奪われたもの
知らない男からの接触に西森の心は恐怖で震えていた。この恐怖を気づかれれば、男からの誘いがあったことを話さなければならない。自転車に乗りながら隣を走る杉崎をちらりと横目で見た。いつものように楽しそうに丘を見つめて、気持ちいいですね~!と好きな歌を口ずさんでいる。自然の中でのびのびと走っている杉崎は、楽しそうについてくる大型犬のようだ。思い浮かべた印象があまりにもしっくりきて、西森は思わず吹き出した。
「どうしたんですか?あ!今日の梅干しが楽しみなんでしょ。昨日食べさせてもらったけど、美味しかったですし」
貰った梅干しとは別にもう一つ自分で浸けている梅干しがある。そろそろ食べ頃なのだ。去年、花のことばかり考えていた西森を心配して、花農家の奥さんが気分転換にと教えてくれた。時々、花の師匠の家でご飯を頂いたことがある。その時に食べた梅干しがとても美味しくて、笑顔になった西森に奥さんが技を伝授してくれたのだ。初めて自分で浸けた梅干しを今日食べることにしている。
「速水さんにも食べさせてあげたいな」
本当は速水と一緒に浸けてある壺を開ける予定だった。昨日の夜、メールで梅干しのことを伝えてきた速水に西森は苦笑する。電話ばかりかけてくる速水がわざわざメールを送ってきたのだ。何かあったのかと慌てて開いてみればそこには一言だけ書かれていた。
梅干しはちゃんと開けて、食べるように。
絵文字も何もない。色気のないメール。素っ気なくて、こんなことで送ってくるなと言いたいのに、顔が自然に綻んできて笑うのを止められなかった。
「バカだ。。もう。。こんな時に。俺が楽しみにしていたこと。忘れてなかったんだ。。」
小さいことが嬉しい。西森がぽつりと言ったことも速水はよく覚えていた。西森本人も忘れていた些細なこともさりげなく叶えてくれる。速水から言われたり貰ったりして、昔自分が速水に伝えていたのだと思い出すことが多かった。電話がかかってこない時は仕事が忙しい時だ。なのに、電話がない日は必ずメールが送られてくる。
梅干しは食べます。明日、杉崎くんと一緒に。速水さんの分も残しておきますから。
嬉しさで綻ぶ口元を軽く手で抑えながら、西森は速水にメールを送った。仕事の運転中でもメールなら邪魔をしないので時間帯を気にせず送ることができる。送信した後、心の奥から溢れてくる温かいものを感じて西森は携帯を胸に抱き締める。温かさと同時に寂しさも湧き上がってきた。
胸に当てていた携帯から振動が伝わってくる。驚いて開いてみるとメールを一件受信していた。急いで開いた西森はその内容に声を上げて笑ってしまった。
杉崎と?二人っきりなんだろ。妬ける。
もう!笑いをこらえながら返事を送信した。仕事が終わったらすぐ帰ってくるだの、梅干しの壺は一人で開けろだの速水には珍しく返信が多い。西森はメールの一つ一つがとても愛しくて何度もやり取りをした。
「速水さん、よっぽど悔しかったのかな。。あんまり顔に出さないから。帰ってきたら、たくさん梅干し食べてもらおう」
風呂場から足音がして居間に顔を出した杉崎に、笑いながら梅干しのことを話していた。
「速水さん、早く帰ってこないですかねー?速水さんより先に俺が西森さんの梅干し食べていいんですか?」
走りながら杉崎は西森の方を向いた。昨日風呂上がりの杉崎に梅干しのことを話してから、何度も確認するように尋ねてくる。よほど気にしているのだなと可笑しくて、大丈夫だよと笑った。
「西森さんは優しいからいいけど、速水さん、結構意地悪なんですよね。俺が速水さんよりも先に食べたって知られたら、俺、空手の交流会で鬼のように狙われますよ」
