雀の牌
東堂雀は、どこにでもいる普通の高校二年生だ。成績は中の下、運動は苦手、趣味といえば放課後に友達と駄菓子屋でスナック菓子を食べるくらい。特別な才能も、目立つ特徴もない。それが雀の平凡な日常だった。
その朝も、雀はいつものように寝坊していた。目覚まし時計のスヌーズボタンを三回押し、ようやく布団から這い出した時には、すでに家を出る時間を10分過ぎていた。「やばい! また遅刻!」と叫びながら、彼女はパンをくわえ、制服のスカートを整えるのもそこそこに家を飛び出した。
通学路を全力疾走する雀。朝の住宅街は静かで、雀のスニーカーがアスファルトを叩く音だけが響く。カーブを曲がった瞬間、目の前に人影が現れた。「うわっ!」と思う間もなく、ドン! と鈍い衝撃。雀は誰かにぶつかり、バランスを崩してその場に尻もちをついた。
「痛っ……ご、ごめんなさい!」慌てて立ち上がり、相手を見ると、そこには見知らぬ女の子がいた。長い黒髪をポニーテールにまとめ、凛とした雰囲気を漂わせる美少女。彼女は右手を押さえ、痛みに顔をしかめていた。
「大丈夫ですか!? 私、急いでて……本当にごめんなさい!」雀は頭を下げ、慌てふためく。相手の女の子は、しばらく右手をさすっていたが、落ち着いた声で答えた。
「大丈夫よ。少し擦りむいただけ。あなた、急いでたのね?」
「はい、遅刻しそうで……でも、怪我させたなんて! 病院行きますか?」
「そこまでじゃないわ。でも……」女の子は少し考え込むように目を細めた。「あなた、名前は?」
「東堂雀です!」
「私は篠塚美玲。よろしくね、雀さん。」美玲は微笑んだが、その目はどこか真剣だった。「実は、明日、麻雀の大会に出る予定だったの。でも、この手じゃ厳しいかもしれない。」
「麻雀?」雀は首をかしげた。麻雀といえば、テレビで見たことのあるタイルのような牌を並べるゲーム。ルールはさっぱりわからない。「大会って……そんな大事な時に怪我させちゃって、ほんと申し訳ないです!」
雀の罪悪感は膨らむ一方だった。自分が走っていなければ、美玲は怪我をせずに済んだ。彼女の大事な大会が台無しになってしまうかもしれない。胸が締め付けられる思いで、雀は勢いよく頭を下げた。
「私にできることがあればなんでもします! 」
美玲は一瞬驚いたように目を見開き、すぐにくすりと笑った。「ふふ、なんでも、ね。じゃあ、ひとつお願いがあるわ。」
「なんですか!?」
「私の代わりに、明日の麻雀の大会に出てくれるかしら?」
「えっ!?」雀は目を丸くした。「で、でも、私、麻雀なんてやったことないですよ! ルールも知らないし!」
「大丈夫。教えるわ。」美玲の声は落ち着いていて、どこか自信に満ちていた。「あなた、なんだか面白そうな子ね。運が良さそう。」
「運?」雀はぽかんとした。運が良いなんて言われたのは初めてだ。むしろ、寝坊したり、テストでケアレスミスをしたり、運とは縁遠い人生だと思っていた。
「とにかく、今日は学校終わったら私の家に来て。麻雀の基本から教えるから。」美玲はそう言うと、ポケットからメモを取り出し、住所を書きつけて雀に手渡した。
放課後、雀はドキドキしながら美玲の家に向かった。篠塚家は古風な一軒家で、玄関を入ると麻雀卓がドンと置かれた和室が目に飛び込んできた。雀は初めて見る本物の麻雀卓に圧倒されつつ、美玲の指示でその前に座った。
「麻雀って、14枚の牌で役を作って上がるゲームよ。基本は簡単。4人で行うんだけど、今日は私がルールを教えてあげる。」美玲は怪我した右手を左手で支えながら、牌を並べ始めた。
「これが牌。萬子、筒子、索子、そして字牌の4種類があるの。まず、初心者でも作りやすい役から覚えましょう。たとえば、チートイツ。」
「チートイツ?」雀は聞き慣れない言葉に首をかしげる。
「同じ牌を2枚ずつ、7組集める役。ほら、こうやって。」美玲は牌を並べ、2枚ずつのペアを見せた。「これなら初心者でも分かりやすいでしょ?」
美玲の説明は驚くほど丁寧だった。牌の種類、点数の計算、ロンやツモの意味。雀は頭がパンクしそうになりながらも、美玲の優しい口調に励まされ、必死にメモを取った。
「美玲さん、すごく優しいですね! こんな初心者にこんな丁寧に教えてくれるなんて!」
「ふふ、だってあなたが私の代わりなんだから。ちゃんと勝ってきてね。」美玲はいたずらっぽく笑ったが、その目には本気の期待が宿っていた。
その夜、雀は家に帰っても麻雀のことを考えていた。チートイツの牌の並びが頭に浮かぶ。「同じ牌を2枚ずつ、7組……」とつぶやきながら、ベッドの上で牌を並べる仕草をしてみる。麻雀のルールは複雑だったけど、美玲の教え方が上手だったおかげで、なんとか基本は頭に入った気がした。
「でも、私に本当にできるのかな……」不安が胸をよぎる。それでも、美玲の信頼に応えたいという気持ちが強かった。雀は自分を奮い立たせ、翌日の大会に備えた。
大会当日。会場は地元の公民館を借りたホールで、数十人の参加者が集まっていた。麻雀卓がずらりと並び、牌をシャッフルするカチャカチャという音が響く。雀は緊張で手が震えながら、美玲に連れられて会場に入った。
