現れた少女は――予想通り。少女の衣装は砂ぼこりと滲んだ血ですっかり汚れていた。
「……良い眺めですね」
「はぁ……はぁ……一体、何が……」
いまだ稲妻の収まらぬ中、シルは自身の顔を濡らす真っ赤な血に対し、何が起こったのか理解できていない様子だった。
「くっ……魔物風情が……」
そう言ってシルは再び剣を構えるが、明らかに足元がおぼつかない。息切れも激しくなってきており……さすがに魔力に底が見えてきたらしい……
まずは一人……こちらの消費を考えても、悪くない成果だ。
魔力と親和性の高い、魔力で生み出した雷。また空を通じる雷は目の前に物質があれば、そちらを優先する。厚みのある岩壁ほどそれに適したものはない。岩の中に張り巡らせた糸は……さぞかし美味だったろう。
あの人間が完全に静止した瞬間……こちらへ飛び出そうとする足元の動きがはっきりと見えた。一瞬に過ぎないが、私の目には十分すぎる時間――先の人間であればさらに高精度、かつこちらを騙すような動きも挟めただろうが、やはりこの少女は未熟に違いない。
あの奇妙な動きはこちらを油断させるためか、あるいは瞬間的速度を出すために必要なものであったのか……どちらにしろ私に通じることはなかっただろう。
シルの表情からは次第に余裕がなくなってきている。だんだんと相応しい表情になってきたじゃないか。
「はぁ……はぁ……ぁ、は……」
電光に照らされた薄暗闇の中、単調な喘ぎに混じる不自然な発声。それだけが私にとっての予想外だった。
「あ”ぁ“ぁ……ぁは……勝ったつもり……でいるなよ……私は負けていない」
「見苦しいですね……まぁ、それも下等生物らしいですが……」
漏れ出る呻きを隠そうともしない。
私の示した合図とともに、小さく地面が盛り上がる――あの人間の足元だ。
「な……ぁ……こんなところに……いつから!?」
大地から這い出る眷属たちが目指す先はあの人間の体。足元――そして懐へ。服の隙間から入り込んでくる無数の蜘蛛が大分お気に召した様子だ。殺意とも違う、嫌らしげな感情とともにこちらを鋭くにらみつける。
再び激しい魔力の流れが辺りを満たす。あれほどの消耗を見せながらまだこれだけの余力があるというのは、人間の基準を考えればなんとも恐ろしいことだろう。しかし、あくまで人間の範疇での話……所詮は遊戯に過ぎない。
「はぁ……あぁ、まずい……! これ以上は……」
何やらぶつぶつと呟いているがこちらには聞こえない。しかし向けられたあの殺意に満ちた視線を見れば、あれが引くなど考えられない。
体に覆いかぶさるように吹き付ける魔力の中……何か嫌な感じがした。外からではない、胸の内から湧き上がる緊張――まただ、あの人間からも感じた妙な感覚。
最初の時点で圧倒的な差がある。魔力量……人間があらゆる生物に劣る所以だ。にもかかわらず……なぜこのような感情が生じるのか。
白い光に包まれた一つの影がこちらへ迫る。全身を回る雷、体中に張り付いた蜘蛛の数匹が、ぼとりと地面に落ちた。過酷な環境をものともしない蜘蛛の魔物。それでもあの雷を浴び続ければ必ず限度が来る。
ゆっくりと地を踏みしめるように影はこちらへ迫ってくる。その間も地面を黒く染める蜘蛛の死体は増えていく。しかし……いくら自分の魔力とはいえ、あの人間はあれだけの雷を常に浴び続けている。体はただでは済まないはずだ……
予備動作――そして発動。
相変わらず剣先の軌道は私の首筋へめがけて流れる。ここにきて、初めて私は自身の力への信頼が持てなくなった。
体が重い……今まで受けたダメージの影響? いや違う。大した攻撃は受けてはいない。単に自分の視界に体が追い付いてきていないだけ……
躱せないならば防御に徹するしかない。相手は魔力を用いた攻撃をしている。この程度であれば無傷で受けられる……
剣の描く軌道を遮るように自身の手をかざす。小さく、しかし濃厚な魔力の流れが掌の上で渦巻く。やがて半透明の盾として現れたそれは、即ち魔力の壁。
剣先が盾と激突したのは、それから間もなくのことだった。行き場を失った魔力の塊は、多大な反発となって二人の間に流れ出す。
力と力のぶつかりあいを勝したのは私だった。耳障りな音と多少の稲光を残してシルは後方へと吹き飛ばされた。しかし、攻撃の一部が腕を貫いたのか……鋭い痛みが生じていた。
「ちっ……小賢しい」
