元平民令嬢は愛を乞う
初投稿です。拙作ですが楽しんで頂けると幸いです。
「お姉様っ」
そう自分を呼ぶ声が聞こえて、ライラはゆっくりと目を開けた。上体を起こし、こちらに駆け寄ってくる異母妹の姿を一瞥して、思わず顔を顰める。
「……ルチア、さん」
あーあ、なんで来るんだよ。こっちはあなたとなんか顔も合わせたくないのに。
そう心の中で毒づいてから、ライラは徐々に覚醒してきた意識で考えた。
自分は何をしていたんだっけ。
そうだ、家の庭の木陰で、昼寝をしていたのだ。
口煩い家庭教師の退屈な授業から抜け出すために、二階の勉強部屋の窓から飛び降りて、庭まで逃げた。そして、天気が良くて風が気持ちよかったから、芝生に寝転がって、そのまま。
ここ数ヶ月、目まぐるしい環境の変化に気疲れして、思いの外疲労が溜まっていたのだろう。いつもならルチアの足音を聞き分けて相手に気付かれる前に接触を回避できるのに、今日はぐっすり寝こけてしまった。
「またお勉強から逃げ出したとお聞きしました」
「……お説教ですか」
窘めるようなルチアの口調に、ライラはこれみよがしに首を竦めた。
「お貴族様の勉強はどうも私には難しすぎて。学がないもので、文字の読み書きだってままならないのに、政治だの経済だのと言われましてもさっぱり」
なにせ、ついこの間まで平民だったので。
冗談めかしてライラが笑うと、ルチアは一瞬、何かを堪えるようにぎゅっと口を引き結んだ。それから何を思ったのか、ルチアはライラと目線を合わせるように傍らで跪くので、ライラはぎょっとした。
ルチアの着ている上等なドレスの裾が、思い切り地面についてしまっている。土や草葉で汚れてしまうだろうに、そんなことはお構い無しという風にルチアはライラの手を取った。
意思の強い瑠璃色の瞳が、真っ直ぐにライラを見つめてくる。
顔立ちも髪色も似ても似つかないのに、どうして瞳の色だけは同じなのだろう。
ふわふわと揺れる金髪に、ぱっちりと開かれた大きな瞳は庇護欲を唆る。ルチアは世間一般で言う美人、かつ、かわいいと呼ばれる部類に入るだろう。それもかなり上等だ。
ライラもきっと美人の部類には入る。でも、癖もなく真っ直ぐに伸びる濡羽色の髪や、冷徹な印象を持たせる切れ長の瞳は、可愛げとは程遠い。
ルチアのような愛らしさがあれば、自分も父に愛してもらえたのだろうか。そんなことばかり考えて嫌になる。
「……あの家庭教師に、何か言われましたか?」
恐る恐る、深刻な声音で尋ねられて、ライラは息を呑んだ。
「…………何かって、何をです」
「雇われの身でまさかとは思いますが、お姉様をその……侮辱、するような言動を、とられたのではないですか」
「……」
「もしそうなのであれば、あの者を解雇するように私からお父様に進言致します。身の程を弁えられない者では、お姉様の教育係に相応しくない」
どうしてこうも、この女は敏いのだろう。
家庭教師に馬鹿にされたのは事実だ。
彼女はライラがついこの間まで平民で、文字だって簡単な読み書きしかわからないことを知った上で、敢えてライラの習熟度に見合わない高難易度の問題を解かせようとした。見え透いた悪意だ。そして、ライラがわからないと素直に答えれば、「こんなこともわからないのか」と呆れたように鼻で笑った。そしてこう続けた。「こんな問題、ルチア様なら数秒で解けますよ」と。
家庭教師はいかにルチアが美しく、聡明な令嬢であるかを滔々と語った。
それに比べてお前はどうだ。見目がいいだけの白痴で卑しい妾腹の子め。お前如きがこの家の娘を名乗るなど烏滸がましいとは思わないのか。
口には出さずとも、家庭教師の視線がそう語るのを、ライラは肌で感じ取った。
ルチアの幼少期からこの家に仕えていたらしい彼女は、本当にルチアのことを愛し、慕っているのだろう。だから、突然やってきた異分子であるライラを敵視している。
ライラを貶し抑圧することで、ルチアを守っているつもりなのだ。それはきっと、彼女なりの愛情なのだろう。
ライラに冷たく当たる使用人は彼女以外にもたくさんいるし、それはそれだけルチアが多くの人に愛されていることの証左だ。
ライラだって好きでこの家にやってきたのではないし、今すぐにでもこんな家から逃げ出したいと思っている。けれど、先住者と新規参入者の間のそういう衝突は往々にしてあることで、彼女たちの気持ちも理解できる。だからこそ、侮辱されて不快になりこそはすれ、ライラは誰に告げ口するでもなく逃亡して、こうして一人不貞腐れていたと言うのに。
それなのに、ルチアが自分を慕い守ろうとする付き合いの長い家庭教師を切り捨てるような発言をするのが、どうも癪に障った。
確かにルチアの言うことは正しいのかもしれないけど。妾腹と言えど、雇用主の娘を舐めてかかるような者は解雇されて当然なのかもしれないけど。
身内の贔屓目を抜きにしても可愛らしい容姿で、庇護欲を唆るような、ふわふわとした雰囲気を纏っているのに。脳内お花畑のような綺麗事を言うのかと思いきや、鋭い観察眼で物事を見極め、非情な正論を振りかざすことすら厭わない。
ルチアはただ見目がいいだけでなく、賢く、正しい。
この世のありとあらゆる存在に祝福されて生まれてきたような、非の打ち所のない娘だ。
それがより一層ライラを惨めにすることには、どうやらまだ気付いていないらしいが。
「……放してください」
うんざりした気分で、ライラは言った。
「私が誰に馬鹿にされようが、ルチアさんには関係ないでしょ」
