幸せのカタチ
例えば職を失って。
例えば借金を背負って。
例えば妻が癌になって。
例えば子供が事故で死んだとしたら。
「貴方ならどうしますか?」
藤原卓真の質問にカウンター前の若い店主は眉を顰めた。
「普通の人なら自殺しますねぇ。そこまで行ったら人生真っ暗だ」
「ですよねぇ……」
この行きつけの居酒屋で一服するのが藤原の一週間に一度の楽しみだ。
名も知らぬこの若い店主と雑談をする事が妙に癖になり、仕事帰りに寄るようにしている。
「何で突然そんな話を? 確か僕の記憶では藤原さんは独身の筈でしたけど」
鶏肉とネギを串に刺しながら店主がこちらを向いて首を傾げた。
藤原は苦笑してかぶりを振る。
「いや、私はIfの話がしたかっただけです。もしもこの世の地獄があったらどういう状況だろうなって」
「If……「もしも」の話か。面白いかもしれないですね、それ」
店主が肉を串に刺す手を止め、こちらを向いてにやりと笑った。
「面白い?」
藤原がおうむ返しに聞き返すと店主は仕事を完全に放り出して頷いた。
「もしもこの世の地獄があったならどんな状況だろうか」
藤原は冷静に返す。
「仕事してください」
「この時間からバイトが増えるので大丈夫です」
「そうですか……」
真顔で無茶苦茶な事を言う店主に諦めた様子で藤原はため息をつく。
一方店主は、
「じゃあ皆さん注目! 今日は「もしもこの世の地獄があったなら」です」
客に向けてポーズを決めて議長のように仕切りだした。
藤原以外の常連たちもため息をついて苦笑いしている。
皆、この光景に慣れているのだ。
「じゃあ誰か地獄っぽいもの知ってる人!」
店主の発言にしっかりやれー、と客たちから野次が飛ぶ。
「だって僕みたいに若いと地獄なんか知りませんよ?」
かと言って戦争の経験など今の社会人がある訳も無い。
店主は諦めて別の質問をする事にした。
「じゃあ藤原さんの言っていたものが本当に地獄かどうか考えてくれませんか?」
店主はよく通る声で朗々と藤原の言っていた事を一言一句間違わず読み上げる。
例えば職を失って。
例えば借金を背負って。
例えば妻が癌になって。
例えば子供が事故で死んだとしたら。
「これは本当の地獄と言えるでしょうか?」
店主の問いに皆押し黙る。
すると、
「いや、まだ足りないな」
店の隅の方から大学生らしき人物が眉を上げて答えた。
店主が大学生に声をかける。
「諌早くん、足りないとは?」
諌早と呼ばれた男性がピッ、と指を立てて考え事をするかのようにくるくると回した。
「本人は生きてるだろ。環境が絶望的だろうが何だろうが、生きていられる時点で地獄じゃない」
まあ確かに、と店主が頷く。
生きているだけで丸儲けという言葉もあるくらいだ、決して彼の言っている事は間違いではない。
ただ、藤原には疑問が残る。
「それでは生き地獄ではないのですか?」
藤原が諌早に問いかけた。
「何も目的も無いまま限りある寿命を浪費する生活とは地獄とさほど変わらないのでは?」
むぅ、と諌早が唸る。
そこまでは若さゆえに考えが至らなかったらしい。
店主も確かに、と酒瓶を取り出しながら頷いた。
ここで店主の取り出した酒瓶を受け取った女性のバイトが口を挟む。
「どこに幸せを置くかで人によって地獄の状況なんて変わりますよね」
「日比ちゃん、それはどういう意味?」
店主の問いに日比と呼ばれた女性は戸惑うように答えた。
「仕事が好きな人であれば働けない事が人生に生き甲斐を感じられませんし、家族を大切にする人であれば家族を失う事は地獄と同義なのでは無いでしょうか」
「つまりその話からいけば自分が一番大事な人は這い蹲ってでも生きていく、と?」
「はい」
なるほど、と藤原と店主が納得する。
「地獄と幸せって紙一重なんだな……」
諌早がぼやいた一言に日比が小首を縦に振る。
「同じものを失っても、大きさっていうのは双子であろうと絶対に同じではないと思うんです」
ここで店主が思いついたように口を開いた。
「もしかしたら失った事で幸せになる事もあるのかもしれないね。それが幾ら非人道的な内容だったとしても」
ここで藤原は職を失った時の決まり文句を思い出した。
新しい自分に羽ばたく、だったか。
今彼が思うに何という皮肉であろう。
失う事で好機となるか地獄となるかなんて人によって違うというのに。
「それが全ての人々に当てはまる訳では無い、か……」
万能という言葉の「脆さ」。
「藤原さん、何かヒントを掴んだようですね」
店主が勘付いたように微笑んで日比に渡した酒瓶を再び受け取る。
「僕は結論が聞きたいです」
藤原は親指の付け根を軽く噛みながら答えた。
「もしもこの世に地獄があるならば、私は自分自身が死んだ時だと思います」
「何故そう思いましたか?」
「無数にある楽しみから新しいものを見つけ出すのはさほど難しくありません。でも――」
「でも?」
店内の目が藤原に集中する。
これを言っていいのだろうか、と藤原は一瞬逡巡したが言うことにした。
「――死んだら何もできませんよね?」
『へ?』
諌早と店主が呆気に取られた声を上げる。
だって、と藤原が困ったように呟いた。
「他にどうしろと……」
そんな彼の様子に日比がくすり、と笑みをこぼした。
それを切り口に、店内の客から笑い声が漏れ出す。
「え、ちょっと、何で笑うんですか!?」
パニックになる藤原を見て笑い声は更に大きくなり、
「あははははは」
「何を言い出すかと思えばそんな事か!」
「いや、藤原さんらしくていいと思いますよ」
フォローだか何だか分からない声を客たちからかけられる。
店主が唇を引き攣らせながら藤原が頼んでもいないつまみを差し出した。
「はい、話題提供ありがとうございました」
「……どう致しまして」
ふくれっ面の藤原にやはり笑いをこらえた日比がお辞儀をする。
「ありがとうございました!」
「もういいですよ……」
再び笑いが店内に満ち溢れる。
藤原は大きくため息をついた。
今日も居酒屋は平和だ。