もはやこの程度のことでは私の感情は動かなかった。あの人間も流石にこれで限界を迎えたことだろう。
しかし……妙なことに、あの人間の息切れが聞こえない。あれのことだ、私の倒すためならば地を這ってでもこちらに向かってくるだろう。魔力切れで気絶でもしたのか……
あたりは一瞬、不気味なくらいに静まり返っていた。もともと、風が草をなでるような音しかないようなこの平原。それが先ほどまでの攻防。場を満たしていた轟音は嘘のように静まり返り、一見普段通りの様相を呈していた。
ふと……眷属の一匹の思念が消えたのを感じた。これは、確か……
刹那――笑い声がした。聞き慣れない、しかし聞き覚えのある声だ。
「あぁ……ぁは……いけると思ったのになぁ~」
間延びした声――不快感よりも先に得体の知れなさが先行した。嬉しさや心地よさが含まれたものはない。この場を楽しんでいるような感情、そしてこちらに対する若干の軽侮の念。
さすがの私もこれには心の動揺を隠さずにはいられなかった。この声の発生元はやはりあのシルという人間。しかし今までの印象とは全く異なる。加えて……右目が青白く光っている。ちょうど、あの人間の発する雷と同じ色だ。
なぜか……とても見覚えがある……
急激に態勢を低くしたシルによる猛攻。速度は先ほどよりも早く、荒々しい。攻撃に慎重さは感じられず、乗せられた殺意のみが暴走していた。
ほぼすべての攻撃は首筋、胸といった急所を狙っており、狙いはかなり正確――
「あはっ……アハハハハ! 楽しい“ぃ”ぃ“~!!」
濁音の含まれた雑な発音。頭よりも先に口が動いているのがよく分かる。先ほどまでは、殺意に満ちていながらも冷静さを失わず。笑い声などは聞いたことがなかった。
時折、少女の腕は痙攣を見せていた――
攻撃の隙のない猛攻から逃れるべく、いったん距離を取ろうと後ろへ下がる。
シルは大きく剣を一振りした。まるで大地が割れたかのように思える轟音。全身を震わせる衝撃に浸る間もなく、巨大な雷電すなわち斬撃が草原を一直線に突き進む。軌道は私の体を真っ二つにしている。私は体をねじるようにして、無理やりに軌道外に体をやった。
すぐ真横を迅雷が通り抜けた。剣の軌道をなぞるようにして、黒く焦げた草原が広がっていた。
「アハハッ! 馬鹿にしてた割には余裕がないんじゃない? あなたをぶった切れるその時が待ち遠しいなぁ~!!」
狂ったように笑う少女にはもはや理性などは残っていないようだった。攻撃性のみが残り、生まれたのはまさに獣……
そう――焦りはあった。驚きも当然あった。
しかし、それ以上に私の心を満たしていた感情は歓喜。謎の力によりこの人間は急速な魔力回復を見せた。そのため本来であれば、この人間の処理にかかる時間はもう少しかかっていた、はず……
無鉄砲にこちらへと突撃を図った少女の胸を赤く染めるのは私の腕。手の先に感じる感覚は心地の良い暖かさと風が指をなでる感覚。暴風のごとく吹き荒れていた魔力が一気に静まり返り、見る見るうちに外へ漏れ出していく。それは、生命の流れに等しき魔力が失われる――すなわち命が失われる光景だった。
少女の内部に触れる腕にはどくどくと何かがうごめく感覚……それは私から流れ出すものによってさらに動きを強める。
せっかくの最後の晩餐だ……人毒蜘蛛、その本領を発揮するとしよう。
「ぁ……あ“ぁ!? う“……うそでしょ……!?」
「ええ。あなたが獣みたいに馬鹿やってくださったおかげで楽でした。あのままあなたが冷静でいたならば……かなり手間がかかったでしょうね。それでも……結果は変わりませんが?」
体を蝕む過剰な雷、もしも体に魔力の塊たる魔物でも這わせたならば……より効率よく自分に雷を及ぼすことができるだろう。
そして未熟さ、そして殺意故の過剰なほどの急所狙い。加えて冷静さの欠如、なんと動きが読みやすいことか……
「かは……ぁ……ま…も……のがぁ“……」
「執念だけは大したものですね」
それはまるで力が抜けたように、一切の受け身なく地面に倒れこんだ。草々はじわじわと流れ出す鮮血によって美しく色づいていく。時折、口からは何か泡のようなものを吐き出した。
汚らわしい……
私は触れるのも厭らしいそれをゴミのように蹴り飛ばした。ゴミは抵抗も見せずに、私のもとから数歩離れた位置に転がっていった。