ルチアは首を振って応じなかった。
「関係あります。お姉様はもう、我がオブライエン侯爵家の一員です。私たちは家族で、姉妹なのですから、お姉様も私と同等に使用人たちに尊重されるべきです」
ぞわり、と全身の毛が逆立つような心地がして、ライラは乱暴にルチアの手を振り払った。
私たちは家族? 同等に尊重? 馬鹿言うな。
「卑しい妾腹の子に、尊重すべき尊厳があるわけないでしょう」
ルチアは祝福されて生まれた正妻の子で、ライラは望まれなかった妾の子。その事実は覆りようがない。
正妻の子と妾の子が対等であるはずがないし、対等であっていいはずがない。
そんなこと、学のないライラでもわかるのに。
「そんなはずありません。人の尊厳に優劣なんてあっていいはずがない。生まれによって人の価値が決まるわけではありません」
ルチアの口から紡がれるのは、聞こえだけはいい綺麗事だ。
理想的で、随分と高尚な思想だと思う。
人は皆平等。
そうであったらいい。そうあってほしい。
だけど現実はそうはいかないことくらい、十数年生きていれば誰だって理解する。
それなのに、このお花畑っぷり。
賢い女だと思っていたが、案外ルチアの頭蓋の中には脳味噌の代わりに綿菓子が入っているのかもしれない。
さすが、祝福されて生まれた子供。
そう思うのに、その瞳があまりにも真摯な色を宿しているから、ライラは何も言えなくなってしまう。
「……」
元より住む世界が違う相手だ。頭の出来も受けてきた教育の質も格が違いすぎる。口喧嘩で勝とうなんて思っちゃいけない。
対話を放棄したライラが俯いて黙り込むと、何をどう解釈したのか、ルチアはにこにこと笑った。
「あの家庭教師と気が合わないならば、私と一緒にお勉強しませんか?」
「はぁ? どうして」
妹の唐突な提案に、ライラは面食らう。
「二人きりならば誰にも邪魔されず、お姉様も勉強に集中できるのではないかと思いまして」
「そういうのじゃなくて、あなたに私の勉強に付き合う義理なんかないでしょう」
「義理? どうして姉妹が一緒に勉強するのに義理が必要なんですか?」
「……あなた、少し姉妹に夢を見すぎてません? 普通の姉妹はそこまでの無償の愛情を持ち合わせてはいないと思いますよ」
「そうなのですか? 小説の中では仲の良い姉妹がたくさん出て来ますよ?」
「いやそれ創作物……」
ルチアがきょとんと首を傾げる様は、同性の目から見ても可愛らしい。普通の女がやればあざとくて鼻につくであろうその仕草も、ルチアの手に掛かれば様になるのだから不思議だ。
「……勉強を教えてもらえるのなら、それはそれで有り難いのですが……」
結局、先に折れたのはライラだった。
「本当ですか!? 嬉しい!」
「嬉しいって、何も嬉しいことなんか……」
「実は私、姉妹で仲良くお勉強というシチュエーションが憧れだったのです」
「……」
ライラは呆れて絶句した。素で言ってるならこいつは本物の馬鹿だ。
初めて顔を合わせた時、ライラがオブライエン侯爵家にやってきた当日もこうだった。
妾の子なのだから、きっと自分は疎まれると思っていた。
現に侯爵夫人はライラを一目見て苦虫を噛み潰したような顔で目を逸らしたし、ライラを侯爵家に引き取ることを一方的に決めた血の繋がる父でさえも、ライラのことを汚物を見るような目で見た。
そんな目で見るなら引き取らなきゃよかったのに。
そう思うけれど、そうもいかないのが貴族というものなのだろう。
貴族という生き物は血を何よりも重んじる。愛情を欠片も抱いていなくとも、自分の血を引いた娘を野放しにするわけにはいかないのだ。
ライラからしたらたまったものではないが。
「はじめまして、お姉様。妹のルチアと申します。お会いできて嬉しいです」
そんな凍り付いた家族の邂逅の中で、ルチアだけはライラの手を取った。
頬を桃色に染め、食い気味にライラに詰め寄り、
「私、姉妹というものに憧れていたんです」
「まずはお茶をご一緒させてください」
「お姉様のことが知りたいです」
「好きなもの、嫌いなもの、されたら嫌なこと、全部教えてください」
と、早口で捲し立てるルチアに気圧されたあの日のことを、あの温もりに満ちた指先の感触を、ライラは二月経った今でも鮮明に覚えている。
それ以来ずっと、ライラは暇さえあればルチアの姉妹ごっこに付き合されているのだ。
「お姉様? どうかなさいました?」
初めて会ったときのことを思い出して溜め息を吐くライラの顔を、ルチアは心配そうに覗き込んだ。
「……なんでもありません」
生まれてこの方誰かに愛されたことがないライラには、この世の全てに愛されているルチアの存在はあまりに憎らしく、眩しすぎた。
*
「それで? その後の勉強会は楽しかった?」
そう言って楽しげに笑うのは、ライラがオブライエン侯爵家に引き取られてすぐに宛てがわれた婚約者のウィリアム・バーンズだ。
今日は婚約を結んでから定期的に設けている顔合わせの日である。ライラはまだ侯爵家の娘として必要とされる礼儀作法の最低限も身につけられていないため、家の外にはとても出せないということで、二人が会うのはいつも侯爵家の庭園の四阿だ。
「……話聞いてました? 異母妹にまとわりつかれて鬱陶しいったらないって言ってるんですけど」
「えー。だってライラ、さっきから妹さんの話しかしてないよ?」
「そ、それは……」
家の外に出してもらえないライラに、碌な雑談が出来るわけもなく。必然的に異母妹のルチアの話ばかりしてしまうのは仕方のないことだった。
