流転者/其の一
食べて応戦!
『死と変身』
御前アトマは覚えの無い酷い頭痛で目を覚ました。朝方の滑り込むような日差しが目蓋を刺激する度、頭頂部を刺すような刺激が走る。加えて、全身に激しい倦怠感があった。抗う事の出来ない痛みで思うように身動きが取れない。事故にでもあったのではないかと背筋が冷えた。
脳裏には昨日の記憶が断片的にフラッシュバックしていく。
「森林動物学研究発表・講演会」への招待状は二週間前に届いていた。森林生態学を専攻していたアトマは、どこかで聞いたことがあるはずの差出人の名前に確証は無いながらも祝宴に惹かれ、ハガキに書かれた住所の館に訪れていた。
午後五時からの開催とはいえ、七月半ばの明るい夕焼けさえ覆い隠してしまう程の木々に囲まれた擬洋風の建築物を目の前に、彼は、失敗を仕出かしたのではないかと不安を覚えた。しかし、外観の不気味さとは裏腹に祝宴そのものは賑やかに行われ、抱いた思いはすぐに払拭された。講演会には、学会界隈では著名な研究者や名立たる学術大会の受賞者など大御所も散見され、彼は名刺を配る事に奔走し、講演の演目すら半ば忘れてしまっていた。
宴会も終盤となり、残り物のオードブルをつまみに温くなったビールを飲みながら集めた名刺を眺めていると、館の使用人が近づいてアトマに声をかけた。主催者が呼んでいるとの事だった。
酔いの回り始めていた彼は、顔を赤らめたままで会っては失礼に当たるとして拒んだものの、どうしてもと食い下がられ、渋々案内を受けることにした。ホールを出た脚は二階へと誘われ、白いカーペットの引かれた廊下を進んで一番奥の部屋の前で止まった。
使用人が伺いを立てようと扉に近づくと、それとは反対側の扉が強い音を立てて開き、一人の男が肩をいからせて出て行った。何やら憤っているようだったが突然の事で表情までは見えず、アトマは早足で進んでいく背中を茫然と見つめていたが、使用人に呼ばれて視線を戻した。彼は、準備は整っているので部屋に入ってください言い、入室を促した。
丁度良い頃合いで歩かされたものだからすっかり酩酊状態で、加えて、部屋には天井から吊るされた燭台が一つあるだけで大層視界が悪かったため、入った後からの記憶が所々飛んでいる。
部屋の中には、椅子に座った老人が一人いた。確か主催者の一人にして館の主と名乗ったはずだ。燭台が老人の真上にあったせいで表情は分からなかったが、話し声は好奇心を含んで喜々としていた。
話の中ではアトマにいくつか学問的な質問をしたはずだ。全て答えられた自信があるが、肝心の内容は忘れてしまっているし、質問の意図も掴めなかった。
老人は、最後に礼を言って、手土産を渡した。
そこまで思いだして、先ほどから続いていた頭痛が少しだけ和らいでいた事に気が付いた。身体も動かせるようになっていた。手を庇にして額に当て目を開けてみると、短く激しい痛みがあるものの、なんとか天井を見つめられ、自分の部屋のベッドで寝ていることを確認出来、少しだけ安堵が広がった。視線をベッドの横にある机に向けると、例の手土産が置いてあった。完璧に酔ってしまっていたが無事に帰ってきたと理解し、また天井に視界を戻した。既に手で庇を作らなくても激しい頭痛はしなくなっていた。包の大きさから察するに菓子の類であろう、さていつ食べようかと考え、視線をまた土産に向けた。
ふと、包の模様が気にかかった。視界が日光の白さに慣れてくると、模様ではなく、染みであることが分かった。当初、泥が跳ねたかと思っていたが、更に目が慣れると茶色よりも赤褐色であると分かり、何だろうかと考える内に、染みが床に点々と落ちているのが見て取れた。机の上から浴室に、浴室から玄関に続いている。1DKの室内に一本道を描いて、染みは落ちていた。
点を辿る内に、アトマの耳にはシャワーの音が届いていた。普段耳にするよりも小さい音だったので、浴室に意識が向いて初めて聞こえたのだった。つまり、起きるずっと前から水が出ていたらしかった。彼はシャワーを止める事も後回しにし、自室に起こった異変の原因を思い出そうと、三度天井を見つめた。
手土産を渡されたあと。
酔っていたために時間の感覚が無くなっていたのか、老人との話は長くなっていたらしく、館を出ると辺りは暗くなってしまっていた。周囲には外灯も無く、館からの明かりも森の中に吸いこまれ、来たときに通った道は殆ど見えない。
