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宵雨佳肴譚

宵雨佳肴譚~悪魔の一皿~

作者: 真上犬太

 少し肌寒い、雨の日の午後。

 俺は、一匹の悪魔をどうするべきか、考えていた。


 その日は朝から天気がぐずつき、客の入りが悪かった。

 おまけに木曜日とくれば、売り上げが伸びるはずもない。湯を沸かし続ける寸胴の呟きを耳にしながら、憂鬱な気分で手にした紙切れに目を落とす。

 カウンター五席、四人がけテーブルが三卓という細長い穴倉のような店だ。従業員は俺一人の小規模経営だから、メニューもこんなコピー用紙一枚に収まってしまう。

 それでも仕入れを工夫し、季節の食材を取り入れて、それなりにバラエティを持たせてきたつもりだ。売り上げも、月平均で見ればそこまで悪くない。

 だが、


『申し訳ないんですが……来月からこの鶏肉、値上げさせていただきたいんですよ』 


 なじみの業者の一言が、ある料理の存続を揺るがせた。

 鶏の悪魔風焼き(Pollo alla Diavola)。良くも悪くも素朴としか言いようのない、肉料理の一品だ。

 名前の由来ははっきりしない。香辛料の刺激的な味が悪魔を思わせるから、というのが良く知られた通説だが、店によっては辛さを抑えていることもある。解釈はそれぞれに任せるといったところだろう。


 うちの場合は塩胡椒を控えめに、辛味もカイエンヌを皮にすり込む程度。その代わり、オリーブオイルとバターを使って、じっくりと焼く。

 汁気たっぷりのもも肉と、ぱりぱりに焼けた皮。バターソースをからめて熱々のところをほおばれば、その美味さは悪魔的に客を魅了する――はずだった。


 決して人気がなかったわけじゃない。それでも同じ肉料理、たとえばソーセージやスペアリブのグリルに比べて、いまいち出が悪かった。

 その上、材料の鶏肉が値上がりとくれば、レギュラーメニューから外すことを考えるのも、仕方ないというわけだ。

 安い材料に変えるという選択肢はない。

 味付けがシンプルな分、そういう変化は悪い影響になって噴出する。

 そして、赤字メニューを抱えて経営できるほど、儲けが出ているわけでもなかった。

 経営者として、損を切って儲けを出すのは当たり前のことだ。

 チキンを使った料理なら他にいくらでもある。トマト煮込みや、濃い味付けのソースを使った料理なら、安い鶏でも十分人気が出るだろう。

 それでも、それでも――これだけは。


 からり、と店のドアが開いた。

 カウンターを超えて、湿り気交じりの冷えた風が厨房に入り込み、すぐに途絶える。

「ふぅ……っ。寒っ……」

 誰に言うでもなく呟いた客は、戸口のマットレスで靴の湿り気を取りながら、俺の方に軽く会釈をしてみせた。

「開店していると見て入ってきたのだが、大丈夫かな?」

「あ……はい。いらっしゃい」

 コートとジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけると、ちょうど俺の真正面に当たる席にどっかりと座り込んだ。


