迫りくる影
風呂に入って布団を敷けば眠気がどっとやってきた。見知らぬ若い男から放たれる冷たい雰囲気に、強張っていた体がゆったりと解れた気がする。杉崎と一緒に楽しく弁当を食べた後、風呂を沸かした。いつも守ってくれる杉崎に温かい風呂に入ってほしい。若い男が去って長い時間が経った今でも、杉崎は警戒を怠らず気を張っている。なんだか悪いなと西森は思った。
さつきのことを嬉しそうに話す杉崎は可愛くて、本当にさつきが好きなのだなと伝わってくる。大切に想っているのだなととても微笑ましい。西森も速水のことが好きなのでよくわかった。でも、今はあの恐ろしい若い男のことばかり考えている。いつものふわふわとした屈託ない杉崎ではない。西森は少し寂しかった。
そうだ。乾燥させていた薔薇をたっぷりと湯船にのせよう。少しでもロマンチックな心を取り戻してほしい。今は気の抜けない時間かもしれないが、それでも好きになった気持ちを忘れずに感じていてほしい。せっかく大好きな人と出会えたのだ。大切にしてほしい。
風呂場に戻って上の棚にある小さな箱を取り出した。毎年薔薇が咲いたり売れ残ったり規格外の薔薇を日干ししてこの箱に閉じ込めていた。箱の蓋を開けると、優しい薔薇の香りがふわりと広がって温かい気持ちになる。薔薇の花言葉は、愛しています。その花言葉にぴったりなほど情熱的で甘くて柔らかい香り。西森は優しく笑った。
「杉崎くん。お風呂沸いてるよ。入ってきなよ。せっかくだから」
暗くなった花屋の周りを見回って帰ってきた杉崎に話しかける。照れたように頬を掻いて、大丈夫ですよと小さく呟いた。風呂に入らないつもりだろうか。西森の心の声が聞こえたのか、杉崎は照れ臭そうに頭を掻いている。
「あの。。風呂には入りませんよ。臭うかもしれませんが、何かあったらって思うとゆっくりできませんし。張り込みとか三日三晩入らない時だってあるんですよ。だから、大丈夫です」
恥ずかしいのか目を左右に揺らして小さな声で話している。まるで子供が知られたくないことを告げるようにぶつぶつと口を尖らせているので、西森は可笑しくなって吹き出した。警官も大変だなと思う。
「そっか。じゃあ保護対象である俺が近くにいればいいだろ?お風呂場の隣で待機しておくから、ゆっくり入ってきなよ。遠慮しないで」
明るく提案する西森に、杉崎はいいのかなぁと迷っていた。だいぶ心が揺れているようだ。西森はこっそり笑って大丈夫だと繰り返し伝える。
「もしお風呂に入ってる時に何かあったら、杉崎くん、裸のまま俺を助けてよ。その方がインパクトあって、敵も怯むだろうし」
俺は変態だー!とか言ってさ。大丈夫。杉崎くんなら、その素質あるから!朗らかな優しい笑顔でさらりと杉崎に告げる。杉崎は思わず、ひどっ!!と叫んだ。
西森さんって時々毒舌だよなぁ。。悲しそうな顔をして、がっくりと項垂れた。速水といい、この西森といい、自分は年上の人達に敵う気配すら感じない。疲れたように下を向いた杉崎を西森は満足そうに見つめた。
西森に風呂を薦められて風呂場に入ると、何とも言えない芳しい香りに動きが止まった。優しくて甘くて。ふとさつきを思い出し、心が急に温かく元気になっていく。服を着たまま風呂の扉を開ければ、美しく水面に浮かぶたくさんの薔薇が杉崎を出迎えた。この心が温かくなる香りはこれだったのか。服が濡れるのも忘れてすぐに駆け寄った。優雅に揺れている薔薇に鼻をそっと近づければ、優しくて甘い香りがより強く漂ってくる。西森があんなに風呂を薦めた理由がわかった。とても優しい人だ。杉崎は穏やかに笑って一つの大きな薔薇を掬い上げた。
心の中で西森はとても大きな恐怖を抱えているだろう。愛する速水がそばにおらず、一人で過ごしている時に見知らぬ男がやってきたのだ。事件で連れ去られそうになった恐怖もまだ残っているだろうに。