つい先程も話題に困り、先日ルチアに姉妹で勉強をしようと持ち掛けられた話をしてしまったら、この言われ様だ。
「ふふ。仲良しなんだね」
「…………仲良くなんかありません」
「照れなくてもいいのに」
「照れてません!」
否定しなくてもいいよ、わかってるから。とでも言いたげに蜂蜜色の瞳を細められて、ライラは居た堪れない心地になる。
ウィリアムは優しい男だ。と、ライラは思う。
公爵家の次男であり、本人は貴公子然とした立ち居振る舞いをするくせに、ウィリアムはライラの未熟な礼儀作法を咎めることはしない。
かと言ってライラの無作法をそのまま放置するわけでもなく、都度優しく指摘して修正してくれる。
侯爵家に来てから叱られてばかりの毎日を過ごしていたライラにとって、ウィリアムと過ごす時間は、正しく安息の時間だった。張り詰めていた緊張の糸が解れて、つい愚痴っぽくなってしまうのに、ウィリアムはいつも楽しそうにライラの話を聞いてくれる。
どうしてこんなに優しい人が自分の婚約者なのだろう。
家柄も良く、見目もいい。彼だったらライラでなくても、もっと美人で血筋も良くて礼儀作法も完璧な令嬢と婚約を結べただろうに。
それこそ、ルチアのような女性の方が、ライラなんかよりも余程釣り合いが取れる。
「……ウィリアム様は、ルチアさんと婚約したいとは思わなかったのですか」
「え?」
無意識に口をついて出た疑問に、ライラは慌てて口を噤む。
「す、すみません。忘れてください」
「君は俺が君の婚約者でありながら、君の妹のルチア嬢に懸想すると思ってるの? ……俺、そんなに不誠実そうに見えるかな……」
ウィリアムが落ち込んだように項垂れる。
「いえ! そういう意味ではなくて…………妹は、客観的に見ても理想の女性だと思うのです。だから……」
「不安になった?」
「有り体に言えば……そう、なりますね……」
「そう……」
口元を手で覆い、何かを考えるように黙り込んでしまったウィリアムを見て、ライラは戦慄する。
とんでもなく失礼なことを言ってしまった気がする。勝手に不安になって冤罪をふっかけてしまったようなものだ。
ウィリアムは怒ってしまっただろうか。そのまま婚約破棄なんてことになったら……。
もういっそ土下座でもした方がいいのだろうか、とライラがおろおろしていると、ウィリアムは急に顔を上げた。
「それって、ヤキモチ?」
「えっ」
「……それとも、ライラがルチア嬢のことを好き過ぎるだけなのかな」
「私がルチアさんのことを? そんなことありえません!」
「本当に? 俺はあんまりルチア嬢のことを理想だとは思わないから、てっきり」
「…………あの子が、理想ではないと言うのですか……?」
ライラは聞き捨てならなかった。
あれほど完璧で、すべてを持っている女が理想ではないと?
それならば、どんな人ならウィリアムのお眼鏡にかなうと言うのだろう。
「いや、待って。誤解だよ。確かに客観的に見ればルチア嬢は理想的過ぎるほど瑕疵のない令嬢だ」
「やっぱり、そうですよね? 私もそう思います」
「……それ素で言ってるの?」
「? 何がですか?」
「自覚がないんだとしたら逆に怖いよ……」
「……?」
首を傾げるライラを見て、ウィリアムは苦笑した。
「……ルチア嬢との縁談が持ち上がらなかったわけではないんだよ。家格も近いし、ライラがこの家に来るまでは、彼女はこの家の一人娘で、彼女が跡取りになる他なかったわけだし、俺は次男で家を継ぐわけではないから侯爵家に婿入りする上では何ら支障はないからね。でも、俺が拒否したんだ。……当時の俺には好きな人がいたからね」
「…………そう、なんですか。それなら、私との縁談はどうして受けてくださったんですか? ……まさか、父が何らかの圧力を……?」
オブライエン侯爵家は、バーンズ公爵家には家格で劣る。しかし、現オブライエン侯爵はとても頭が切れる人物だという評判を、ライラは(主に亡き母から)聞いていた。
何らかの弱みを握って、身分差を差し引いても、無理矢理相手に要求を呑ませるようなことが可能なのかもしれない。
そう思い立ったライラの発言を、ウィリアムは笑って流した。
「そんなわけないじゃない。うちの家は他所に弱みを握られるほど無用心な家じゃないよ」
「で、ですよね。恥ずかしい勘違いをしてすみません。……いや、そうなると尚更どうして私なんかと……?」
ライラは再度聞き返すと、ウィリアムは少しの間俯き、沈黙した。
「……ええと、何と言えばいいかな……」
ウィリアムは歯切れ悪く言葉を探し、やがて、決心したようにライラを見つめる。
その蜂蜜色の瞳がやけに真剣な色を帯びていて、ライラの背に少しだけ緊張が走った。
「あのね、ライラ……」
ウィリアムが何かを言いかけたその時、庭園に高い声が響き渡った。
「ごきげんよう、ウィリアム様、お姉様。私もご一緒してもよろしいですか?」
ライラが振り向くと、ルチアが四阿の入り口でにこにこと微笑んでいた。
「……ルチア、さん……」
「…………やあ、ルチア嬢。……婚約者同士の顔合わせに同席したがるなんて無作法もいいところだと思うのだけれど」
「随分な言い方ですね。お姉様はまだ貴族の作法を学んでいる最中ですので、私が補佐して差し上げられたらと思ったのです。……特にウィリアム様のような殿方と二人きりになるのはあまりに手に余ることでしょうし」
「君が補佐するべきことなんて何もないよ。ライラは充分素敵な淑女だ」