胸の奥を満たす、えも言えぬ快感。随分と面倒をかけられたおかげか……この感情に支配されてはいけない。今私がすべきは、すぐにでもこの人間を殺し、残りの障害もすべて排する。予想以上に時間が掛かってしまっているが……それでも得られる恩恵を考えれば安いものだ。
改めて地面を踏みしめる感覚を足元に味わう。息も絶え絶え、もはや憎まれ口をたたく気合すら残っていないらしい。
あとは地に伏した人形を後ろから串刺しにするだけの簡単な作業。腕の変形による鋭い刃が迫る先――
「……は?」
思った以上に私の頭は理解が早かった。痛みよりも先に視界から入ってきた危険信号。綺麗に切り取られた刃とともになる腕の先……肉片の介在を許されない刃による所作。
「さて……状況から明らかではあるが……彼女を傷つけたのは貴女……そういうことか?」
声の主は見つめ……汚らわしいそれをまるで愛娘を抱くかの如く、自身の体を密着させた。溢れ出す血が黒い影を赤く染め上げた。
「決して関わりなき関係ではない。早く彼女から離れろ……」
ふと視線をこちらに戻した声の主は言った。その表情はひどく虚空で……恐れも怒りすらも感じられない。私の体は自然に一歩引いていた。
「毒……それにこの傷は……あの場にいる魔法使いたちの腕を信じるばかりか……」
彼女の持つ剣は聖騎士たちの持つものとは多少形状が異なっているようだった。軽く反りのついたその構造は、おそらくは切断力を増すためのもの。片側のみの刃、柄には黒を基調とした色に金の紋様が刻まれている。片手には柄と似た装飾の施された鞘が握りしめられていた。
緩やかなカーブを描くその刀身、そして怪しく光沢する黒の塗り。剣先から滴るのは、真っ赤な血液。そのすべてがこの剣を、恐ろしく攻撃敵な存在として印象づけていた。
あの女剣士――ここまでの状況と印象、そこから導きだされるものは明らかに、あれが「危険な存在」ということだ。しかし、妙だ……
「心配ではあるが……こちらの問題を解決しようか?」
そういって女剣士は鋭い視線をこちらへ向ける。
裾の長い下半身に妙に袖丈の伸びた上半身。剣士であれば通常金属製の軽防具を身に着けていることが多い。あそこまで露出が少ないのは聖騎士くらいのものだろう。
下はスカートのようにも見えるがこれも違う。上下で明色系と暗色系で色が正反対になっているのも気になる。あそこまで目立つような恰好をしているのは、一部地域の伝統衣装の類か……
女剣士は視線を向けたまま沈黙を貫いた。明らかにこちらが何かしらの反応をすることを待っている。
「だんまりか……しかし別の手段で会話をする気はあるようだな? 流石は魔物といったところか……」
そういって女剣士は自身の足元をちらりと見やる。大量の魔物が足を伝って自分の体をよじ登って来る。それを何とも思っていない様子だ。
「……その自信は一体どこからやってくるのでしょうか?」
「……最近の魔物は人語を介するのか。それで、どういうことだ?」
こちらが話すことを分かっていたのか、女剣士は一切表情を変えず淡々と返した。
「あなたからは魔力を一切感じられない……」
「……なるほど。魔力がなければ弱い。そう判断するのだったな、お前たち魔物は」
女剣士の言い草には軽蔑がわずかに含まれていた。不快……しかしあの人間の言葉には経験による裏付けがなされているように思われた。
「つまり……弱いはずの人間がどうして自分を傷つけることができたのか……そう考えているのか?」
「……魔力とはすなわち生命。その生物が持つ生きる力そのもの……強大な存在であればあるほどその力は強大……矮小な人間であってもそれは変わらない」
「矮小……それは行き過ぎた表現じゃないか?」
女剣士はわずかにいら立ちを見せた。なぜかその表情変化に、私の体は無意識にピクリと反応した。何を……恐れているわけでもあるまいし……
「多少の例外があることは認めますが……それでも魔力が無に等しいあなたが私に勝てる道理はありません……いくら剣が長けていたとしてもね」
先の事をどのように行ったのかはわからない。しかし、この人間は……おそらくはかなりの剣の腕を持っているのだろう。それでもって私の腕を斬り飛ばした。魔力だけが関係しているわけではないことは理解した。しかし差を埋めることはできない。先ほどは不意を突かれただけ……