 歳の頃は三十後半か四十くらいだろうか。全体的に丸っこい、かなり太った男だ。

 白いシャツが腹の圧力で押し出され、ボタンが危うい張り詰め方をしている。

 たっぷりした二重あごと、ふくふくしい頬肉。毎年メタボ検診に引っかかって、医者に嫌味を言われているだろうことは想像に難くない。

 身につけている時計やシャツの仕立ては上等なもので、短く切りそろえられた髪もふっさりと若々しい。会社の役員、あるいは社長クラスの人間だろうか。

「こっちには、お仕事ですか?」

「そんなところさ。商談を終えて、何かうまいものでも、とな」

 温めたおしぼりを手渡すと、いかにもおじさんといった態で顔を拭き、手をぬぐう。

 何かうまいものを、か。

 五分ほど歩けば駅前通りだが、十数年前の再開発とやらで、昔ながらの個人店は軒並み姿を消していた。あるのはチェーンの飲み屋にファーストフード、ファミレスくらいだ。

 つまりこの御仁は、"何かうまいもの"を探して、雨の中を歩いてきたことになる。

「そうだな……スパークリングをグラスで、ピクルスにオリーブの盛り合わせとチーズ、それとフライドポテトをもらおうか」

「かしこまりました。飲み物は先にお出ししても?」

「かまわんよ」

 セラーからボトルを一本出し、抜栓する。

 かすかにシトロンのような香りが立ち上り、十分飲み頃であることを伝えてきた。

 糸のように注ぎいれると、泡立つ酒はふつふつと呟きながら、細長いグラスを淡い金色で満たす。

「前から失礼します。料理もすぐお出しますので、少々お待ちください」

「いいとも」


 さて、やるとするか。

 受けた注文を頭の中でおさらいし、俺は料理を提供する順番を組み立てる。

 客が多いときは「できたものから出す」になりがちだが、本来はサーブの仕方まで考えて作るのが、料理人の仕事だ。

 スパークリングの当てならチーズを先に出すのがベストだが、準備に一手間かかる。冷蔵庫からオリーブのビンを取り出し、乾物を置いた棚からドライトマトを少々取った。

 中に仕切りのある小鉢、その片側に緑と黒のオリーブを盛り、反対側には赤いドライトマトを。トマトには軽くオリーブオイルをかけ、金のピックを添えた。

「失礼します、オリーブの盛り合わせです」

 男はちらりとドライトマトに目を向け、無言で器を受け取った。

 オリーブの軽い塩気は、前菜アンティパストの一品目にはぴったりだろう。添えられたドライトマトも、噛むほどに旨みを味わえる。


 太い指がピックをつまみ、突き刺したトマトのかけらを放り込んだ。

 じっくりとかみ締め、かみ締め、ワインで口を洗う。

 それからオリーブを噛み、また泡立つ液体で流し込んでいく。

 どうやらお気に召したらしいが、これは少し急いだほうがよさそうだ。

「失礼します、ピクルスです」

 うちのピクルスは大き目のビンに、二日分くらいをまとめて作り置きしている。

 今回はきゅうりとにんじん、変り種にみょうがを漬け込んでいた。小鉢に盛られた野菜を見てうなづき、男はみょうがに手をつけた。

「……みょうがとは面白い。味付けもピクルスそのもの、というわけではないな」

「ええ。米酢にカツオだしです。みょうがは香り付けに、和風アレンジってヤツですね」

 本格的なピクルス液は作るのに手間がかかるし、ワインビネガーの風味は日本人の口には受けがよくない。結果として生まれたアレンジメニューだが、季節によってはビン二本漬けても、すぐになくなってしまうくらいの人気だった。


 受け答えしながら、俺はチーズの準備に取り掛かる。

 エダム、ゴルゴンゾーラ、カマンベールの三種を切り分け、小ぶりのミルクポットに蜂蜜を満たす。チーズの添え物にはバケットやクラッカーを使うのが一般的だが、うちではグリッシーニを提供することにしていた。