速水から激しく稽古をつけられることを想像したのか杉崎は大きく身震いをした。口を尖らせながら話す杉崎と速水のことを思いながら柔らかく笑う西森に、夏の強い日差しが惜しみなく降り注いでいた。今日も暑い。
旅館から花屋へと一旦戻って西森と杉崎は休憩した。夏の強い日差しは体力を激しく消耗させるので、杉崎にも休んでもらいたい。西森とは違って普段から鍛えてある杉崎には必要ないかもしれないが、速水からいつも休むように言われていた西森はいつの間にか休息を取ることが習慣になっていた。冷やしておいた麦茶を注いで杉崎の前に持ってくる。笑いながら二人でのんびりと飲んだ。
こうしていると、とても穏やかな時間であの恐ろしい男が来たことも忘れてしまう。この幸せな時間がこのままずっと過ぎてくれることを西森は心から願った。
しばらく休んだ後、明日の花籠の花を摘みに行こうと自転車へと向かう。その時杉崎の携帯が鳴った。何かを話していて長くなりそうなのだ。気になっていた自転車のタイヤの空気を入れようかと準備をする。今使っているこの自転車は亡くなった祖母も使っていてずいぶんくたびれてきた。毎日大切に乗っているが、時々どこかが摩れている音がする。
「うーん。。大切な相棒だから、もう少し頑張ってもらいたいけど。。無理をさせるのも嫌だな」
電話が終わった杉崎が西森の様子を見て、自転車の近くにやってきた。自転車の様々な所を観察しながら、何やら考え込んでいる。
「ずっと思ってたんですけど、この自転車、所々にガタがきてますね。。油を綺麗にさして使うのも限界なんじゃないですかね」
杉崎の冷静な指摘にやっぱりなぁと西森は思う。長い間一緒に暮らしてきたものを手放さないといけないのは、とても寂しい。すぐに手放す訳ではないが、近いうちに必ずくる。西森は悲しくなった。
「。。!!あっと!!その、でも。あの。また新しい自転車を探しましょう。こいつだって、西森さんに無理させたくないだろうし。ちゃんと跡継ぎを探してから安心させて。。俺も手伝いますから!」
慌てたように杉崎が叫ぶ。悲しそうな顔をした西森を見ていると胸が痛くなってどうしようもない。こんな西森の姿を速水や愛するさつきに見られでもしたら、二人から自分は星の彼方にぶっ飛ばされる。さつきは話を聞いてくれそうだが、速水からは問答不要に飛ばされるだろう。さつきからも杉崎の話を聞いた後、瞬時に飛ばされるだろうが。
「うん。。そうだね。ありがとう。その時は手伝ってもらおうかな」
速水からもやんわりと聞かされていたので、別れを告げる時がきたのだなと西森は思った。自転車を優しく撫でながら、今日もよろしくねと小さく呟いた。
自転車に乗ってお目当ての丘を目指してこいでいく。杉崎を連れていく初めての場所になるので、より一層楽しそうに前を走る杉崎を見つめながら西森は大きく笑った。これから行く花畑は周りを木々に囲まれていて木陰が多い。夏に咲く花もたくさん育っているので毎年夏になったら訪れていた。もう昼で太陽が真上に昇っている。
「ここでご飯を食べよう。お腹を満たしてから花を摘むよ」
夏の日差しを柔らかく遮って涼しい木陰ができている。そばにある大きな木
にそっと寄り添って木陰を貸してもらうことに感謝を伝えながら、持ってきたビニールシートを広げた。初めて見る夏の花に目を奪われていた杉崎が駆け寄ってきて手伝う。大きな木にもたれて作ってきたおにぎりを二人でほおばった。優しい風が穏やかに吹き抜けていく。
「こんな昼ご飯、いいもんですね。外で食べるご飯は格別美味しいです」
