1話 初体験
この世には、嗜好品と呼ばれる品々がある。
よく物議を醸し出すものとして、煙草があげられる。健康やストレス、マナー等々、議論に暇はない。好き好んで嗜む人と忌み嫌う人の間にある溝は、おそらく、人類が存続する限り埋まらないだろう。
かくいう私は、年齢的にまだ煙草はNGだったりする。
「年齢がおーけーでもさぁ、きっと天ちゃんに煙草は似合わないわねぇ」
「似合わなくて結構です。好き好んで煙草に手を出そうとは思いませんので……あとこの店は禁煙です」
煙草を取り出そうとした虎子を嗜め、私は再びメニューへと視線を戻す。ちらりと見れば、虎子は不承不承といった顔で煙草の箱をカバンに戻した。ブランド品とまでは言いすぎだが、お洒落なカバンだ。あえて、漢字で鞄としてもいいかもしれない。
虎子は私の持ってたメニューへと手を伸ばすと、机に下ろした。
「私にも見せて〜」
「普通は手を出す前に、ことわりをいれるものだと思いますが?」
「いいじゃん。一緒なんだからさぁ」
こちらの抗議を意に介さず、虎子は反対側から身を乗り出してメニューに目を通す。ほんの数秒で、「私決めたよぉ」と体を引っ込めた。
天ちゃんはどうするのと聞かれ、私は答えに窮する。
ブルーマウンテンとモカブレンド……おすすめのブレンドというのもある。洒落た印字体で紡がれた恒常メニューの他に、オーナーの手書きらしい丁寧な字で書かれたメニューもある。この字からもオーナーの人となりと、暖かみが感じられた。
ここは、手書きに自信ありと読み取るべきか。はたまたいつもあるメニューを試してみるべきか……。
「そんなに迷うものかねぇ」
虎子が呆れ口調で告げるが、ここは迷うべきところなのだ。そうならざるを得ないところまで、この店に来るのを悩んでいた過去の自分を殴りたい。
悠々自適に、本当なら選びたいのだ。
「でもさぁ、別に今じゃなくたって」
「虎子」
虎子の発言を視線で止める。あらいけないとわざとらしく、手に口を当てる。
もう少し待ってください、と伝えて再びメニューを睨みつけた。眉間にシワが寄っていようが、周囲からどう思われようが関係ない。むしろ、どうとも思われようがないのであるが。私と虎子の姿は、こちらが「時間」や「相手」、「空間」を指定しなければ普通の人々は認知できない。
世界の狭間のような場所に、私たちはいる。
「虎子、私たちは時間は永遠だと錯覚しがちですが……今という瞬間は今にしか訪れないのですよ」
「なぁに、悟ったことをいってるのよぉ。あんたより、あたしのほうが物事知ってんだからねぇ?」
見た目からして、虎子はイケイケのお姉さんといった感じだ。一方の私はといえば、田舎の中学生、いや、高校生くらいにはせめて見えていると嬉しいなと言うレベルだ。胸は薄いし、背も高くない。化粧っ気もなければ、色気もない。並び立てて、少し、悲しくなってきた。
「コーヒーだって初めて飲みに……」
「それは、いわない約束です」
「約束なんてした覚えないわよぉ。まったく、普段からあまりモノを食べないくせに、一体どういう風の吹き回しなんだかねぇ」
「コーヒーの香りは好きなんです。虎子にはわからないかもしれませんがね!」
つい口調を荒げてしまった。
周囲を見渡すが、私たちに注目する相手は誰もいない。そもそも、人影がほとんどない。平日の昼下がり、近所のおじさまらしき人がカウンターでハードカバーを読みながら三杯目のエスプレッソを口に運んでいるぐらいだ。店内なのにハットをかぶったままなのは、中身がないからだろうか……などとくだらないことを考えてしまう。
そんなことを考えている時間はないはずで、視線はすぐにメニューへと戻さなければならない。先程、恒常メニューだとかいつものだとか曰わったが、結局、初めてきたので何を選んでも同じだったりする。
全て初体験……と虎子にいったら「えろーい」とか言われそうだ。何が、「えろい」のかはわからないけど……。
「決めました」
顔を上げて宣言する。
待ってましたとばかり、虎子が手をあげようとしたので私は慌てて待ったをかけた。
「すいません。本当に今決めたのでいいか、もう一度だけ……」
「注文お願いしまーす!」
私の静止を完全に無視して、虎子はカウンターの向こう側へ声を届かせた。恨みを込めた視線を送ると、虎子は「なぁに、変な顔ぉ」とクスクスと笑い声をあげた。今度から睨むのはやめて、虎子に対しては真顔になろうと心に決めた。
ふとテーブルに影ができたので顔を上げれば、ハの字の口髭を生やした壮年の男性が立っていた。優しげな顔つきに違わぬ、絶妙な渋さの声で告げる。
「改めまして、いらっしゃいませ。本日はご来店ありがとうございます」
「どうもどうも、それで、注文なんだけどぉ」
「はい、承ります」
虎子の人懐っこいというには、無礼に見える態度にも全く動じることなく、柔らかな笑みをたたえて男性は注文を聞き取る。私は、虎子に対して「ブレンドをお願いします」というのが精一杯だった。
彼がここのマスターであり、オーナーである。
名前は、霧間十郎。基本的な経歴は、『ブック』で読んできたがいわゆる取り憑かれた人である。もちろん、コーヒーに……。複数の芳醇な香り、洒落ていながらも懐かしさを感じさせる照明具、革張りの椅子に丁寧に清掃の施された調度品が彩る店内を見渡せば、そのこだわりようは知れる。
もっとも、繁盛とは縁遠いようだ。
あのカウンターに座っている紳士のように、深く愛する人々の支えによってなりたっているタイプの店なのだろう。
「『ブック』から読み取れるものと、読み取れないものがある。君は、何を読み取り……何を考え、何を感じたいと願うのだろう」
かつて、思い出したくもない男から言われた言葉を思い出す。
喫茶店ミストとオーナー霧間十郎の人柄は、来なければ感じられない魅力に満ちていた。