「あら、どうしてお姉様側の問題だと思いましたの? ご自身に何も瑕疵がないとでもお思いなのかしら? 素晴らしい自尊心ですね、感服致します」
「……」
「……」
「……え、えっと、あの、お二人とも……?」
困惑するライラを余所に、ウィリアムとルチアは貼り付けたような笑顔で静かに見つめ合っている。いや、睨み合っているとでも言うべきか。
不意に、ルチアがライラの方へ向き直った。
「お姉様。この際だから申し上げます。私はお姉様とウィリアム様の婚約に反対です」
「ちょっ……!? 急に何を言うの、きみ……!」
遮ろうとするウィリアムの声を無視して、ルチアは続ける。
「お姉様がウィリアム様と結婚しても不幸になるだけですわ。とても釣り合いませんもの」
「っ……」
端的に告げられた言葉に、ライラは息を飲む。
わかっていたはずだ。
この間まで平民だった自分では、半分しか青い血が流れていない自分では、純粋な高位貴族であるウィリアムにはとても釣り合わない。それは自分自身が一番わかっている。
けれど、他でもないルチアにその事実を告げられたことが、ライラはショックだった。
慈しむような笑顔を向けられて、手を握られた。
いくら邪険に扱っても、「お姉様」とライラを慕って追いかけてくる妹。
生まれて初めて出会った、ライラに関心を向けてくれる人。
たったそれだけのことで、自分はルチアに愛されていると思い込んでしまっていたのだ。
ライラが生まれてから母が死ぬまでの間、父は一度も自分に会いに来なかった。
父のことは何度も母から寝物語に聞かされた。曰く、完全無欠の貴公子様だと。父が一度だけ花街にお忍びでやってきた際に、新米娼婦だった母は見初められたのだと言う。
完全無欠。無責任に女を抱いて、子供を産ませて、ずっと放置し続けている男の、どこが?
そんなこと思っても、口にしたりしなかった。一度だけ口にしたら、金切り声で怒鳴られて三日三晩口を利いてもらえなくなったからだ。
母はライラのことを愛していた。正確には、父にそっくりなライラの容姿を、だ。ライラの烏の濡れ羽色の髪も、切れ長の青い瞳も、父ゆずりだ。
母はことあるごとに「お父様にそっくり」とライラのことを褒めたし、幼い頃はライラの髪を短く整え、少年のような格好をさせたがった。ライラが男のように振る舞うと、母は喜んだ。
それはひどく虚しかったし、不健康であることはわかっていたけれど、そうでもしないと母はライラに関心を向けてくれなかったから必死で演じた。
けれど、肉体の成長とともに限界が来た。十四、五歳になる頃には、身体の女性的な膨らみが誤魔化せなくなった。
すると途端に、母はライラへ関心を向けなくなった。それどころか、「男の子だったら良かったのに。それならあの人も私を選んでくれたはずなのに」と、呪詛のように繰り返される譫言が、ライラの心を削った。
結局父も母も、ライラのことなど愛していない。
誰もライラに関心を抱かない。
自分はずっと、ひとりぼっち。
それが当たり前だったはずなのに、ルチアに出会って、夢を見てしまった。愛のある家庭というものに。無条件に自分を愛してくれる誰かの存在に。
それがこのざまだ。
ライラを姉と慕うその笑顔の裏で、結局ルチアはライラの出自を蔑んでいたということだろう。
それは高貴な血筋に生まれついた人であれば当然の感情で、普通に考えればわかるはずのことなのに、ライラは現実から目を背けていた。
調子に乗ってはいけない。身の程は弁えなければいけない。
祝福されなかったライラは、誰かの愛を望むことすら烏滸がましい。
「…………そう、ですよね。私では……」
込み上げてきそうになる涙を堪える。なんとか絞り出した声は少し掠れていた。
「そうですよ! お姉様にはもっと素晴らしい殿方でないと釣り合いません!」
「言われなくても、ちゃんと身の程は弁えていま……え? 今なんと?」
ルチアの口から飛び出した言葉に、ライラは耳を疑った。
「ですから、お姉様にはウィリアム様より素敵な男性が相応しいと言っているのです!」
「? ルチアさん、今すごく失礼なことを言ってません……?」
「めちゃくちゃ失礼なこと言われてるよね、俺」
ルチアの突飛な発言に困惑したライラとウィリアムは二人で顔を見合わせた。
「お姉様はまだ社交場に出た経験がありませんからご存知ないのも無理はありませんが、ウィリアム様は一部の方の間では男色家なのではないかと実しやかに囁かされているのですよ?」
「え」
「は?」
「そんな方とお姉様の婚約を許すなんて、一体お父様は何を考えていらっしゃるのかしら! 私どうしても許せなくて! お姉様には愛のある幸せな結婚をしていただきたいのに!」
「……」
ルチアの言葉を聞いて、ライラは咄嗟にウィリアムの方を見た。
「待って、ライラ。信じないで。その悪魔の戯言を信じないで。その疑いの眼差しは結構精神的にクるよ。……大体、ルチア嬢は何の根拠があって俺が男色家だなんて不名誉極まりない主張をしているわけ?」
取り乱しこそはしないが、ウィリアムはこめかみに青筋を浮かべている。
「事実、ウィリアム様は社交場でも女性との関わりを拒絶していたではありませんか。美しい令嬢を相手にしても社交辞令程度の会話しかしませんし、ダンスを誘われても断り続けている。女嫌いなのは確実でしょう」
黙ってルチアの話を聞いていたライラは、少し意外に思った。顔合わせの時の様子から、ウィリアムはいつも笑顔を絶やさない人だと思っていたが、社交場での彼の評判は少し違うらしい。