「失礼します、チーズの盛り合わせです。お酒のお代わりは?」

「瓶ごともらうことにしよう。手酌でやっているから、ご亭主は料理に専念してくれ」

「ありがとうございます」

 素焼きのワインクーラーを手渡しながら、俺は、今日までのことを思い返していた。


 ここにやってくる客は、中年のサラリーマンか家族連れが中心だ。

 サラリーマン連中は軽いつまみにビールかハイボール一辺倒で、家族連れは一品料理はほとんど頼まず、ピザやパスタにご執心とくる。

 こんな風に、ア・ラ・カルトな注文をしながらワインをたしなむ人間は、久しく見なかったかもしれない。

 客のニーズに答えるのが店側のありかたとはいえ、個人経営の店に来てまで、ファミレスと同じようなサービスを求められるのは――。


 仕掛けていたタイマーが、小さな電子音を立てて上がりを知らせてきた。

 物思いを、下げた小鉢と一緒にシンクに置き去り、オーブンに収めていたジャガイモたちを取り出す。

 もともと、うちのメニューにフライドポテトは無かった。

 ゴルゴンゾーラとクリームソースのオーブン焼きがその位置だったのだが、フライドポテトを求める声には、一歩及ばなかった。

 くし型に切られたポテトは表面に薄く焦げ目がついている。こいつにオイルを塗って揚げ焼きにすれば、お客さんのお腹周りにもやさしい、ヘルシーな一品になったろう。

 だが俺は、割とサディスティックな気質だ。

 ローカロリーなんぞ知ったことか、とばかりに、たぎる油に満たされた鍋へと、炭水化物の塊を投下する。

 さらにローズマリーを一本、皮をむかずに半割りにしたにんにくを入れた。

 しゅうっ、と熱に泡立つ音に、客の視線が一瞬こちらに向く。目元を緩めると、彼は手にしたミルクポットの中身を、アオカビのチーズへと静かにたらした。


 塩気のある食い物と甘いものは、魅惑の組み合わせだ。

 特に、ゴルゴンゾーラのような濃厚なチーズと蜂蜜のこってりした甘味は、一度食べると病み付きになる。

 おまけに、軽いスパークリングとの相性も最高とくれば、結果はいうまでもない。

「うむ……すまんがご亭主、もう一本同じものを」

「……かしこまりました」

 残り一本になったワインを取り出し、空の瓶と取り替える。客のほうは、再びメニューを手にして、次の注文を考えているようだった。

 どうやら結構な酒豪、かつ健啖家らしい。あの胴回りになるのも仕方ないと言ったところだろう。

「季節の魚のグリエとあるが、今日は?」

「今日はスズキだけですね。ご予約いただければ、他にもお出しできたんですが」

「それは次の機会としよう。ではグリエと……鶏の悪魔風をいただこうか」


 なんとなく、その注文が来るような気はしていた。

 うちにコースメニューは無いが、客が気づきさえすればアンティパストから始めて、第一の皿プリモピアット第二の皿セコンドピアットと組み立てることができる。

 魚の次に肉とくるのは、かなり贅沢な部類に入るが、それほどおかしくはない。

 そういえばこの客、調理設備を把握したような、絶妙な注文の入れ方をしていたな。

 今回もオーブンを使う料理がかち合うのを避け、同時に調理に入っても、魚の方が先に提供できる組み合わせにしていた。

 食いしん坊のなせるわざか、あるいはこの男も料理人ごどうぎょうなのか。

「かしこまりました。少々お時間をいただきますが」

「かまわんよ。足りなければグリッシーニをもう少しいただくかもしれんがね」

 男は細長い堅焼きパンの先端を、蜂蜜に浸してぽりぽりとかじっている。俺がクラッカーよりもグリッシーニを選んだ理由のひとつが、これだった。

 もちろん、そんなわびしい思いをさせるつもりはない。

 狐色に揚がった宝の山をさっと引き上げ、油切りして小山に盛り付ける。

 塩を一つまみ振りかけ、パルミジャーノを淡雪のように散らす。かたわらにマヨネーズとケチャップの入った器を置く。

 そして、揚げにんにくとロースマリーを彩りに添えて。

「失礼します、フライドポテトです」

「おお……」

 男は両手で皿を受け取り、ちうちうと呟いているそれを、指でつまんで口に入れた。