すると、先ほどの使用人が車を出してくれることになった。程無くして紺のノッチバックセダンがやってきたので、彼は後部座席に乗り込んだ。道案内が必要かと尋ねるたが、必要無いと返答があり、彼は安心して眼を瞑った。
どれほど時間が経ったのか、いつの間にか眠ってしまっていたアトマは、運転手の声で目を覚ました。酒が抜け始めたのか、軽い頭痛がしていた。車はまだ森を抜けていないようだった。運転席の使用人は、何やら自分に話しかけていたようだったが、抑揚がなく呟くのように言葉を押しだすので、タイヤが砂利を撥ねる音に掻き消され聞き取ることが出来ない。
暫く経っても一向に森を抜けず、また呟きは続く。彼は不安になり、運転席に向かって今どの辺ですかと声をかけた。
その瞬間、使用人は経を唱える様に続いていた声をピタリと止め、首を後部座席側に向けて、安心してくださいと言った。言葉とは裏腹に、目は見開かれ、焦点は合っていなかった。アトマがその表情に驚いて身を引くのと同時に、車が路傍の茂みに突っ込み、抜けてすぐに木に衝突した。彼は、シートベルトを締めていたものの全身が激しく揺さ振られ、サイドガラスに頭を打ちつけた。
思い出しながら、無意識に手が頭に伸びていたらしい。一旦制して、改めて慎重に触れると、瘡蓋の塊が指先に触れ、事故が夢では無い事を裏付けた。血は乾いてしまっているようで、指先に纏わりつくものは無い。彼は深呼吸をして、また記憶を辿った。
フロントガラス越しにボンネットから僅かに煙が立ち上るのが見え、アトマは急いで車を這い出した。頭痛以外に自分の身体に異常が無い事を確認すると、運転席にまだ使用人が残っている事を思いだして車の方を振り返った。すると、、点灯し続けていたブレーキランプが消え、車からゆっくりと使用人が出てきた。右脚を骨折したのか、引き摺って歩く様子に、アトマは手助けをと近寄ろうとしたが、使用人の手にナイフのようなものが握られているのを見て足を止め、距離を取って顔に視線を向けた。
使用人の表情は、館で見た時とは別物になっていた。鼻と口から血が流れ出し目は見開かれたまま、不規則に跳ねる様に視線が移る。幾度目かでアトマと捉えるとしばらく動かなくなり、突如叫び声を上げた。そして、持っていたナイフのようなものを振りかざした。
戦々恐々としていたアトマだが、その様子に、いけない予感がした。不気味に変わり果てた使用人が襲ってくるかもしれないと身構え、視界から外せずに逃げられもしなかったのだが、振りかぶった瞬間、止めなければならないと思った。
しかし、車一台分あいた二人の距離は遠く、アトマの声が森に響く中、使用人の手に握られたものは、自身の胸を貫いていた。白いワイシャツがみるみる間に染まり、彼は倒れ込んだ。
漠然と天井を捉えている視界に、右手を挟みこむ。手には血がこびり付き擦れていた。少しの間見つめ、ベッドから起き上がる。頭痛も倦怠感も無くなっていた。そして浴室へと向かう。彼は既に、昨夜の顛末を思い出していた。それを確かめる覚悟もできた。
アトマは、使用人の死体を車から遠ざけると、ポケットの中の携帯を確認した。しかし、電波が通じておらず使い物にならない。仕方なく来た道を戻ろうと思い、発煙筒を取るため車に潜り込んだ。
運転席から身を乗り出して助手席のダッシュボードを開け、発煙筒を掴んだ所で、突然脚が引っ張られ車外に引き出された。その拍子に顎をシフトレバーにぶつけ、微かではあるが脳振とうを起こした。気を失ったのは一瞬だが、その間に、彼の上には使用人が覆い被さっていた。必死に抵抗して引き剥がし、逃げ出そうと駆けたが、脚がもつれてしまい転倒してしまった。使用人は、身体を震わせながら足早に彼の近づいていく。アトマは、最早恐怖と頭痛で混濁する意識の中立てなくなり、後ずさって逃亡を計るが空しく、距離は縮まるのみだった。目前に迫られ、苦し紛れに発煙筒を着火して振りかざすも、何の意味も無く、再び両腕を抑えられマウントを取られた。
右手に握られた発煙筒の赤い明かりが二人を照らす。