「それは……俺にはずっと好きな人がいたからで、その人以外と踊るつもりにならなかっただけだよ」
「……貴方の親友であるリチャード王太子殿下から、数年前に貴方から『婚姻に関する法律を変えられないだろうか』と相談を受けたとも聞いていますが」
「ウワーッ!? 何バラしてんだあの馬鹿殿下!!」
いつになく崩れた口調でウィリアムが叫ぶので、どうやら黒らしいぞ、とライラは内心焦る。
現在の国内法では同性同士の婚姻を認める規定がない。そのため、国に認められた同性同士の婚姻関係を結びたいと望むならば、法律を新しく制定する必要がある。
このまま結婚していたら、自分はどれだけ惨めな気持ちになったのだろう。
「数年前に、貴方がとある黒髪の少年を探し回っていたとの報告もあります。これは貴方の想い人のことでしょう?」
「そ、それは……」
ウィリアムの表情がさらに動揺の色を帯び、口籠った。
「揺るがない証拠を掴んでいるのですよ、こちらは。いいから大人しくお姉様から手を引いてください。お姉様を偽装結婚に利用しようなんて魂胆は断じて許しません。貴方のところに嫁がせるくらいならばお姉様は私が一生養います」
「……ルチアさん……」
「お姉様は私が幸せにしますからね!」
ライラの両手を握り、ルチアはそう宣言した。
意志の強い、大きな蒼い双眸が真っ直ぐにライラを射抜く。
鼻の先がツンとして、喉の奥がじわりと痛む。
ああ、私は馬鹿だ。と、ライラは思った。
ルチアはいつもライラを真っ直ぐに見つめてくれる。
自分より美しくて、賢くて、愛されているルチアに嫉妬していたのも確かだ。けれど、その熱を帯びた視線に、指先のぬくもりに、彼女が向けてくれる関心に、鬱陶しいなんてポーズを取りつつ、いつだってライラは救われていた。
受け入れるのが怖かった。一度その味を知ってしまうと、もう元の自分には戻れない気がして。
愛情なんかいらない。そんなものがなくても生きていけると平気なふりをする、意地っ張りな自分には。
けれど今ようやく確信した。
ライラがずっと欲しかったもの。父にも母にも与えられなかった愛情。それを与えてくれるのは目の前にいる、半分しか血の繋がらない異母妹だ。
それならば、与えてもらってばかりではいけない。自分から手を伸ばさなくては。
「…………もうとっくに、幸せですよ。ルチアさんに出会ってから、ずっと」
ライラが絞り出した言葉に、ルチアは一瞬瞠目してから、頬を紅潮させ、鬱陶しいくらいに瞳を輝かせた。
「……私もっ! 大好きなお姉様の妹になれて、とても幸せです!」
ふわりと、花が咲くように笑ってから、ルチアはライラに抱き着いた。
「わっ……」
飛び付いてきたルチアを受け止めて、ライラは少しよろめく。しばらく逡巡してから、その華奢な背に腕を回して抱き締め返した。
あたたかい、と思った。無条件に愛してくれる存在がいるなんて、この上ない幸福だ。
*
目の前で幸せそうな顔で抱き合う姉妹を見て、最悪だ、とウィリアムは思った。
いや、今まで見たこともないようなライラの幸せそうな顔が見られるのは嬉しい。いつも表情が固いライラの笑顔は、さながら砂漠の中のオアシスのようにウィリアムの渇いた心を潤してくれる。
それでも、欲を言うなら、最初に彼女をそんな笑顔にさせるのは自分でありたかったと、どうしても思ってしまうのだ。
元々、ライラはあまりルチアのことを好きではないと口では言っていたが、その実、彼女の中での異母妹への好感度がそこまで低くはないことくらい、ウィリアムは薄々気付いていた。
けれど、油断していた。
ライラとルチアの仲はあまり良くないと侯爵家の使用人からは聞いていたから、自分こそが誰よりも早くライラと親睦を深めることができる。彼女にとって唯一の特別な存在になれると、思い込んでいた。
ルチアがこんな強引な手段で自分とライラの仲を引き裂きに来るなんて、予想もしてなかったのだ。
昔から、ウィリアムはルチア・オブライエンのことが嫌いだった。いや、苦手だった、と言うべきか。
容姿端麗で頭脳明晰。その癖愛嬌もあり、敵を作らない。一点の瑕疵もない、完全無欠の侯爵令嬢。
まるで物語の主人公のように、世界は彼女を中心に回っていく。
意識的か無意識か知らないが、彼女には人を動かす力がある。誰もが彼女の味方になってしまう。そして物事はすべて彼女にとって都合のいいように進んでいく。
いつの間にかウィリアムの親友であり、将来の仕えるべき相手であるリチャードも、彼女に心を奪われていたらしい。そしてついに彼女の異母姉であり、ウィリアムの最愛であるライラもルチアに陥落した。
自覚があるなら腹黒だし、無自覚でやっているなら尚更気味が悪い。
けれど、今日確信した。
この女、絶対腹黒だ。
ライラに話しかける時だけ、ルチアは少しだけ喋り方が幼くなるのだ。社交場にいるときであれば彼女は絶対にあんな喋り方はしない。「お姉様っ♡」と語尾にハートマークがついているような甘ったるい声は出さない。リチャード相手でも出さない。
カワイコぶってんじゃねぇぞこのシスコン女、とウィリアムは内心悪態をつく。
誰からも好かれながら、これまで誰にも特別な関心を寄せて来なかった博愛主義者のルチアが、初めてライラという存在に執着を見せた。
気持ちはわかる。ライラはそれだけ魅力的な存在なのだから。
けれど、ルチアという女は敵に回すにはどうにも恐ろしい。
こうしちゃいられない。反撃に出なくては。
ライラを一番愛しているのは自分だと、証明しなくては!
