上
吉原遊郭の遊女の中でも最上位の〝呼出〟である雪嶺花魁の部屋から、くぐもった甘い声がもれていた。
ここは総籬の大見世・雲居屋。吉原を代表する見世の一つだ。
「姐さん、響屋の若旦那が来なんした」
ぴたりと甘い声が止み、雪嶺の凛とした声が襖の向こうから響いた。
「そう。準備しんす。下でお待ちなんし」
「けど…わっちは姐さんのお世話を」
「風花がいるからぬしは必要ありんせん。お行きなんし」
雪嶺の返答はぴしゃりと叩き付けるようだった。
雪嶺には二人の振袖新造がついている。振袖新造は一言で言ってしまえば格が高い花魁になることが約束された遊女見習いだ。風花と、先程馴染客が来たことを知らせに来た六花が雪嶺の振袖新造である。
「姐さん、またあの方とでありんすか。ずっと姐さんと同じ時間を紡いでいられたら、どんなにかすてきなことでありんしょうに」
「仕方の無いことざんす。これはお勤めだから。さ、行きんしょう」
雪嶺は風花の唇に甘く小さな口付けを落とすと風花に手伝わせ絢爛豪華な縞繻子の仕掛けを纏い、三枚歯の黒い高下駄をはく。これから引手茶屋と雲居屋を行き来しなくてはならない。
いわゆる花魁道中だ。
定紋付きの箱提灯を持った若い者を先頭にたて、風花と六花が並び、その後ろに高下駄で頭一つ分も高い雪嶺花魁が続く。
あいにくの雪模様で、傘を差し掛けている男が微かに身震いした。
雪嶺はすっと顔を上げた。傾国の美女と謳われる彼女の面が月の光に明るく照らし出された。
「花魁、雪で足元が滑ります。気を付けてください」
風に吹かれて真っ赤な寒椿の花びらが一片、白雪の上に舞い落ちる。
雪嶺は足を踏み出した。
外八文字を踏む下駄の音を聞きながら、風花は緩やかに目を細めた。
名高い雪嶺花魁の道中を一目見ようと道いっぱいに溢れる人々のざわめきも、禿の鈴の音も風花の耳には入らない。ただ白い雪片に覆われた暗黒の世界には雪嶺の下駄が地を掻く音しか存在しない。
女衒に連れられて雲居屋に来た時、薄汚れた自分を引き取ってくれたのが、まだ附廻―花魁―になったばかりの雪嶺だった。
―「そんな顔してないでもっとお笑いなんし。ぬしは笑った方がかわいいざんす」
―「わっちも知らぬ間にここへ売られて来んした。わっちらは狭い籠に押し込められて歌う小鳥でありんす。囚われた籠の小鳥が夢に胸を躍らせる時は来るのでおざんしょうか」
あの頃は美しい雪嶺花魁にただ見とれ、ガラスの小鳥のような彼女の手を引いて外に飛び出したこともあった。そのたびに阻まれ阻まれ―。その行為は二人に自分達がいかに無力か、籠の小鳥にすぎないかを思い知らせただけだった。
この世界は閉ざされていた。人づてに聞いた話によれば、雪嶺の家族は全員盗人に殺され、本人も殺されかけた所を女衒に買われたのだとか。
年季を勤め上げても帰る場所など無く吉原に繋がれ続ける。身請けされるか死ぬかしなければ出ることの叶わない狭い世界。外の世界で苦しみに包まれ、この世界に踏み込んでもなお囚われ続ける雪嶺。それでも彼女は笑顔を絶やさない。
時折面をよぎる影に閉ざしてしまった彼女の過去を我が身が背負って幸せな世界を見せてあげられたら、この狭い世界から出してあげられたらと思っても今の自分は〝雪嶺花魁〟がいなければ生きていけない身。
雪嶺に負担をかけ続ける自分が情けない。
恰幅の良い響屋の若旦那と話す雪嶺の面を時折よぎる暗い影。その影を見るたび風花の心臓は消えかけた蝋燭の火のように揺れる。
「おや、花魁、このような所に寒椿が」
「あら、本当に」
雪嶺は振り返りまぶたを下ろした。艶やかな長いまつげが震え、小さく歌声がもれた。
「ほう、さすがは花魁。歌もうまいな」
直ぐに褒め言葉を口にする若旦那とは対照的に風花は無言で聞きほれていた。なんて綺麗で哀しい歌声なのだろう。なんて細い儚い声なのだろう。
そう、まるで、狭い籠に囚われた小鳥が放つ一瞬の響きのような。
風花は何かを振り払うように頭を振った。
見世での宴会の後、夜具を整えて男を通し、雪嶺を呼ぶ。
「風花、ぬしはなんて顔を」
「だって雪嶺姐さん、わっちは・・・」
雪嶺は風花の頭を軽く撫で、耳朶をぺろりと舐めると目を伏せ、閨へ入っていってしまった。