杉崎が屈託なく笑っておにぎりに勢いよく噛みついている。西森は頷きながら優しく笑った。暑い日差しも木々たちがこうして優しく遮って快適に過ごすことができる。もたれていた後ろの幹に耳を当てながら、ありがとうと呟いた。
立ち上がって手を合わせる。美しく咲いている花たちを摘んでいこう。目を閉じて大きく深呼吸をした後、西森は花との対話に没頭した。夏の花たちが篭を彩っている。美しく咲く花がとても愛しい。自転車の中に大切に閉まって花屋へと戻っていった。
ちゃぶ台の前でゆったりと寛いでいた西森に、お風呂入ってきますと杉崎は笑って頭を下げる。そんなに気を使わなくていいと言っているのに、杉崎は相変わらずきっちり一礼をした。礼儀正しい杉崎に苦笑しながら、閉まっておいた梅干しの壺を奥から取り出す。隠れたように開けようとしているので、なんだか杉崎に悪いなと西森は思った。
「でも。。速水さんから一人で開けるように言われたし。。杉崎くん、ごめんね」
長い間閉めていた蓋を静かに開けると、何とも言えない梅干しの美味しそうな香りが鼻をくすぐる。思わず笑顔になって壺の中から一粒の梅干しを取り出した。ゆっくりと口の中に入れると甘酢っぱくて柔らかい味がじんわりと広がっていく。美味しい。西森は目を閉じて優しい味を堪能した。
胸元で振動が伝わってくる。携帯に電話がかかっていて開いてみると速水からだ。直ぐ様通話ボタンを押す。耳を澄ましてみると、愛しい人からの声に西森は心が急に高鳴るのを感じた。
「元気にしてるか?。。やっぱり電話がいいな。お前の声が聞こえる。嬉しいよ」
温かくて優しくて胸が熱くなる。こんなに離れているのに、その声だけで自分は大きな何かに包まれているようだ。離れている時間は短いのにとても懐かしくて嬉しかった。
「元気ですよ。こちらの皆さんもみんな元気ですし。速水さんこそ。。その声だと大丈夫そうですけど」
湧き上がってくる想いを何とか落ち着かせて、耳から聞こえてくる声に伝えた。早く会いたい。顔が見たい。心の声を何とか押し止める。速水が楽しそうに笑う声が聞こえた。
「お前。。何かあっただろ。素直じゃないな。ほら、早く話せ。聞いてやる。言わないなら、ずっと電話切らないぞ」
お前のせいで明日の仕事に支障が出るなぁ。わざとらしくぼやきながら速水は笑っている。何だよ。。西森は口を尖らせながらふて腐れて、何もないと素っ気なく告げた。朝に男から誘われたことを思い出してドキリとしたが、努めて声に出さないようにする。でも、電話が長くなるにつれて朝の怖かった光景が浮かんできた。
腕を掴まれて引き寄せられた時のことを思い出す。どんなに力を込めても引き摺られてどうしようもなかった。急に溢れ出した恐怖に西森は目を強く瞑った。暗闇の中で電話越しに速水の声が聞こえてくる。優しくて穏やかで大好きな声。何も言わない西森に仕事のことを話している。何気ない会話の中で押し込めていた西森の恐怖が堰を切ったように表れた。のんびりと話す速水に朝起こった出来事を伝える。黙って聞いていた速水がゆっくりと口を開いた。
「馬鹿だなぁ、西森。。あーあ。俺、なんでお前のそばにいないんだろ。その男の元へお前が行きたきゃ行っていいけど、俺もくっついて行くからな。わかってるだろ?」
お前のしたいようにしたらいいんだぜ。のんびりとしたいつもの速水の声だ。早く話さなかったこと、自分が迷っていること。怒られると思ったのに変わらず優しくて温かい。西森は溢れてくる涙を拭いながら速水に、行きたくないと小さく呟いた。話していた速水の声が聞こえなくなる。不安に思って呼んでみると静かで優しい声が聞こえた。
「ありがとう。嬉しい」
速水の声にやっと収まった涙がまた溢れ出してくる。泣きながら行きたくないと何度も伝える。自分を慰める優しい声を聞きながら西森は嬉しくて早く会いたいと呟いた。