 熱さに顔をしかめ、はふはふと息を漏らして揚げた芋を食べている中年男。かなり間抜けな姿ではあるが、それも仕方ない。

 人はすべからく、うまいものの前では本性をさらけ出すものなのだ。

 彼はまず、何もつけずに塩味を楽しみ、それからケチャップ、マヨネーズと交互につけて食べ、さらに両者を混ぜてオーロラソースに仕立てて、揚げた芋を味わっている。

 俺はといえば、手早く魚と鶏に下味をつけ、二枚のフライパンに油を引いた。


 ここからは時間の勝負だ、手を止めずに一気にいく。

 ハーブ塩を身に振ったスズキは、煙の立ち始めたフライパンに。皮目を下にした鶏は中火にしたフライパンが行く先だ。

 鶏の悪魔風の肝は、皮を揚げ焼きにすることだ。小麦粉などは振らず、上から重しを載せて、油と火加減だけでかりっと、皮せんべいのように仕上げる。

 スズキのグリエはさらに慎重さを要する。魚の身は火が通りやすく、フライパンでは均質に仕上げにくいからだ。

 鶏の上にホイルをかぶせ、水を入れた小鍋を乗せると、俺は肉厚なスズキの半身を、さっとフライパンに滑り込ませた。

 火が立ち上がる。薄いピンクだった魚肉が白っぽくなったところで、フライ返しを差込んで返し、皮目を上にしたまま熱源から遠ざける。

 後は、フライパンにたまった油を、皮目にすくっては掛けることを繰り返す。

 奇しくもと言うべきか、今回のメインはどちらも、柔らかな身と歯ごたえのある皮を楽しむオーダーだ。

 とはいえ、使う技術は正反対。魚はすばやく、肉はじっくりとだ。

 見た目にもさくさくとした具合に魚の皮がしあがり、そのままオーブンに向かう。

 俺は肉にフライ返しを差込み、事態の進行を確かめると、そのまま付け合せガルニの仕込みに入った。

 

「そういえばこのポテト、だいぶ手間を掛けておるようだな」

 揚げたにんにくを手でむきながら、客はにこやかにそんなことを言った。

「下ごしらえに蒸して、その後オーブンに入れて水分を飛ばし、さらに揚げているのか」

「……そうですね。茹でると、どうしても水っぽくなるんで」

 オーブンに入れるのは見せていたが、下ごしらえまで見切られるとは思わなかった。

 つやつやとした、銀杏のようなにんにくをほおばる男に、問いかけた。

「お客さん、やっぱり料理関係の方ですか?」

「いいや。ただの食道楽さ。よそで似たような工夫をしているのを見たのでな」

「本当は豚のラードで揚げるのが最高なんですけどね。そこまで手が回らなくて」

 魚のグリエはうちの人気メニューだ。特に女性客の受けがよく、回転率も悪くない。

 だから、付け合せにプチトマトとディルの葉を飾るくらいのおしゃれだってできる。

 チン、という機嫌のいい音とともに魚が仕上がり、塩気を含んだ熱風を浴びながら、出来立てを皿に盛った。

 緑のジェノベーゼーソースを掛け、ピンクペッパーをアクセントにすれば、完成だ。


「お待たせしました。スズキのグリエ、ジェノベーゼソースです」

 行儀のいいことに、フライドポテトの皿は場所を空けるために端へよけられていた。空の小鉢も上に重ねられ、料理と交換に手渡してくれる。

 客は先ほどよりも少し、慎重な様子で出来を眺め、それから厳かにナイフとフォークを手にして、魚の身をほぐし始めた。

 身離れはいい、皮もナイフで切れるぐらいに仕上がっている。後は、味を気に入ってもらえるかどうかだ。

「うん……美味い」

 答えは、意外とあっさり手に入った。

 俺はあえて何も言わず、鶏のフライパンの前に立つ。

 上から重しをのけ、ホイルを取り去ると、バターと胡椒の香りが入り混じった湯気が立ち昇った。

 フライ返しを当てて裏返すと、鶏の皮は濃いブラウンに色づき、程よく焼けていた。

 後は肉に焼き目をつければいい。ホイルの蓋を掛けて蒸し焼きにする。

 ガルニは赤と黄色のパプリカにマッシュルーム。切ったパプリカをオーブンで加熱、マッシュルームは乱切りにしたものを、ドライオレガノとわずかな塩で軽く炒める。

 その間に鶏の火を止めて、皿に引き上げる。付け合わせを端に載せ、フライパンに残っていたオリーブオイルとバターと、鶏の脂と旨みが交じり合ったソースを静かに、皿を汚さないように回しかける。

