暴力に正当性を持たせたがるのは、気持ちよくなりたいから?
人や物に攻撃を加えて損害をもたらす行為は不愉快なもの、嫌なものだと感じますが、それは自分がそのような行為を行なった場合に後ろ暗い気持ちに支配されることになるからです。申し訳ない気持ちや後悔の念が常に後ろ髪を引いているような状態で生活するのはとても辛いことです。暴力を厭うのはそのためです。暴力に反対する理由を正義や道徳などの言葉で飾って説明することも出来ますが、根っこにあるのは個人的な感情だと考えています。
理由はなんであれ、自分が暴力を振うこと、他人に暴力を振われることを好ましく思う人はそう多くはいないと思いますが、自分と無関係な場所で展開される暴力にはあまり抵抗を覚えない、むしろ何かしら惹きつけられてしまうのも否定し得ない人の性のようです。
人が暴力に惹きつけられる理由は正直分かりません。生物としての本能であったり、歴史的に醸成された精神構造であったりするのかもしれませんが、他にも要因は無数にあるでしょう。ただ、暴力に惹きつけられると、人はその暴力に正当性を持たせたがる傾向があるようで、それがちょっと怖いなと感じるのです。特にフィクション作品への接し方でそれが顕著のように思われます。
最近、昔のヤクザ映画を観ています。第二次世界大戦後の混乱した日本の地方都市を舞台に、ヤクザ同士の抗争を描くシリーズ物でとても面白いです。暴力が嫌いなのに暴力が溢れる映画が好きなのかと思われるかもしれませんが、このシリーズの特筆すべき点は、主人公が奮う場合も含めて暴力というものに一切の正当性を与えていないところです。
主人公は荒廃した街で自分が生き抜くためにヤクザとなっており、縄張りを守る又は拡大するために暴力を奮うので、主人公側が諍いで勝利しても街の治安が良くなることはありません。一般市民にとっては、街を牛耳るのが誰になるかという違いでしかないのです。市民を守るためにやむをえず暴力を行使するというストーリーには決してなりません。主人公が通そうとするスジのようなものは描かれますが、主人公自身がそれを正義とは思っていませんし、作り手も正当なものとしては描写していません。あくまで主人公の気持ちの問題に留めています。どんな理由があるにせよ、暴力は不愉快なものであるというスタンスが徹底されており、どの作品も何かしらやりきれない気持ちを残して終幕を迎えます。
暴力とそれにより齎されるものを容赦無く、徹底的に描くことで暴力の恐ろしさや虚しさを浮き彫りにすることに成功しているのです。もちろん、全てのヤクザ映画がそのような意図で作られているわけではないでしょうが、少なくとも私が観たシリーズは暴力の否定をテーマにしていると感じました。
一方で、主人公が暴力を奮い、観る人をスカッとした気分にさせることを意図した作品もあります。暴れん坊将軍や必殺仕事人といった時代劇は、終盤に主人公が奮う暴力に正当性を持たせるのに番組のほとんどの時間を費やしてます。これだけ悪いことをしたのだから、この人たちは成敗されて当然だという感情を視聴者に芽生えされることに心血を注いでいるのです。前もって長い言い訳をしていると思うと、ちょっと滑稽な感じです。
不良少年グループを主役に添えたような作品だと、そのグループは街(社会)を守る正義の存在として描れることが多いようです。ヤクザという悪名のレッテルがないため、存在理由の設定に自由がきくのでしょう。やっていることはヤクザと変わりないのですが、正義や友情、愛の名の下に正当性を付与されることになり、暴力は否定されることなくルックスの良いキャラクターたちを彩るアイテムに様変わりします。
その他にも、迫害された主人公が力をつけて相手に復讐する話や、特殊な能力を持ちながら過小評価されて見捨てられた主人公が、その能力でかつての仲間を見返すといった話は枚挙にいとまがありません。よくもまあ同じような設定で話を作るものだと思いますが、不思議と飽きられることなく根強い人気があるようです。結局、隠された実力や特殊な能力がないと幸せになれないと言われているようなもので、ずいぶん世知辛い話だと感じますが。
いずれにおいても、最終的に主人公は敵対する相手に暴力を行使します。時にはその命を奪うことすらあるのですが、その暴力にはしつこいくらいに正当性が付与されているため、鑑賞者は主人公の手で相手が傷ついているという事実を思考の外において、暴力の魅力を思う存分味わうことになるのです。これがスカッとするということです。
ここでいう暴力は物理的なものに限らず、言葉で相手を言い負かしたり、説き伏せたりするような精神的なものも含まれます。論破という言葉が流行ったこともありますが、その内容が正しいかどうかに関わらず、相手の言葉で自分の考えを否定されると少なからず人は傷つきます。議論をしてより良い方法を模索するのは必要不可欠なことであり、社会において人と人がぶつかり合うのは避けられないことですが、その過程で誰かを、何かを傷つけているということから目を背けるのは心の在り方として健全ではないと思います。
フィクションを通じてスカッとした気分になりたい気持ちというのも理解できますが、それは刺激物のようなもので、そればかりに慣れすぎると心が麻痺してしまうように感じます。たかがフィクションと侮らない方が良いでしょう。幸か不幸かフィクションが現実に大きな影響を及ぼした例は決して少なくないのですから。
正当性があると思い込めば暴力の行使は歯止めが効かなくなるでしょうし、傷つけられた方にしてみれば、奮われた暴力に正当性があるなどと感じることはないため、次なる反撃の目を伺い続けることになります。何かの原因でぶつかり合った際に、不毛なサイクルから抜け出すには、奮い、奮われている暴力にはいずれも正当性はないのだと自覚することが大切ではないかと思います。終わり