「雀さん、落ち着いて。あなたなら大丈夫。」美玲はそう言って、雀の肩を軽く叩いた。「私の席はあそこ。ルールは昨日教えた通り。運を信じて。」
「う、うん……頑張ります!」雀はゴクリと唾を飲み込み、指定された卓に向かった。
対戦相手は3人。いずれも麻雀に慣れた風の男性たちで、雀を見るなりニヤニヤと笑った。
「篠塚が大会抜けたなら、勝ちは余裕だな。」一人が低い声でつぶやく。
「篠塚が代わりに素人入れたって? 大会諦めたのか?」もう一人が笑いながら言う。
「牌の持ち方といい、素人丸出しだな。カモるか。」三人目が牌をシャッフルしながら、チラリと雀を見た。
雀はそんな会話を聞きながら、内心で縮こまっていた。(うう、めっちゃバカにされてる……でも、負けたくない!)美玲の顔を思い出し、気合を入れ直す。
ゲームが始まった。雀は美玲に教わった通り、牌を慎重に並べる。最初の手牌はバラバラで、どんな役を目指せばいいのか分からない。とりあえず、チートイツを意識して、同じ牌を2枚ずつ集めようと決めた。
「ポン!」「チー!」対戦相手たちが次々と牌を鳴く中、雀は黙々と牌を整理する。すると、不思議なことに、同じ牌が次々と手元に集まってきた。「え、こんなに揃うもの?」と自分でも驚くほど、牌がスムーズにペアになっていく。
「カン!」対戦相手の一人が大きな声で宣言し、場が一瞬静まる。雀は焦りつつも、自分の手牌に集中した。すると、ついに7組目のペアが揃い、必要な牌が場に出た。
「あっ、それ、ロンです!」雀は思わず声を上げた。
「はああ!?」対戦相手の一人が目を剥く。
「なんだこの娘、素人じゃなかったのか!?」もう一人が牌を握り潰しそうになりながら言う。
「おかしすぎるぞ!」三人目が卓を叩いた。
雀の手牌は、チートイツ。美玲に教わった通り、7組のペアで構成された役だった。点数は高く、対戦相手の一人が大きく点数を失った。
「まぐれだろ……」対戦相手たちは顔を見合わせ、不機嫌そうにつぶやく。
次の局でも、雀の手牌は驚くほどスムーズに揃った。またもやチートイツ。対戦相手たちは唖然とし、会場にいたギャラリーもざわつき始めた。
「完全に舐められてる!」一人が苛立ちを隠さず言う。「チートイツばっかりって、なんだよそれ!」
雀はただただ驚いていた。自分でもなぜこんなに上手くいくのか分からない。でも、牌を引くたびに、まるで牌が自分を導いているような感覚があった。
そして、運命の局。雀の手牌は、1萬、9萬、1筒、9筒、1索、9索、東、南、西、北、白、發、中と、異様なまでに端牌と字牌ばかりが集まっていた。「これ、なんかすごい役になりそう……」と直感した雀は、美玲に教わった「国士無双」という役を思い出す。13種類の特定の牌を1枚ずつ集め、最後に必要な牌を引くかロンする役。確率は極めて低いと聞いていた。
場が進む。雀は緊張で息を詰めながら、牌を慎重に選ぶ。対戦相手たちは彼女の動きに違和感を感じ始め、警戒しつつも強気のプレイを続ける。
そして、ついにその瞬間が来た。雀が最後の牌を引いた瞬間、彼女は小さくつぶやいた。「ツモ……えっと、国士無双です!」
「なんだとおおぉ!?」対戦相手たちが一斉に叫ぶ。
「国士無双!? 素人が!?」一人が卓を叩き、もう一人は頭を抱えた。
「俺、飛んじゃった……」三人目が悄然とつぶやく。雀の国士無双は満貫で、対戦相手の一人をゲームから脱落させた。
会場は騒然となった。ギャラリーがどよめき、美玲は遠くから雀を見つめ、目を輝かせていた。「この子、すごい……」
大会は続き、雀は次々と局を勝ち進んだ。彼女の手牌は、まるで魔法のように役を形成し、チートイツや国士無双といった高難度の役を連発した。対戦相手たちは「運が良すぎる」「素人じゃない」と口々に言いながらも、雀の純粋な笑顔と初心者らしい仕草に、どこか憎めない気持ちも抱いていた。
美玲は観客席から雀を見守りながら、心の中でつぶやいた。「あなた、本当にただの運じゃないわね。牌があなたを選んでるみたい。」
大会の最後、雀は決勝卓まで進んだ。彼女の対戦相手は地元の強豪たちだったが、雀の「極運」は止まらなかった。最終局、彼女は再びチートイツで上がると、会場は拍手と歓声に包まれた。
「優勝、東堂雀!」アナウンスが響く。雀は信じられない思いでトロフィーを受け取り、照れ笑いを浮かべた。
「美玲さん、ありがとう! 私、こんなすごいことできたの、全部美玲さんのおかげです!」雀はトロフィーを手に、美玲に駆け寄った。
「ううん、雀さん。あなた自身の力よ。あなたは、麻雀の牌に愛された子なのかも。」美玲は優しく微笑んだ。
その日を境に、東堂雀の人生は少しずつ変わり始めた。彼女は麻雀を本格的に学び始め、初心者ながらもその「極運」で周囲を驚かせ続けた。美玲との友情も深まり、二人はともに麻雀の道を歩む仲間となった。
雀の牌は、まだ彼女の手の中で輝き続ける。これからも、彼女の活躍は続くのだ。