 半月に切ったレモンとイタリアンパセリを添えて、完成。


「お待たせしました、鶏の悪魔風です」

 スズキは皮も残さず姿を消していた。まったく見事な食べっぷりに感心しつつ、俺は料理と一緒に別の器を客に手渡す。

「この鶏は、バケットもセットなのかな?」

「そういうわけではないんですが……初めてのお客さんへ、サービスということで」

 満足げにうなづいた客は、今度はためらいも無く銀器を取り、よく焼けた鶏のソテーにナイフを入れた。

 ぱり、という音が聞こえそうなくらいに仕上がった鶏皮、肉からは透き通った脂と汁気があふれ出し、バターソースと交じり合う。

 それらをたっぷりと絡め、口に運ぶ。

 客の顔がじんわりと、喜びにほころんだ。

 それから、付けあわせと一緒に、あるいはレモンを絞り、味を変えて楽しんでいく。

 最後に、残った脂をバケットできれいにぬぐって食べきってしまうと、彼は満足そうに吐息を漏らした。

「大変おいしかったよ、ありがとう」

「いいえ、こちらこそお口に合うものをお出しできて、よかったです」

 そこで男は、何か物欲しげな視線をさまよわせ、仕方がないとでも言うように笑った。

「本来であれば、ここでドルチェとしゃれ込みたいが……コーヒーをいただこうか」

「……そうですね。申し訳ありません」

 一応、うちの店もケーキくらいは用意してあるが、それはコーヒーを卸している業者が持ってくる、出来合いのヤツだ。

 料理と菓子作りは、似て非なる技術。俺もティラミスぐらいは何とかいけるが、このお客を喜ばせるレベルには、おそらく届かないだろう。

 俺は汚れた皿を取り除け、コーヒーを給仕すると、そのまま後片付けに回る。

 男はカップを片手に、雨を眺めていた。  


「ここに店を出して何年ぐらいかな?」

「そうですね、そろそろ六年になります」

「土地に馴染むには十分な時間、そして倦怠期を迎える時期だ」

 なかなか痛いところを突いてくるじゃないか。

 店が軌道に乗れるかは、最初の三年がカギと言われてる。五年持てば中堅、十年いけば老舗と言っていいだろう。

 それ以上続けられるかは、幸運を期待する領域だ。

「とはいえ、ご亭主の腕前があれば、この店もしばらくは安泰だな。新しい行きつけができたのは喜ばしいことだ」

「ありがとうございます。次は別の料理も試してみてください。たぶん……メニューも変わっていると思いますので」

 言い終わってから、俺は口を滑らせたことに気がついていた。

 言葉の端からにじみ出た苦味に、男は眉根を寄せた。

「レギュラーメニューの変更、ということか」

「……そうですね。お客さんが召し上がった悪魔風、たぶん来月には無くすと思います」

「開いた場所に入れる料理は、決まっているのか?」

 無遠慮な問いかけだったが、口調には惜しむ気持ちが感じられた。

 これ以上、一人で抱え込むのも限界だったところだ。

 俺は恥をしのんで、これまでの顛末を口にした。

「なるほど。それは確かに、メニューの変更を考えるべきだろう」

「仕入れ値も、最初のお試し価格をかなり据え置いてもらっていたんですよ。物がいいから、時間さえ掛ければ広まるだろう、その時に適正価格に改めようと」

「当てが外れた……と言うよりは、客層の読み違えだろうな」

 男は、酒類の置いてある棚に視線を送り、納得したようにうなづく。

「近くの駅を利用するのは、都内に職場を持つサラリーマンが中心だ。そうなれば、客が求めるものも限られてくる」

「もう少し、主婦層も来てくれると思ってたんですけどね」

「それならここより郊外の、住宅街に大き目の店舗を作った方がよかっただろう」

 ずいぶんはっきりとした物言いだ。