「……ねぇ、ライラ」
名前を呼ばれて、ライラはようやく意識をウィリアムに向けた。自分に向けられていた姉の関心が奪われたのが気に食わないのか、不機嫌そうにルチアが一瞬眉を顰める。
「俺の好きな人は、ライラ――君だよ。六年前、君に手を引いてもらったあの日から、ずっと」
「……ろくねん、まえ?」
ライラはほんのり頬を染めてから、首を傾げた。
「俺は六年前――十二歳の時に、君に出会っている。……君がまだライルと名乗っていた頃の話だけど」
「……な、んで、その名前を……」
ウィリアムが口にした名前に、ライラが目を見開く。
「六年前、お忍びで市街に遊びに来て、スラムに迷い込んで途方に暮れていた俺の手を引いてくれたのが君だった」
普段着ている服よりも幾段かグレードを下げたものを着ているつもりだったが、それでも金持ちの子供であることは見抜かれてしまっていたらしい。破落戸に囲まれ、金目の物を寄越せと脅され、怯え縮こまっていたウィリアムの前に現れたのが、黒髪の少年だった。
『子供に寄って集って何してる。恥を知れ』
破落戸共をそう一喝して、それでも食い下がる輩はこてんぱんに叩きのめし、追い返してくれた。
『怪我はない? こんな場所に良いところのお坊ちゃんが一人で来るのは危ないよ。大通りまで連れて行ってあげる』
そう言ってウィリアムの手を引いてくれた、あまりに美しく、心優しい、勇気のある少年。彼は自身の親切な行いの対価を、ウィリアムに対して何も要求しなかった。
まだ子供とはいえ、権謀渦巻く貴族社会に生きるウィリアムにとって、彼のように無償の慈愛を他者に与える人間の存在はあまりに衝撃的で、新鮮で、ウィリアムはすぐに彼のことで頭がいっぱいになった。
別れ際に名前を聞くと、彼は名乗るほどのことはしていない、と首を振った。そんな謙虚なところも素敵だと思った。どうしてもとしつこくせがんで、ついに折れた彼は躊躇いがちにライルと名乗ってくれた。
ウィリアムは家に戻ってから、すぐに小間使いにライルという名前の少年のことを調べさせた。
彼を従者として、あるいは一使用人としてでもいいから屋敷に迎え入れ、そばに置きたかった。けれどその前に、彼の家庭環境やその他諸々の事情を把握しておく必要がある。
調査の結果、彼が本当は彼女であって、ライラという名前の同い年の少女だとすぐにわかった。
彼、もとい彼女はウィリアムよりも背が高かったから、てっきり歳上だと思っていたのだが、確かに十二、三歳では女性の方が男性よりも成長が早く、身長が高い場合も多い。
同時に、それはウィリアムの恋の始まりでもあった。
人間とは単純なもので、自分に優しくしてくれた異性に惹かれるのは当然の摂理だ。
何よりも、自分だってお世辞にも良い生活をしているとは言えないスラム街の住人であるのに、他者を思いやれる高潔な精神を保っている彼女の生き様は、今まで出会ったどんな人間よりも気高く、美しく思えた。
ライラと結婚したい。そんな願望がウィリアムの中に生まれた。彼女が伴侶として隣で微笑んでくれるなら、それだけで何でも出来そうな気がした。
身元調査を続けるに当たって、つい最近、ライラの母が最後に取った客として現オブライエン侯爵の存在が明るみになったのは、ウィリアムにとっては僥倖だった。髪色、瞳の色からしても、ライラがオブライエン侯爵の血を継ぐ娘である可能性は限りなく高い。
ウィリアムがライラという娘の存在を仄めかす手紙を匿名で侯爵家に送ると、ライラの母の死後、ウィリアムの目論見通りライラは侯爵家に引き取られ、貴族籍を得た。
「……婚姻に関する法律を変えたいと思ったのは、現状の法制度では貴族と平民の結婚が禁じられているからだ。だから何とか改正出来ないか殿下に掛け合っていた。ライラがオブライエン侯爵家に引き取られてからは、もう俺には必要がない話だけど……とにかく、俺が男色家だとかそういう事実は一切ないから。お願いだから、誤解しないで」
ウィリアムが一通り話し終えると、ルチアは神妙な顔でライラに問い掛ける。
「お姉様、今の話は……ライルと名乗って男装していたというのは事実なのですか……?」
ライラはぎこちない動きで頷く。
「…………事実、です。13歳になるまでは、その……母の意向で、男装して生活していました」
「っ、そうなのですね……」
ルチアが痛ましそうな顔をしつつ、「それはさぞかし美しい男装の麗人だったのでしょうね……」と噛み締めるような小声で呟いたのを、ウィリアムは聞き逃さなかった。紛うことなきシスコンだ。
「お姉様がウィリアム様と出会っていた、というのも事実でしょうか?」
「……正直に言うと、あまり覚えていないです。ただ……恥ずかしいことに、男装していた間は『自分の思う理想の男性像』を演じていた節はあるので、人助けはそれなりに……その相手の一人にウィリアム様がいたというのもありえなくはない話だと思います……」