「なるほど……貴女の言うことを認めれば……私はさしずめ、剣を振るえるだけの人間といったところか」
女剣士は語尾を静かに、言葉を並べた。片手に持った鞘を腰に静かに差すと、もう片方の腕を動かす。
まるで流水のような動き……速くはないのに残像が見える。金属のこすれる音が聞こえ、一筋の軌道に沿って剣は鞘に納められた。放たれていた剣の凶暴性は鞘によって覆い隠された。彼女は瞼を閉じた――
「……気力の存在を知らないね、貴女は」
瞬間――
黒い幕が天から……ではなく、地面から突き出されるようにして現れた。幕は緩やかなカーブを見せ、上から覆いかぶさるように女剣士に迫る。やがて、幕はその正体を明らかにする。
無数の蜘蛛――先ほどけしかけたものとは比べ物にならないほどの大量の蜘蛛が女剣士を襲う。あれは先のような手段のためではない。至極単純、あれで奴を食い殺す。血に飢えた私の可愛い眷属たちだ……すぐにでもあの人間を私の目の前から消してくれることだろう。
焦りや不安――それゆえ、不確定要素への偏った信頼。この時の私の行動はやはり軽率であった。最善は血など求めなかったこと。でなくとも一人仕留めた時点で一刻も早く逃げるべきだった。
人間に対する無知、そして主人への忠誠故の自身の力への信頼。
あの方の知識となるべき者がこんなにも愚かだったなんて、笑えない……
人の形にシルエットを変化させた黒い幕は、絶えずそのわずかな濃淡を変化させていく。そして――一向に形が変わることはない。
刹那の時間の狭間、幕に一筋の切込みが入れられる。ちょうどシルエットの中心……やがて張り巡らされた蜘蛛の巣のように、黒のキャンバスは白く塗り深められていく。ほどなく薄黒い霧となって、幕は空に溶けて消えた。
「……なっ」
「……なるほど蜘蛛か。眷属を操ることが得意、自分はそこまで戦うことが得意じゃないのか?」
幻夢の時は終わり、眷属たちの肉片が地に落ちていく光景が現実として、私の前に立ちはだかった。
全てを見透かすような女剣士の色の薄い瞳。たかが人間……そんな余裕はもはや私にはなかった。無残にも切り刻まれた同志たちの亡骸が視線から離れない。この先の行動、そんなものはもはや私の頭には残っていなかった。
全身を駆け巡る寒気と動悸、胸のあたりから広がる感覚に――まるで針を刺したように水を差される。
「ぐっ! ……ぅ」
それなりの距離をとっていたはずの女剣士の姿は、次の瞬間私の目の前にいた。胸元を締め付ける鈍い痛み。口元に鉄の味が広がったあたりから、それは鋭い痛みへと変化した。
「お気には召したか? 毒が盛れないのが残念だがな」
「なに……もの!?」
「ただの冒険者さ、よくある護衛の任務についてきただけだ」
私は震えの止まらない手で女剣士の腕をつかんだ。女剣士は黙ったまま、胸元を貫通させた剣を握りしめている。その表情はまさに冷静そのもの……
「不服そうだな」
「どう……してっ!? 魔力を一切持たない……はずなのに!?」
「言っただろう? それがすべてじゃない」
次の瞬間、強く握りしめていたはずの女剣士の腕が私の手元から離れる。強く引き抜かれた剣は、再び私の体に激しい痛みを生じさせる。落ち着き始めていた私の思考が再び乱される。
汚辱……劣等感……もはや私がこの人間よりも劣っているのは紛れもない事実。力? それとも技術? 魔力という自らの範疇を超えた存在ではそれすらも分からない。
再び迫る死の刃。すでに白銀の刀身は私の血によって赤く染め上げられていた。片手で軽々と赤刀を操る女剣士は、剣を地面と水平に自らの真横に向けて構える。横なぎに振るうつもりか……徐々に腰を落としていく姿勢、いまだ収まらぬ感情に耐え、私は素早く魔力の盾を形成した。前方をちょうど包み込むように……生半可な攻撃では破壊はできない。先ほどのように一点集中の突きならばとにかく、横なぎでは……
私の自身はすでに頼りないものとなっていた。心のどこかではこれすらも破られてしまうのだと……
そして悪い予感は一致してしまう。剣を振るう姿すら見えないまま、視線の先には形成した盾がボロボロと崩れ去る様。そして胸の激痛をさらにうわ塗るように、横一線に深く傷が刻まれた。
「あり……得ない……たかが、人間……如きに……!?」
立つ気力すら残っていない。この瞬間……私は初めて膝をついた。それも取るに足りぬはずの人間の前で……!