誰かに頼って心配かけることを極端に嫌う西森が心から甘えられるのは速水だけだ。その速水がいない。一番心細くて気を張っているのは西森だろうに。さりげなく自分を気遣っている。
「優しい人だ。。気丈で繊細で強くて。さつきさんの言った通りだな。絶対にそばを離れてはだめだ」
手に取った薔薇をそっと湯船に戻して、杉崎は素早く服を脱ぐ。西森が用意したお湯の中にゆっくりと体を入れた。
目覚ましの穏やかで優しい音が聞こえてくる。眠たい目を擦りながら手を伸ばして止めた。重たい体を何とか引きずって洗面所にたどり着けば、やっと目が冴えてくる。西森は大きく背伸びをした。今日も一日が始まる。
当たり前のように寄り添ってくる大きくて温かい存在は今いない。ふと違和感を感じて心にぽっかりと大きな穴が空いているようだった。いつまでも寂しさを主張してくる自分の心に西森は苦笑する。何度も速水に会いたいと叫んでいるようで少し照れ臭い。顔を洗って居間に行けば杉崎はもう起きていて、辺りを警戒していた。
「おはようございます。西森さん。今日もいい天気のようですよ」
すっかり気温が上がって真夏日ばかりが続いている。穏やかに笑う杉崎に西森は優しく笑って頷いた。
花籠を入れた前後の箱を気にしながら西森は自転車を走らせる。首には速水からもらった携帯があり、隣には杉崎がいる。心強い。西森は嬉しくなって静かに笑った。速水と離れていることは寂しいが、こうして繋がりを感じられる。首にかかる小さな重みが心地よかった。
旅館への道を急ぎながら、ふと西森は昨日のことを思い出す。あれから不思議と恐怖は湧いてこなかった。風呂から上がってきた杉崎がほかほかと嬉しそうに笑っていて、幸せそうにちゃぶ台の前で腰を下ろしていた。薔薇たちが癒してくれたのだな。あの時の杉崎の様子を思い出して嬉しくなる。西森はちらりと横目で杉崎を見て柔らかく微笑んだ。
旅館へと着いた西森と杉崎に雅也が走ってやってくる。いつもの光景に心が和んで自転車を止めて抱き締めるために両手を広げた。
「お兄ちゃん!杉崎のお兄ちゃん!!早く!早くこっちに来て!!」
何度も必死で叫びながら懸命に両手を大きく振っている。悲しそうな不安そうな顔をしている雅也を確認して胸が痛くなった。杉崎と顔を見合わせた後、杉崎はすぐに雅也に向かって走り出す。西森も自転車が倒れないか調べた後、雅也へと足を動かした。不安そうな雅也が西森に抱きついてくる。小さな体が震えていた。
「み、見たことがない大きな男の人が、二人で何かしてて。僕、怖くて。逃げようとしたら、こっち向いてきて」
震える雅也の体を精一杯強く抱き締める。何度も頭を撫でて、なるべく優しく大丈夫だと囁いた。雅也はまだ震えている。
「お前には、手を、出さないとか。ここにいることを教えたら、女将を連れていくとか、でも。僕、お兄ちゃん達に話しちゃった。。お母さん、僕のせいで連れていかれるのかな。。?」
どうしよう。。震えながら小さく呟く雅也が痛々しい。強く抱き締めながら、安心させるように西森は笑った。杉崎が険しい顔をして電話をかけている。抱き締めていた雅也を体から少し離して、視線を合わせた。怯えて悲しそうな目をしている。今にも泣き出しそうだ。西森は優しく笑って頭を撫でる。
「大丈夫だよ。女将は連れていかれないよ。杉崎くんや俺がいるんだから。女将のことも守るよ。ちょっと頼りないけど、杉崎くん強そうでしょ?」
大丈夫だよ。心配そうに歪んでいる雅也の頬をそっと優しく撫でた。通話が終わった杉崎が面白いほど顔をしかめている。どうしたのだろうと首を傾げた。
「西森さん。。頼りないって。。俺、これでも強いんですよ。速水さんとさつきさんには敵わないですけど。結構有名なのに。。」