理想の男性像を演じていたのは、母の関心を得るためだ。結局、母の愛なんて欠片も得られなかったけれど。
消し去りたい、浅ましい己の過去の記憶を掘り起こし、顔を真っ青にして俯くライラの手を、ルチアが握る。
「どんな理由であろうと人助けは素晴らしいことですわ! さすがお姉様です!」
ルチアの全力の肯定に、ライラの顔色は少しだけ赤みを増す。
「ちょっと。俺を出汁にしてライラとイチャつくのやめてもらえるかな、ルチア嬢。彼女は俺の婚約者だ」
「あら、まだいましたのストーカーさん」
「……本当にいい性格してるよね。人の一世一代の告白を妨害してくれちゃってさぁ……」
「ようやく納得しましたわ。お姉様が我が家に来たばかりの時に貴方が強引に婚約話を捩じ込んできた理由に。数年越しのストーカーだったなんて気持ち悪過ぎて怖気がします」
「言うに事欠いてそれか? 完璧令嬢の皮を被ってはいるけどとんだ性悪だね。俺の方がずっと前からライラのことを愛していたんだから、大人しく身を引いてくれないかな? お邪魔虫な妹さん」
「六年前から好きだったからって何だって言うんです? 愛に年数は関係ないでしょう。私の方がお姉様のことを愛していますし」
「……は? 聞き捨てならないな、その言葉。俺の方がライラを愛しているに決まってるだろう」
「……」
「……」
またしても、ウィリアムとルチアは静かに睨み合う。
そんな二人の剣幕を前にして、ライラは困惑、もとい混乱していた。
六年前からウィリアムが自分のことを好きでいてくれた。そもそも男装時代の自分のことをウィリアムが知っていたという事実に、ライラはひどく動揺していた。
高潔だ、とウィリアムはライルだった自分のことを称してくれた。嬉しい。と思うと同時に、罪悪感で消えてしまいたくなる。
高潔じゃない。気高くもない。本当はただ、母の愛が欲しかっただけ。ライラは愛を乞うために必死に道化を演じる、惨めな子供だったのだ。
「…………ちがうんです……」
「? ライラ……?」
「お姉様?」
思わず呟いたライラを見て、ウィリアムとルチアは首を傾げる。
「私は……本当はそんなに優しくもないし、気高くもないんです。所詮は娼婦の娘で、紛い物なんです。ただ、人の顔色を覗ってばかりの……母の愛を乞うばかりの、卑しい人間です。ウィリアム様に……そして、ルチアさんにも、本当は愛してもらう資格など持ち合わせていません……っ……」
堰を切ったように懺悔の言葉が溢れ、ぽろりと、涙が頬を伝う。ライラなど、とてもウィリアムとルチアに釣り合わない。
「……お姉様、そんなこと……」
泣きじゃくるライラに駆け寄ろうとしたルチアを、ウィリアムは手で制す。
「ライラ」
ウィリアムがライラの名を呼ぶ。この声が普段より固く、ライラは肩を震わせた。怒らせてしまったかもしれない。呆れられてしまったかもしれない。そう思ってきつく目を閉じると、不意にライラの身体があたたかいものに包まれる。
「…………え………………?」
ウィリアムに、抱き締められている。
ぶわり、と顔中に熱が回って、心臓が今までにないほどの早鐘を打つ。今まで幾度となく顔合わせをしてきたが、こうして直接スキンシップをとってもらったことなど、一度もない。
ライラの背後でルチアが「あっ!」と悲痛な声を上げたが、ウィリアムは構いやしなかった。ファーストハグは先に妹に奪われたのだから、これくらいは婚約者として許していただきたい。
「……う、ウィリアムさま……」
「ライラ。俺、怒ってるよ」
怒っている。そう断言されて、ライラは怯む。
「俺の大切なライラを貶めるなんて、ライラでも許せない」
ウィリアムの言葉に、はたと、ライラの涙が止まった。
「娼婦の娘だとか、紛い物だとか、どうしてそんなに自分を卑下するの。俺は君のことがこんなに好きなのに、君が君自身を嫌っているのは悲しいよ」
「……ち、がいます。ウィリアム様は思い出の中のライルを過剰に美化しているだけで、本当の私は……」
「違わない。……君は自分のことを母の愛を乞うばかりなんて言うけれど、六年前のあの場に、君の母君はいなかったじゃないか。本当に卑しい人間だとしたら、媚びを売る相手がいない場であんな風に良い人間を演じたりしないよ」
「……それは、普段からそういう風に演じていたから……」
「偶々咄嗟に体が動いただけの偽善に過ぎないって? 参ったな。君って、卑屈な上になかなか頑固だ」
それは謙虚を通り越して傲慢だよ、とウィリアムは笑う。けれど、そういうところも含めてウィリアムはライラを好きになってしまっているから、仕方がない。
「いいよ。百歩譲って、あれは偽善だった。不本意だけど、今は君の顔を立てて、そういうことにしてあげる。……でもね、その偽善に救われた人間がここにいるってことを、覚えておいて」