対して向けられる視線は、こちらのことなど何とも思っていない視線。当然だろう、取るに足りない存在を殺すだけだ。ちょうど私が先刻、人間の商人団を殺したときのように……
「やっぱり……貴女自体はそこまで強くないね? 大方、司令役といったところか。あの大量の蜘蛛の魔物を操っていろいろやっているのだろう? ここで駆除できてよかった」
腕の一本すら動かすことが辛い今、私ができることはこの人間を睨みつける程度のこと……
自分のことは理解していたつもりでいた。私がアクセリア様から受け継いだもの、彼女の半分の知識と魔力……その知識の中に戦闘の知識がほとんど含まれていないことを、もっと意識しておくべきだった……
馬車に付かせていた眷属からの思念もいつの間にか途絶えていた。感づいた聖騎士の誰かに殺されたか……まさか、それもこの人間がやったのか……?
「……驚いた、ここまで強い殺意を向けられるとはな。それが貴女の本性か?」
意識などはしていなかった。おそらく、無意識のうちにそうなっていたのだろう。死に際の人間たちも……そんな目をしていたのを思い出す……
女剣士は私に憐れみの視線を向け、続ける。
「とはいえ、聖騎士である彼女をあそこまで痛めつけるほどの力だ……何のために私たちを襲ったのかは知らないが……黙って逃がすわけにはいかないな」
そういって女剣士は剣を構える。風を斬る音が聞こえ、構えられた剣の描くであろう軌道が私の首を突き抜けているのが嫌でもわかる。
女剣士からは終始殺意というものを感じなかった。今もそう、波もたたぬ落ち着いた心で私を殺すつもりだ……
「……馬鹿、このまま……死ぬわけがないでしょう?」
一瞬……女剣士の視線が揺らいだ。どうせ見えはしない。しかし、気づかれないように軌道上に壁を置くことはできる。
女剣士の持つ剣が消える。なんの手品か、この人間の攻撃には残像すら残らない。
――響き渡る鋭い金属音。女剣士からすれば予想外だっただろう。ようやく女剣士の腕が見えた。私の首を刈り取る軌道上、その手前で剣は止まっていた。剣は何かに阻まれたように、黒いものにめり込むようにして止まっていた。
この人間の言うように、私自体の強さはそれほどではない。今までは相手となる人間が弱すぎただけ。一部能力に限れば、眷属の方が高いこともある。
醜い異形の翼を生やした巨蜘蛛は、ゆっくりと私の首元から姿を現した。硬質化した彼の外骨格は、私の皮膚をはるかに超える硬さを誇る。そんな彼の体にすら剣がめり込むのだから、この女剣士の恐るべき力が窺える。
あとは……あまり気が進まないが……
「……まさか悪あがきか? これが通用しないことは理解していると思ったが……」
地面を押し上げるようにして現れた大量の蜘蛛。黒のカーペットを引いた彼ら眷属たちの侵攻の先はただ一つ……あの女剣士を死ぬまで喰らいつくすこと……
そんなことは叶わない――
「……ふ~ん、なるほどね。少し感心した……まさか数でどうにかするとは……」
平原に広がる大地。それを食い破り荒らす黒い大地。仲間たちの亡骸を踏み台に、決死の特攻を仕掛ける彼らの目には恐れなどはない。彼らは……忠実に命令をこなす道具なのだから……
のはずなのに……心が痛む。
爆発音のようなものが聞こえた。衝撃による余波は大地を抉り、ここまで伝わってくる。それが何によるものなのかなど……考えるまでもない。
太く、硬い蜘蛛の足が私の体を支える。どくどくと脈打つ異形の翼が力強く空気を押しのけると、見る見るうちに地面が遠ざかっていく。下界にはまだまだ現れる無数の蜘蛛の処理に追われる女剣士の姿が見えた。
再び大地が揺れる。土煙を上げる竜巻が女剣士を中心にして巻き起こり、近づく蜘蛛を次から次へと肉片に変えていく。かと思うと、私たちが先ほどまでいた場所を突風が吹き抜けた。
