午前二時のレンズ-間宮響子-
『午前二時のレンズ』
それは、あまりにも軽かった。
――午前二時にスマホのカメラを起動し、決まった呪文を唱える。
たったそれだけで「向こう側」が見える。
そんな都市伝説が、SNSで爆発的に拡散したのは、ほんの一週間前のことだった。
動画には、ぼやけた影や、誰もいないはずの部屋に立つ“何か”が映っていた。フェイクだと笑う者もいれば、震えながら「本物だ」と呟く者もいた。
そして、真央は――試した。
午前一時五十九分。
部屋の電気を消し、ベッドに座り、スマホを握る。窓の外は無音で、世界が息を潜めているようだった。
――二時。
カメラを起動する。
インカメラではない。外側の、世界を映すためのレンズ。
真央は、動画で見た通りの呪文を口にした。
「……ひらけ、ひらけ、境界の門よ」
その瞬間だった。
画面が、わずかに揺れた。
ノイズ。圧縮されたような歪み。画面の奥が、深くなる。
部屋はそのままのはずなのに――どこか、違う。
影が、濃い。
暗闇が、ただの光の欠如ではなく、“何か”の層になっている。
そして。
――いた。
画面の端に、誰かが立っていた。
振り向いていない。
ただ、そこに“ある”。
黒い髪が、床に触れるほど長く垂れている。
真央の喉がひくりと鳴った。
そのとき、画面の中のそれが、ゆっくりと首を動かした。
カメラ越しに、目が合った。
次の瞬間、スマホは手から滑り落ちた。
それから、家がおかしくなり始めた。
最初は、観葉植物だった。
朝、起きると、リビングの緑がすべて茶色に変わっていた。水はやっていたし、昨日まで元気だった。にもかかわらず、葉はしおれ、茎は腐ったように黒ずんでいた。
父は「気味が悪いな」と言いながら、ゴミ袋にまとめて捨てた。
だが、その日の夜、父は酒を飲んだ。
普段は晩酌程度だったのに、瓶を一本、空にした。
翌日も、その翌日も。
やがて仕事にも行かなくなり、昼間から酒をあおるようになった。
母も、変わった。
最初は無言の時間が増えただけだった。
やがて、何も食べなくなり、カーテンを閉め切り、部屋にこもるようになった。目の下には濃い影ができ、誰かと小声で話すような仕草をするようになった。
「……そこにいるの?」
誰もいない壁に向かって、そう囁く。
弟は、もっと露骨だった。
部屋に閉じこもり、出てこない。
風呂に入らない。服を替えない。
食事はジャンクフードだけを要求し、母が作ったものは一切口にしない。
やがて、トイレにも行かなくなった。
ペットボトルが、部屋の中に並び始めた。
黄色く濁った液体が、何本も、何本も。
部屋からは異臭が漂い、扉の向こうからは絶え間なくキーボードを叩く音が聞こえる。
だが――
夜中、真央はそれを見てしまった。
弟の部屋の隙間から、覗いたとき。
モニターの光に照らされた弟の背後に、“何か”が立っていた。
黒い、長い髪。
顔は見えない。
だが、それは――確かに、あのときカメラ越しに見た存在だった。
真央は、逃げるようにスマホを握った。
そして、検索した。
「霊能力者 間宮響子」
名前はすぐに見つかった。
テレビにも出たことがある、実在の霊能力者。
最後の望みだった。
間宮響子は、静かな女だった。
黒髪を後ろで束ね、無駄な言葉を一切発しない。
だが、真央の話を聞き終えると、彼女は即座に言った。
「もう遅い」
真央の心臓が凍りついた。
「あなたは“見た”だけじゃない。“呼んだ”のよ」
その日の夜、響子は家に来た。
玄関に入った瞬間、彼女の表情がわずかに変わる。
「……濃いわね」
リビングに入ると、響子は空気を撫でるように手を動かした。
「霊道が開いている。完全に繋がってる」
父は酒瓶を抱えたまま笑い、母は壁に向かってぶつぶつと呟き、弟の部屋からはクリック音が響き続ける。
すべてが、異常だった。
「閉じるわ」
響子は、低く言った。
午前二時。
あのときと同じ時刻。
今度は、逆に“閉じる”ための儀式。
真央は震えながら見守った。
響子が呪文を唱え始める。
空気が、重くなる。
家全体が、きしむように軋んだ。
そのときだった。
――カメラが、勝手に起動した。
テーブルに置いたままのスマホ。
画面が光り、録画が始まる。
そこに映っていたのは――
“家の中ではなかった”。
同じリビングのはずなのに、すべてが歪んでいる。
壁は湿り、天井は低く、影が粘つくように広がっている。
そして。
無数の“それ”が、立っていた。
黒髪の女だけではない。
顔のないもの。
手足が異様に長いもの。
床に這いつくばるもの。
それらが、全員――こちらを見ていた。
響子が叫ぶ。
「目を逸らしなさい!」
だが、真央は見てしまった。
その中に――
“自分”がいた。
スマホを持ち、こちらを覗いている、自分。
その“真央”が、ゆっくりと笑った。
次の瞬間、すべてが消えた。
朝。
家は静かだった。
父は、酒をやめていた。
母は、穏やかな顔で朝食を作っていた。
弟は、風呂に入り、普通の食事をとっていた。
すべてが、元に戻った。
間宮響子は、玄関で言った。
「霊道は閉じたわ」
そして、少しだけ間を置いて――
「でも、“どちら側”を閉じたかは分からない」
その意味を、真央はすぐには理解できなかった。
数日後。
真央は、何気なくスマホのカメラを起動した。
昼間だった。
明るい部屋。
何もおかしくないはずだった。
だが。
画面の中には――
“誰もいなかった”。
テーブルも、壁も、家具も映っている。
だが。
そこにいるはずの自分の手が、映っていない。
そのとき、背後で声がした。
「ねえ」
振り向くと。
家族が、立っていた。
全員、同じ角度で首を傾け、同じ笑みを浮かべている。
「あなた、どこから来たの?」
その言葉と同時に、スマホの画面が、こちらを向いた。
画面の中の“世界”で。
―(完)―
黒い髪の女が、ゆっくりと――
真央の代わりに、笑った。