 この話しぶりなら、おそらくこの人の職業は。

「経営コンサルタントの方、ですか?」

「そんなところだ。料理は専門外だがね」

 男は断りを入れて、取り出した葉巻に火を入れる。そういえば、うちも分煙をどうするか決めておかないとだ。

「いずれにせよ、答えは決まったようなものだろう。現代に幻想の棲家はない。悪魔の出番はもう終わりということだ」

「……そう、なりますよね」

 葉巻の先がじわっと赤くなり、白い煙の帯が吐き出される。

 思いもよらない勢いで吐き出されたそれが、まるで炎の吐息のように見えた。

「だが、人間は不条理の生き物だ。そして、感情の生き物でもある。ご亭主、あの料理には何か思い入れがあると見たが、いかがかな」

「それも経営コンサルタントの慧眼ってやつですか」

「人の欲得は譲れない熱情から生じるものだ。差し支えなければ聞かせてもらっても?」

 俺はコーヒーのお代わりを注ぎ、自分にも一杯淹れながら、ごく簡単に思い出を語ることにした。


 それはまだ、子供のころの話だ。

 誕生日だったか、別のお祝いだったか、家族と親戚で連れ立って近所のイタリアンで食事をしたことがあった。

 一緒に行った親戚の子供連中が、ピザだのパスタだのを頼む中で、俺だけは一品料理にあった、鶏の悪魔風が食いたいと言い出した。

 大人たちに散々説得されたが、結局俺は自分の意志を押し通した。

 その時の味は、俺の心に強烈な印象として残った。

 それっきり、その店に行く機会がないまま、何年もが過ぎたある日。

 バイト代を手に入れて懐があったかかった俺は、偶然あの店の前を通りかかった。

 もう一度、あの味を食べてみたい。

 俺は店の扉を開け――。


「――なつかしの味と再会した?」

「いいえ。無くなってたんですよ、鶏の悪魔風は」

 鶏の悪魔風はメニューから姿を消していた。それどころか、メニュー表の大半は、ピザとパスタに埋め尽くされていた。

「店の親父さんも、苦笑いしてましたよ。"こんな田舎じゃ、イタリアンと言えばピザかパスタになっちまう"って」

「なんとも、笑えない話だ」

「ええ。それで俺は、進路を変更して、料理学校に進むことにしたんです」

 どこにそんな情熱があったのかと、今にして思えば驚くほどだ。

 俺はただ、無性に悔しかったのだ。

 あのおいしかった料理が、どこにでもあるような、ピザやパスタに塗り替えられてしまったことが。

「この店を出すとき、決めてたんですよ。今度こそ、俺がこの悪魔の生きる場所を創ってみせるって」

 さすがに口にするのは照れが入ったが、それでも気持ちに偽りは無かった。

 店は軌道に乗り、何とかうまくやってきたつもりだった。

 それでも、ここまでが限界なのだろう。

「ありがたいことに、うちはまだピッツェリアを名乗らないで済む程度には、一品料理が残ってます。この料理を残せないのは、残念ですけどね」

「そうか」

 男は短くなった葉巻をもみ消し、伝票を軽く指で叩いた。

「お勘定をお願いしよう」

「ありがとうございます」

 代金の内訳を確認すると、男はきっちり端数まで払って、席を立った。

「では、近いうちに来るとしよう」

「またのご来店をお待ちしてます」

「――そうだ」

 立ち去り際、ずんぐりとした背中越しに、男はこんなことを言い出した。

「ご亭主、もし君があの悪魔を生き残らせたいというなら、面白い提案がある」

「提案、ですか?」

「来週から一月、ランチメニューとして悪魔風を出してみるといい。そして、夜の一品料理を、今より百円ほど高くする」

 そんなことをして、なんになるというのか。

 第一、ディナーメニューを高くすれば、余計に出が悪くなるだろう。

