後編
迂闊だった、と言えばそれまでだけど、避けるのが難しかった。というか避けられなかった。
電車から降りた瞬間。駅のホームに出て、足元に二メートル四方くらいの黒いやつ——ええと、病的なんとかギャップ——が現れた。
気づいたときは、一歩踏み出していた。でも、これまでも他の人たちは平気でその上を歩いている。モトコは気を付けろと言っていたけど、自分だけそこへ落ちるなんて、馬鹿げていると思っていた。
「あ!? え……」
目の前が真っ暗になり、ひたすら、落下する感覚だけだった。
「うそだぁ」
単純に、落ちた、ということは理解できた。
見上げても真っ暗、周囲も真っ暗闇。だけど不思議なことに、自分の身体はちゃんと見えていた。変な感じで、自分自身が光っているわけでもなかった。次第に、落下しているのか真っ暗な空間に浮かんでいるだけなのか、わけが分からなくなった。
それから、いつのまにか横にモトコが立っていた。
「気を付けなさい、って言ったでしょう」
モトコは地面があるかのように、その場にしっかりと構えて立っていた。
「ここなんなの? どうなってるの?」
「分かるでしょ。位相ギャップの内側よ。ねえ、いつまで浮かんでいるつもりなの?」
「え、だって、これどうなってるの」
「気合を入れなさい。シャキッと構えるの」
それで言われたように、集中してみたら自然と体が直立して、普段みたいに地面に立っている状態になった。
「それで、ヒカリは落ちたわけね」
「いや、だって、いきなり目の前に現れたら避けられないって。他の人は平気なのに」
「見えてない人は平気に決まっているわ」
「なにそれ」
「そのままの意味よ。見えていない人たちにとっては存在しないの。でも、私たちには見えているのだから存在するのよ」
「なにそれ、哲学みたいな、見えていない物は存在しないみたいなの」
「物理の話は苦手なのに、妙なことは知ってるのね」
モトコはあきれたようすだった。「それと、それが話題になったのは古典量子力学のときよ。まあ哲学じみてるとは思うけど」
それで僕の手をとると「とりあえず、ここから出ましょう」と言って、引きずるようにして進みだし、語るように続けた。
「病的な空間位相ギャップの中は、この世界のオカルト的表現を用いれば、次元の裂け目とか、異空間とか、そんな感じ。より厳密には……いえ、この世界の言葉だとなんとも言えないわね。表現するための単語が存在しないから。重なっている空間同士の隙間、みたいな感じなんだけど」
「重なってる?」
「宇宙は三次元よりも高次元で構成されているから、空間は重ねることができるのよ」
「それが、よく分かんないんだけど……」
「簡単な話よ。例えば、三次元空間において、二次元平面は交差させることも、ぴったり重ねることもできるでしょ? つまり四次元空間なら、三次元立体を重ねることが可能ということよ。といっても、観測しようとすれば、とても大変なんだけど」
やっぱり、言ってることが理解できない。僕の感覚では、控えめにも、頭がおかしいんじゃないかと思える。でも、わけの分からない空間にいるのは確かだし……なんか、どうにでもなれという感じだ。
「さっきも言ったけど、空間を重ねるといっても、より厳密にはズレや隙間が生じるのよ。普通は見えたりしないけど。とにかく、ここがそうなの」
もう一度、周囲をちゃんと見渡した。それで、思わず息を飲んだ。
真っ暗闇だと思っていたのに、そうじゃなかった。なんというか、たぶん、なんとも形容しがたい、という表現をするべきなんだろうなという光景が広がっていた。
なんとなく、写真のネガみたいに世界の陰影が反転していて、それが上下左右に、合わせ鏡のような景色が、無限に連なっているような感じだった。そして、それは全部が動いていた。
唐突に気分が悪くなった。これは、たぶん、見てはいけないモノなんだ……そんな感じがして、目眩が——
気が付くと、かすかに木々と土の匂いを感じた。起き上がると、見知らぬ神社の境内にいるのが分かった。
「やっと気が付いたわね」
振り返って見ると、モトコは建物の柱に寄りかかって立っていた。
「ヒカリったら、いきなり失神してしまうから、ちょっと慌てたわ。それで、ここはどこなの?」
その質問、するのは僕のほうじゃないのかと思ったけど、言い返さずに、あらためて周囲を見渡した。