しょんぼりとしている杉崎が面白い。声を立てて笑えば雅也が少しほっとした顔で杉崎を見ていた。じっと見つめる雅也に、俺って強そうだろ?と聞いている。
「杉崎のお兄ちゃんは、グリーンレンジャーだね。ドジで楽しくて、いつも周りを笑わせているの」
何!?杉崎の動きが止まる。雅也が言っているのは、戦隊もののメンバーの名前だろう。確かにリーダーの赤やクールな黒では似合わない。三枚目の緑だ。雅也の的確な指摘に西森は、ぷっと吹き出した。杉崎が震えている。
「。。お、俺。。自分ではクールな黒だと思ってたのに。。小さい頃、黒に憧れてたのに。。」
愕然としながらショックを受けている杉崎を西森と雅也は声を立てて笑った。そうだ。杉崎はいつもこうやって笑わせてくれる。温かくて優しくてドジな緑だ。
旅館で女将を見た雅也が必死に駆け出していく。驚いたように振り返りながら女将は雅也を抱き締めた。激しく泣いている雅也の頭を優しく撫でている。西森はほっと肩を撫で下ろした。今度は女将が狙われるかもしれない。杉崎は様子を見てくると告げて旅館へと走っていった。その後ろ姿を見送って置いてきた自転車へと戻る。花籠を確認した後、裏口へと回った。
正宗に花籠を見てもらおうと前後の箱から花籠を取り出す。裏口までもう少し、という所で体がピタリと止まった。視線を感じる。誰かが自分をじっと見ている。急に体が強張ってきた。
これは、体験したことがある。またあの若い男がやってきたのか。固まった体を動かそうとした時、耳元から静かな声が聞こえてきた。
「お前が一人でくれば、旅館には手を出さない。さあ、俺と一緒にこい」
背後に人がいる気配がする。怖くて震える足を必死に動かす。下を見ると西森の腰に太い腕がゆっくりと絡み付いていく。拘束される!咄嗟に素早く振り向き、後ろへと肘を突き立てた。後ろの影はあっさりとそれを避ける。
「あんた、誰だよ!!こんなこと。。なんでするんだよ!!」
恐怖より怒りが勝った。震えていた雅也や、常に気を張っている杉崎を思い出す。連れ去られそうになった女将も、必死に旅館を守ろうとした正宗の姿も浮かんでくる。西森は目の前の黒いスーツの男を睨んだ。男は、フフと嬉しそうに笑っている。こいつか!!西森は湧き上がる怒りのまま殴りかかった。
「そんなに元気だとはな。。お前はいい目をしている。私の欲しいものだ。連れていこう」
真っ直ぐ突いた西森の腕を掴んでそのまま強く引き寄せる。あまりの力の強さに西森はバランスを崩して前のめりになった。足に力を込めて必死に踏ん張るが、男に引き寄せられていく。悔しい。西森は男をきつく睨んだ。
「西森さ~ん!どこです~!?お花届けましたか~!?」
杉崎ののんびりとした声が聞こえてきた。男は目で確認した後、西森の腕を離す。肩を上下に激しく揺らして息を切らす西森を静かに見つめている。
「もし、お前が俺の元に来るのなら、あの杉崎という男から離れろ。迎えに来てやる」
いつまでも睨み続ける西森を満足そうに目を細めて笑っている。西森は悔しくて奥歯を強く噛んだ。力の差は歴然だ。この男には敵わない。一人で行かなければ、旅館が危ない。迷っている西森を見透かすように見つめた後、すっと背中を向けた。すぐそこまで杉崎の声が聞こえているのに、悠然としている。隙のないゆったりとした動きが逆に恐ろしい。近づいてくる杉崎の声を聞きながら、男の元へ行くべきか、速水たちに話すべきか、西森の心は揺れていた。
皆様、こんにちは(*^^*)いかがお過ごしでしょうか?
のんびりテレビを堪能しております。面白い番組がたくさん。。チョコを食べながらほくほくと満足~。
ではでは皆様、これからも素敵な時間をお過ごしくださいね(*^^*)