まさに電光石火――目にも止まらぬ斬撃が深く地面を抉り、視界の果てまで続く道を大地に作り出した。先の雷のような派手さはないが、恐るべき攻撃。あれを受けては私も彼も耐えることは不可能。あの人間が今まで全く本気など出していなかったことを理解した。
夜の風を受ける空中散歩。あの場にいたほとんどの蜘蛛の思念は消滅し、もはやあの女剣士が追ってくることはなかった。多大な犠牲を払って何とか私は生き残ることができた。
今後は今までのようにはいかなくなるだろう。自身の眷属の半分以上があの人間に殺されてしまった。結果として私が得られたものは無に等しく……私の自己満足のためにアクセリア様にすら迷惑をかけてしまうことになるだろう。
「こうなることが分かっていれば……アクセリア様に人間についてもっと聞いておくべきだった……!」
これらはすべて、私の人間への軽視が招いた事実。先日のアクセリア様はそんな私に呆れ果て、私の前から去ってしまったのだろう。
「本当に……とても……よい夢が見られそうです。アクセリア……様」
目の前を横切る一匹の蝙蝠……アクセリア様が預けてくださった眷属の一匹だろうか。思念が読み取れない……同じアクセリア様の眷属ならば分かるはずなのに、それすら分からないほどに私が疲弊しているせいか……
私を抱える巨大な蜘蛛の思念が強く伝わってくる。自分の傷などお構いなしに私のことを心配しているようだ。醜い蜘蛛の翼が優しく私の体に触れた。
「待て! ジイル!」
「何……僕はシルをこんな目に合わせたあいつ……殺すだけだけど……」
静かな語尾には抑えようのない怒りが含まれていた。今のジイルに平生の余裕などは微塵も感じられない。
「彼我の差を認めろ……シルよりも弱いお前が勝てる可能性は低い」
「は……ぁ? このまま引き下がれって!?」
「あとは彼女に任せるんだ。こちらもかなりの戦力を失った。魔法使いはまだいるがやはり主力は我々聖騎士。後々の護衛に響く前にここは引くべきだ」
すでにシルを含めた三人の聖騎士が倒れている。今は魔法使いとともに馬車の警備にあたっている聖騎士も決して弱いわけではないが、あの魔物を相手するにはいささか力不足だ。現状、エリアルに次いで強い聖騎士は、神聖騎士団全体でみてもかなり若いシルとジイルである。
傷を負った三人の聖騎士は、激しく揺れる馬車の荷台に横たわっている。けが人をこのような不安定な場所に置いておくのは、エリアルにとっても不本意であった。しかし、誰もこの状況など想定しているはずもなく……今もなお進む馬車の上に充実した医療設備などはない。
「俺たちはまだ……大丈夫です……」
「シルのやつを……先に……」
息も絶え絶えの様子で二人の聖騎士が言った。周りを気遣う余裕などない彼らでも、自分たちよりもシルの傷のほうが深いことは理解しているようだった。
すぐにでも治癒魔法が使える魔法使いがこの場にやってくるだろう。しかし、彼らの中に治癒魔法を専門に扱うような者はいない。雷撃を受けた二人はまだ助かるだろうが、シルは分からない。ただですら深い傷に加えて人蜘蛛の強力な毒……エリアルは気が気でなかった。
その時……肌に触れる、柔らかくも鋭さのある風。突如として現れた気配に、エリアルが思い浮かんだ人物はただ一人であった。
「ユズ殿……その体は……」
相も変わらず目に留まるのは、見慣れない異国の装束。血に濡れた剣と人のものではない肉片がこびりついた様子を見ると、相当激しい戦いであったに違いない。
「すまない、奴は逃してしまった……」
そう言ってユズは眉根を寄せた。表情の変化は少ないが、悔し気な様子だ。今朝がたの彼女の穏やかな表情を見慣れていたエリアルにとっては、今の彼女の様子は意外であったが……彼女の経歴を考えれば、むしろこちらが素なのかもしれない。