使用人の見た目は、まともな人間とは呼べるものではなかった。彼は先ほど自分に向けたものを両手で握って、ゆっくりと振りかぶっていった。アトマは、どうしてこうなったのか、何がいけなかったのかと繰り返し自問しながら、声も出せず、抵抗する力も無く、ただただ目の前の様子に怯えるしかなかった。目尻を涙が伝うのと同時に、使用人の握ったものが深々とアトマの心臓に突き刺さった。
そこで、記憶は途切れている。
浴室には血液が飛び散り、鼻腔に溜まる鉄分の臭いがシャワーの湿気で舞い上がり、充満していた。
アトマは左手で鼻を覆いながらシャワーを止め、目の前の鏡を見る。左側頭部には事故の際の傷であろう瘡蓋が出来ていた。血がこびり付いた右手でシャツのボタンをはずすと、胸には痣があった。しかし、刺し傷では無い。
記憶との違いに困惑しそうになった時、顎の青痣の上、頬から口にかけて血の跡が見えた。咄嗟に口元を覆っていた左手を離すと、口の周りには、まるでスパゲッティを頬張った子供のように、血のあとがまとわりついていた。
アトマは、ますます分からなくなって浴室から出て、ベッドのシーツで身体を拭いた。既に、血液が多箇所に染み込んでいたので、跡を片づけたら捨てようと思っていた。ふと、押し入れに目が行った。僅かではあるが戸のふちに血の跡が付いている。何故そんな所に手を付いたのだろうかと血の跡を見つめて考えていると、急激に蘇ってくる記憶があった。
心臓を刺された瞬間、彼には死んだ自覚があった。身体と意識が、どちらの感覚もあるのだが、別のものに感じられた。
死ぬと魂は天に昇っていくと聞いていたが、彼の意識は自分の内へ内へと潜行していった。途轍もなく深く、重く、熱く、苦しい圧力の中を止め処も無く沈んでいった。終わりなく続く苦しみの中で、ああこれが地獄かと悟った。
不意に、自分の横を掠めて上に昇っていくものに気が付いた。何かは分からないが、畏怖すべきものだと感じていた。その昇ったものが自分の身体にピタリとはまる感覚を覚え、眼を開けた。
視界には自分の体に覆いかぶさる使用人の姿があった。胸のあたりに凄まじい怒りが湧いてきて、収める事が出来なくなり叫んだ。声を出して叫ぶというより、獣の咆哮に近かった。使用人は、その様子に驚くことなく、むしろ笑みさえ浮かべていたが、吠える声に次第に顔を歪ませ、遂には取り乱して逃げ出した。
彼は必死に逃げていたはずだが、無意味なほどにアトマは一瞬で追い付いて、右手の爪を立て思いきり引っかいた。背中が裂けて血が噴き出し、彼は悲痛な叫びを上げて転げまわった。更に、横たわる彼の脚を左の爪で一閃。いくつかの筋肉の繊維が解れていく手触りがあって、彼は立てなくなった。悲鳴すら挙げなくなった彼は、最後に死を覚悟したように笑みを浮かべ、何かの言葉を口にした。
アトマは、彼の様子には全く関心を示さずに、喉元に噛みついた。
思い出さなくてよかったのに、と、アトマは思った。
押し入れの中身は既に想像が付いてしまったが、認められずに否定をし続けていた。しかし、はっきりさせなければどうすることも出来ないと、背徳的な義務感に苛まれ、押し入れの戸の前に立った。窪みに手をかけ、ゆっくりと開けていく。
三分の二ほどまで開けた所で我慢できなくなり、彼はトイレに駆けた。便器を覗き込み、昨日、口に入れた物を全て吐き出した。サラダも、オードブルの料理も、ビールも、ワインも、全て血の味に混じって逆流していく。よく分からない部位の筋や、内臓の破片が喉を通る度、不快な味が口内を占め、堰を切ったように嘔吐した。
いつまでたっても吐き気が絶えなかった。もう流れていくものが自分の喉が裂けて出る血なのか、食べてしまったものの血なのか、判断できなかった。
押し入れの中には、内臓が引き出され、血が抜けきって白くなった人間が、腰から折れる様に仕舞われていた。
(終)
戦隊物です(断言)
これを読んで面白いと興味を持たれた方、評価でも感想でも、何か残して下されば嬉しいです。お声頂けると続き考えようと思います。あ、ネタ共有して下さる方が居らっしゃれば是非メッセージください。一緒にお話考えませんか?
発案したは良いものの、あまりにもしょうも無さ過ぎましたし、形式的にはパロディに当たるので書かずにおりましたが、まぁ、縁があって、この度文章として形にさせて頂きました。
最後に、読んで下さった貴方様に、深く感謝致します。