「もちろん、今のままでは何の意味も無い行為だ。だから、レシピも変える」

「さすがに今から、レシピに手を加えるのは……」

「難しいことはないさ。"耳かき一杯分、塩を加える"……工夫はそれだけだ」

 怪訝そうな顔をしている俺に、彼は片手を振って雨の町に去っていく。

「やるかやらないかは、ご亭主の自由さ。自分はどうしたいのか、よく考えるといい」

 静まり返った厨房に取り残され、俺は彼の言葉を反芻していた。

 耳かき一杯の塩、なんて使い古された表現だ。そんなことで何かが変わるのか。

 それでも、それでも――これだけは。

 

 俺は、フライパンに残った悪魔風のソースを小指に取り、舌で確かめる。

 それから、自分の夜食をかねて、試作を始めた。




 その日は、朝からずっと天気がぐずついていた。

 肌寒さが残る木曜日の午後。表の看板を開店中に切り替えると、店内へと戻る。

 さすがに午後の営業は振るわないだろう。雨は人を店から遠ざけるもの、こんなときにわざわざ外食をするのは、よほどの物好きだ。

 そして、からりと戸を開けて、物好きはやってきた。

「開いているかな?」

「はい、いらっしゃいませ」

 よく肥えた体がカウンターに陣取り、メニューに目を通す。

「――どうにか、生き残りは成功したようだな」

「お客さんのおかげです」


 あの後、俺はアドバイスどおりに、ランチメニューに悪魔風を加えて、料金の見直しをやってみた。


 ランチメニューが好調に滑り出しても、夜の売り上げに変化は無いように見えた。

 だが、効果は確実に表れていった。

「儂の手柄、というわけではないさ。あんなあいまいなヒントで、正解を手繰り寄せたご亭主の手腕があってこそだ」

「確かに。耳かき一杯の塩加減なんて、何も言ってないのと同じですからね」

 実際、あの言葉の真意に気がついたのは、レシピに手を加え始めてからだ。

 もともとのレシピは、味付けが『薄かった』のだ。

「ランチメニューにしろ、酒のあてにしろ、味付けは濃いほうが好まれる。そして、味付けが変わったことを宣伝するなら、安価なランチメニューに載せるほうが早い、と」

「あの悪魔風はあまりにもお行儀が良すぎた。都内の高級店ならともかく、この辺りの客層なら、多少"下品な味"のほうが良いというわけさ」

 考えてみれば、ソーセージにしろ、骨付き肉のグリルにしろ、塩気と脂の塊のようなものだ。自分の思い入れが強すぎて、理由に気づけなかった、ということだろう。

「さて、答え合わせはこの辺でよかろう。まずは酒、それからピクルスにオリーブと、ポテトもいただこうか。そういえば、ブルスケッタを食い損なっていたな」

 どうやら、この前の注文はかなり加減をしていたらしい。売り上げが上がるのは結構だが、だいぶ忙しくなりそうだ。

「そうそう、今のうちに注文しておくが、鶏の悪魔風もよろしく頼むぞ」

 彼は少し笑い、こう付け足した。

「以前のレシピのほうでな」

 取り出した材料を吟味しながら、俺は笑って答えた。

「はい、かしこまりました」

 

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[良い点] 小粋な飯テロ。 御馳走様でした! [一言] ちょっと鶏肉とカイエンペッパー買いに行ってきます。
[良い点] タイトルの悪魔の一皿、そして最初の一文目の一匹の悪魔とは一体何ぞやと。 悪魔の正体が鶏肉だと分かると、悪魔という字面から連想される恐ろしいイメージがひっくり返されました。 後はひたすらお腹…
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