極めて純度の高い魔鉱石……存在すら疑われる幻の鉱石の名を冠する者――ダイヤモンド級冒険者。
彼女――春宮・ユズはあの前神聖騎士団長にも匹敵するほどの剣の怪物である。変わり者……というよりも狂った者の多いダイヤモンド級冒険者の中では、かなり話のできる人間である。
今回の依頼が成ったのも、王都ヴァンテールの王、その強い希望によるものであった。だからこそ――ここまでの状況は予測できなかったと言える……
ようやくやってきた魔法使いの一人が不安定な馬車へと足を踏み入れた。毒の影響か、凝固しないシルの血によって、荷台の木が赤黒い木目を呈する。このような状況は流石に慣れているのか、魔法使いは迷わずシルの治療に取り掛かった。しかし状況は芳しくない。
「おい! シルは……助かるのか、どうなんだ?」
「あまり良い状況とは言えないでしょう……かなり強力な毒です。今ここにいる魔法使いでは解毒は不可能です」
言葉の最後を聞いたとき、もはやジイルにいきり立つだけの威勢は残っていなかった。
「このまま傷を塞いで……出血による死は免れても、毒による衰弱死は免れないでしょう」
すでにやってきたもう一人の魔法使いが二人の聖騎士の治療を始めている。どうやらそちらは最悪の事態は免れたらしく、こちらほど重い空気はない。
エリアルは最後の決断すら下すことのできない自分の無力さを痛感していた。魔法使いでもない自分には、自分の命を懸けてでも彼女を救うことはできない。今のエリアルには、自分の先の選択を疑うことか……あるいは祈ることしかできなかった。
この場における一番の部外者であるユズはやはりというべきか――落ち着いていた。しかし、エリアルからすれば彼女はシルとそれなりに良好な関係を築いていた。
「(にもかかわらずこの冷静さは、やはり……いや)」
エリアルは自分が今、少しでも彼女への負の感情を抱いたことを恥じた。少なくとも……自分の知っている彼女は、他人の死を何とも思わないような人間ではない。
「エリアル様……こちらを」
エリアルは横から声をかけてきた魔法使いに一瞬驚いた。まったく自分の意識外のことであったためだ。普段のエリアルであればそのような隙を見せることはない。
「……これは?」
「ヒル様が、シル様にと……」
ヒル……という名前にエリアルは敏感に反応を示した。
「なぜですか……?」
「コータス様によりますと、ヒル様曰く……」
「彼女はまだここで死ぬべきではない……」
馬車の外を眺める少年は言う。すべてを達観したような少年の瞳は、暗闇を突き抜ける月光によってぼんやりと輝いている。
「そうはいいますが……あれは国宝級の治癒ポーションではありませんか」
「あの場を目にして彼女を放っておくというのは……あまりにいたたまれないことではないか?」
「……」
コータスは言い返すことはできなかった。彼女は将来有望な聖騎士だ。若い芽を潰すわけにいかないという気持ちもある。しかし、本当に選択は正しかったのだろうか……彼女に国宝級の治癒ポーションを使うだけの価値があったのか……
だがコータスに迷いはない。少年の見通す未来に誤りはない。
「世界に何やら異変が起き始めている。あるいは……招集を行う必要があるかもしれない」
「アルピスは招集に応じるでしょうか……近頃、アルピスに怪しげな動きが見えます」
「さすがに彼らも条約を破ることはあるまい。しかし……何か決定打を用意しているかもしれん」
王都を出る前――その時からすでに異変をコータスは感じ取っていた。冒険者たちの動きも以前よりも活発になった。
「まずはフィシスに使いを送るとしよう。奴ならば良いように取り計らってくれるだろう」
コータスは少年の姿を見つめていた。世界の未来を導いていくあのお方の行く先に、決して障害が立ちふさがらぬように――




