ナースコール
そこは、人間の業が渦巻く空間だった。
人生に疲れた者、俺はまだやれると思い込んでいる者、彼を奪い返すまでは死ねないと息巻いている者……。いま四人の男女が狭い部屋の中で、無言のままテーブルを囲み腰掛けている。誰かがチラリと壁の時計に目をやった。約束の時間がきた。扉が静かに開き、若い女が一人入ってきた。そこにいた誰もが、仲間が増えたと思い嬉々とした表情を浮かべたが、どうやら勘違いだと理解し落胆した。
「みなさん、おはようございます。体調の方はいかがでしょうか。本日、皆様の担当をさせていただきますキサラギと申します。よろしくお願いいたします」
痩せた色白の看護師は微笑みながら部屋のみんなに挨拶した。マスクをして髪を後ろに束ねたキサラギは、眩しいものでも見るように目を細めた。実際、彼女の目の前に座る爺さんの頭はツルッツルに禿げていた。
田中マキビはバインダーを持つキサラギの左手薬指にリングのないことを確認し、ありえない期待に胸を高鳴らせた。
天井に備え付けられたスピーカーからは、微かにジャズの音楽が聴こえる。キース・ジャレットの弾くバラッドが、この狭苦しい空間をわずかに親しみのあるものにしていた。
看護師のキサラギが、四人の老若男女の前に透明な袋を置く。その中の透明な液体はニフレックだ。
「今から皆様に、この二リットルの液体を二時間かけて飲んでいただきます」
「こいつがいつもの下剤ですな」
まるで呑み屋の常連客が、定番のメニューを見ているような口ぶりで、爺いが言った。キサラギはまた、眩しそうに目を細める。神々しいほどに、蛍光灯の光が爺いの頭から照り返されている。
「さようでございます。よくご存知でいらっしゃいますね」
「ああ、これで五回目だからな」
爺いは五本の指を広げ、キサラギにそれを見せた。その目はなぜか誇らしげだった。
「この液体を紙コップに入れ、便意が訪れるまで少しづつ飲みます。色がほぼ透明になったところで、個室に備え付けてあるコールのボタンを押してください」
「はいはい、こっちも経験者だから、分かってるわよん」
色気なんかとうの昔に失ったはずの婆あは、キサラギを見ずに、若い田中マキビに流し目を送った。左手の五本の指に右手の人差し指を一本添えて。ぬう……、と隣の爺いがほぞを噛む。たった一回の経験値の違いが生死を分けるとでもいうように。
「まあ、お二人とも、このゲームに勝ち負けなどありませんよ。あるのは一番になるのは誰かというだけのこと」
ゲーム? 看護師まで悪ノリしてやがる、と田中マキビは意外だという顔をする。
「勘弁してよ。こっちは年寄りの遊びに付き合うつもりはないよ」
ずっと黙っていた一番若い女が口を開いた。さっきからずっと、スマホをいじり続けている。誰かにメッセージを送っているらしいが、相手の既読マークが付かないことに苛立っている様子だった。たぶん、フラれた男に未練たらしくメッセージを送り付けているのだろう、と田中マキビは勝手に想像した。
「まあまあ、カリカリしないでくださいな。内視鏡検査というのはとてもデリケートなものなんです。腸内が完全に空っぽになるまで洗浄することで、より正確な検査が可能になるのです。これはいわば、自己を限界まで追い込む、格闘技です」
未経験者の田中マキビと若い女だけが、口をぽかんと開けていた。若い女は人差し指を頭の上でクルクルさせ、「なに言ってんだこのアマ?」とマキビの耳元で囁いた。
✳︎
看護師キサラギの忠告が決して大袈裟なものではなかったことを、二人はすぐに思い知った。ある意味、そこは修羅場だった。
スポーツドリンクのような味付けをしているが、あくまでもベースはニフレックなのでとても飲めるようなものではなかった。
テーブルには六段階、つまり透明度を表す六色のサンプル写真が置かれている。田中マキビは隣の若い女が紙コップにニフレックを注ぐのを見て、あまり余計な想像をしないよう自分を戒める。とくにそういう趣味もないのだが、ちょっとだけ脳裏をよぎる。
「なに?」
若い女は田中マキビを睨みつけた。
「い、いや……」
「いま、変な想像したでしょ。ま、今の私にはどうでもいいけど……。男はみんな、クソ」
そう言って若い女は紙コップの中のものを一気飲みした。そしてすぐに二杯目、三杯目と一気に飲み干していった。
「勝負はもらったわ。こんなゴミ溜め、一抜けしてやる」
しかし、若い女はすぐに蒼ざめ、気分悪そうに部屋を出ていった。ずいぶん効きが速いことに、ライバルたちはどよめいた。
しかし数分後に戻ってきたのは看護師キサラギだけだった。
「先ほどの女性はリタイヤしました。下ではなく上からお出しになりましたのでドクターストップです。あの方は事前の説明にもかかわらず、昨晩遅くまでお酒を飲んでいたそうです」
「ふ、若さゆえの過ちか……」
爺いがシャア・アズナブルのような口調で呟く。
「ええ、この勝負にはアスリートのようなストイックさが求められるのです。残念です」
キサラギが言い終わるやいなや、爺いと婆あがスッと立ち上がり部屋を出ていった。つ、強い、と田中マキビは呟く。焦りが込み上げる。気合いで飲むしかない。
なんとか一リットルを一時間で完飲し、トイレの個室に入る。二度目、三度目とその色は変化していった。キサラギが飲みやすいようにと、氷を持ってきてくれたおかげだ。トングで氷をつかむキサラギの姿が、バーテンダーのそれに重なる。なぜかそれで、田中マキビの闘争本能に火がついた。
この人のためならやれるかもしれない。
たいていの若い男はこうして勘違い人間と化すのであった。
「あんた、いい手つきしてるね。看護師にしとくにはもったいない。ウチの店に来ない?」
婆あは都内でスナックを経営しているが、不景気で潰れそうだと付け加えた。
「ありがとうございます。でも私、この仕事に生きがいを感じておりますので……。なんというか、患者様の苦痛にゆがむお顔を見ると」
「苦痛?」
「あ、いえ、癒して差し上げたいのです」
なぜか田中マキビの背すじは冷たくなった。気のせいか。
ついに三人がフェーズ五で横並びになった。
はたして、一時間半が経過したところで三人は一気にトイレまで走る。誰もが負けたくなかった。そして、三人はほぼ同時にコールのボタンを押した。
「ど、どうでしょうか?」
田中マキビの個室にやってきたキサラギは、便器の中を覗き込み、ニッコリと微笑んだ。
「はい、お見事です。今回の勝者は田中マキビ様となります。おめでとうございます!」
「う、うおーーっ! エイドリアーン!」
頭の中でロッキーのテーマ曲が流れ、田中マキビは思わずキサラギに抱きつこうとした。反射的に、キサラギの拳がボディにめり込む。
「うげ?」
「調子に乗らないでください。ここからが長いのです。大腸の中に長い管が挿入され、ポリープなど異常がないか確かめるのです。あなた様の羞恥と苦痛にゆがむお顔が拝見できることを楽しみにしてますわ」
本当に、楽しみ。そう呟く看護師キサラギの冷たい笑みが、田中マキビの脳裏に焼き付いて、検査中も離れることはなかった。【了】