そこまで言って、ウィリアムはライラを抱き締めていた腕を少し緩めて、ライラの顔を見た。
こちらを見下ろすその瞳が、あまりに真摯で優しい熱を帯びていて、ライラは言葉に詰まる。
ウィリアムの言葉は、ライラの心にすとんと落ちてきて、長い年月をかけて複雑に絡まり、凝り固まっていたライラの自己嫌悪を、少しずつ丁寧に、蝶や花を愛でるように丁重に、解きほぐしてくれる。
「…………いいんでしょうか。私が、ウィリアム様の愛を望んでも」
ふと、ライラは呟く。ほとんど独り言に近い、か細い言葉を、ウィリアムは聞き逃さなかった。
「いいんだよ。まずは俺の愛を受け取ることに慣れてくれれば。ゆくゆくは君が君自身を愛せるようになって…………あわよくば、君にも俺のことを愛してもらえたら、なんて」
気が早いかな、あはは! なんて、ウィリアムは照れ隠しで大袈裟に笑う。
ウィリアムの余裕のない表情を、ライラは初めて見た気がする。
ライラと同い年であるはずなのに、卑屈なライラに付き合って、歩み寄ってくれようとする、あたたかい人。
ライラのくだらない話を、いつも楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれる、優しい人。
あわよくば、なんて。
「…………そんなの、もうとっくに……」
自覚した途端、また顔が熱くなって、胸の鼓動が早くなる。
まともに顔を見るのも恥ずかしくて、ライラは思わずウィリアムから顔を背けた。
「えっ……ライラ?」
「こっち見ないでください!」
「どうして!?」
突然の拒絶を受けたウィリアムは目を剥いて悲痛な声を上げるが、ライラはパニックになってルチアの背後に回る。
「ルチアさんっ! たすけてください!」
「なんでルチア嬢の後ろに隠れるのライラ!?」
「あら〜やっぱりウィリアム様はお姉様に嫌われてしまったんじゃないですかね? ストーカーですし」
「なんだと!」
違います、違うんですけどその……とモゴモゴ言いながら真っ赤になって隠れるライラを背に庇いつつ、お姉様は可愛いなぁと思いながら、ルチアはウィリアムに毒づく。ウィリアムが抗議するが気にしない。
人が恋に落ちる瞬間を、見てしまった。
それが姉の恋に落ちる瞬間なのだから、ルチアは面白くない。
別に、姉に恋愛感情を覚えているわけではないのだ。
ただ、姉妹というものに憧れていただけ。損得勘定なしに、友人よりも更に近しい距離で、礼節も作法も気にせず一緒にはしゃげる相手。
実際に、ライラはルチアがどれだけ我儘を言っても「仕方ないなぁ」と笑って許してくれるから、初めて出来た姉妹にのぼせ上がったルチアの突飛な提案もすべて受け入れてくれるから、打算も見返りもなしに甘えさせてくれるから、ルチアは異母姉のことが大好きになった。
姉と過ごす時間だけが、ルチアに貴族社会で生きる煩わしさや息苦しさを忘れさせてくれた。
姉は妾の子であるという自分の立場をひどく気にしていて、本妻であるルチアの母とルチアの立場を脅かさないように、面子を潰さないように、常に気を遣いながらこの家で暮らしてきたことを、ルチアはよく知っている。使用人に冷たく当たられても、舐めた口を利かれたとしても文句一つ言わず、一人でじっと苦痛と孤独に耐えていたことを、知っている。
そんな健気な、気遣い屋の姉だから、たとえ彼女が父の裏切りの紛れもない証拠だったとしても、とても恨む気にはなれなかった。自己肯定感の異様な低さから鑑みるに、今までお世辞にも幸福な生活を送ってこなかったことくらい容易に想像できたのだから、尚更だ。
ライラには幸せになって欲しいから、一人で貴族社会を渡り歩いていける力を身に着けるまでは手元で大切に守ってやるつもりだった。けれど、いつかライラを心から愛してくれる男が現れて、男にライラを苦労させないだけの甲斐性があって、ライラもその男を愛するようになったなら、手放してやるのが道理だろう。
そういう男が想定していたよりもずっと早く現れたのは誤算だったが。
いいだろう、ウィリアム・バーンズ。姉の婚約者として、認めてやらないこともない。
けれど長い年月をかけて培われた姉の自己肯定感の低さは、一朝一夕で解消できるものではなく、なおかつ恋愛初心者な姉は自覚した己の恋心を素直に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。
それまではまだ、貴方なんかに譲ってあげない。
未来の姉夫婦の間で、ルチアはほくそ笑んだ。
ご覧いただきありがとうございました。誤字脱字等ありましたら教えていただけると助かります。
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