朝が来て目覚ましが鳴っている。今日は軽やかなピアノの音と虫の可愛い鳴き声だった。体を起こして背伸びをする。枕元にある携帯を見つめて西森はにっこりと優しく笑った。
自転車に乗って旅館へと向かっていく。前を走る杉崎が何かに気づいたようで隣のやってきた。西森を見つめながら少し険しい顔をする。首を傾げる西森に、俺のそばから離れないでくださいねと静かに囁いた。自転車から降りて旅館に近づくと、見たこともない車が停まっていて女将と正宗が男たちと話している。またあの黒いスーツの男たちがやってきたのかと西森は体を強張らせた。杉崎と一緒に慎重に近づいていくと、気づいた一人の男が笑いかけてくる。杉崎は西森をかばうように前に出た。
「え?食中毒?まさか」
やってきた男たちは病院からの検査員だと言う。確かにこの夏の時期は食中毒に警戒して旅館では予防のために検査員を呼んでいた。女将も正宗も昨日専門の検査を受けに連れていった人たちらしい。西森はほっと胸を撫で下ろした。
「あなたも旅館に出入りするんですよね?検査を受けてくれませんか?今からなら、昼に終わりますから」
女将と正宗から話を聞いてもこの人たちはちゃんとした検査員らしい。西森だけを連れていかれるのは不安だからと杉崎は自分も一緒に行くと食らいついた。事件が終わるまで何がなんでも西森から離れたくない。真剣に詰め寄る杉崎に男たちは苦笑しながら乗ってくださいと車を薦める。納得したように杉崎は頷いた。
「行きましょうか。西森さん。俺も同じ車に乗ります」
女将にも正宗にもこの車に乗り込む姿を見られている。もし自分たちが戻ってこなかったらすぐさつきに連絡してくれるだろう。西森と杉崎は男たちの薦める車に乗り込んだ。
車が走り出して外の風景が流れるように過ぎていく。窓の外を眺めながら速水のことを思い出し胸元の携帯をそっと握った。すると急に隣の男がその手を握りしめてきた。
「?」
不思議に思って男を見るとにっこり笑っている。その笑顔に違和感を感じた。隣にいる杉崎に伝えようと体に力を込めた。
「おっと!動くなよ。わかってるか?少しでも動けば、そいつを車から突き落としてやる」
杉崎も不信に気づいたようだ。男たちを鋭い目で見つめている。ここで暴れては危ない。じっと様子を伺っていた。
「なぜ西森さんを。。目的を教えろ」
西森を危険な目に合わせてしまったが、自分には探知機が付いている。盗聴器も。ここで会話が交わされれば、さつきに伝わる。杉崎はもう一度、なぜだと問いかけた。
「胆の据わった兄ちゃんだぜ。お前もボスが会いたいってさ。まあ、この綺麗な兄ちゃんとは扱いが違うけどな!」
いきなり杉崎に向かって何かスプレーを吹き掛ける。予想外の攻撃に杉崎は一瞬動きが遅れた。激しく顔を左右に振りながら掛けられた何かを落とそうとしたが、目に痺れるような痛みが走り瞼を開けることができない。少し混乱している杉崎の脊髄を男は軽く手で叩いた。
「杉崎くん!!」
気を失った杉崎がぐったりと項垂れる。杉崎を後ろに庇いながら西森は男たちを強く見つめた。嘲笑うかのように男は手を伸ばしてくる。どこに連れていかれるかわからない恐怖を押し込めて、西森は精一杯睨む。杉崎だけは無事に返したい。近づいてくる手を警戒しながら西森は震える体を無理矢理奮い立たせた。
皆様、こんばんは(*^^*)いかがお過ごしでしょうか?
やっと書きました。。もはや、4000文字という制限を越えてしまった。。ま、いっかー!楽しんで頂けたら嬉しいです。
ではでは皆様、これからも素敵な時間をお過ごしくださいね(*^^*)