木々に囲まれている小さい神社。
「この世界は面白いわね。」モトコはつぶやくように言った。「例えば神社とかなんだけど、病的な空間ギャップの分布と一致してることが多いのよね」
「ふーん」
それから僕はあらためて周囲を見渡した。
小高い場所で、石階段の下るほうには町が見えた。田舎というより郊外という感じだ。そして、既視感があった。子どものころの記憶が湧いてきた。
「ここ、知ってる。子どもの頃によく遊んでたところだよ」
「それは良かったわ。じゃあ、帰り道は案内してちょうだい」
「モトコは、スマホとか持ってないの?」
「ご生憎様ね。私にはあんなもの必要ないわ」
「なんで?」
「スマホは人間の精神を腐食させるからよ」
「は?」
「たんなる言葉のアヤ。使い方次第ってことね」
モトコの発言は、やっぱり突飛なものばかりで、僕の頭のなかには?が浮かぶばかりだ。
とりあえず神社を出て、駅へ向かい、帰りの方面の電車に乗り込んだ。
電車が出発するとともに、モトコはまた話しだした。
「ここの地球は、私が見てきた中でも最も酷いところよ。常に失敗の連続、まるで間違った歴史の総集編ね。はっきり言って無目的な社会体制。世間は乱雑でとりとめがないし、論理的思考と利他的行動の欠如がみられる。バカみたいに振舞う、現実を直視しない楽観主義の呑気な集団ばかり。この調子だと問題を片付ける前に文明が滅びそうだわ。でも……でも、なんとなく居心地よく感じるときもあるわね。ぬるま湯みたいな世界って、このことよ」
たぶん、モトコはこの世界をバカにしているのだろうけど、話のスケールが大きすぎてピンと来ないし、そもそも、なんというか、それは日常というか当たり前のことで、なにか問題があるのか不思議な感じもした。
「あの、モトコのことも少し聞かせてくれない?」
「え?」
なんとなく聞いただけだけど、モトコは意外そうな顔を見せた。
「いや、話したくないならいいけど、だって、物理だとかそういうの、難しすぎて理解がつかないからさ。自分で言うのもなんだけど、頭悪いし、留年してるし」
「そうかしら? 頭の良し悪しは意外と簡単には測れないものだと思うけど」
「モトコは、ほんとうに違う地球から来たの?」
「そうよ。この世界の言い方を借りれば、並行世界から来たってわけね」
彼女は一瞬笑みを浮かべてから続けた。「もともと住んでいた地球では、私は研究者だったのよ。下級研究員だけど」
「研究者? すごいね」
「大したことないわ。下っ端というか末端というか。まあ、この地球の平均レベルからすれば、優秀かもしれないけど」
「でも、研究者なんだよね?」
「私がいた地球では、人類の七割くらいが、なにかしらの研究業に従事していたの。トップクラスの研究者なんか、ここの地球の全英知をかけても、到底敵わないでしょう」
「へえ……研究者ばかりの世界」
「言っとくけど、この地球には真似できないわよ。まず人口過剰で、資源の奪い合いをしている時点で、いろいろと詰んでるわ」
「それで、どんな研究をしていたの?」
「空間構成理論に関する基礎研究。まあ、あまり日の目をみない研究ね。もちろん、この地球ではまったく未発達の分野よ」
「ところで、どうしてモトコは違う地球に住んるのに、どうしてこの地球に来たの?」
「別に、ここだけには限らないわ」
「どういうこと?」
「沢山ある、ということ。でも、私の暮らしていた地球には戻れない」
「なんで?」
「もう、たぶん存在しないから」
「え? どういうこと?」
「不完全な理論を用いた実験による副次的結果。つまり、実験失敗で惑星が吹き飛んだ、あるいは消えたということね」
惑星が消えた? 突飛だ。僕の想像を超える話。
「そんな、でも、だって頭のいい人たちばかりなのに、誰も気がつかなかったの?」
「どこの地球でも、人類の歴史というのはトライアンドエラーの集積よ」
「でも……」
「私のいた地球では、最後のエラーが取り返しのつかないくらい、大きかっただけ」
なんだか、聞くべきでないことを聞いてしまった気がする。でも、モトコはそんなに気にしていない感じだった。
「そのことに早く気が付いていたから、私は逃げ出したけれど。どうせ戻れるとしても戻る気なんてないわ」
モトコは大げさに伸びをして続けた。「ヒカリ、あなたはいろいろと素質があるわ。私と一緒に冒険に出ない?」
「え?」
「並行宇宙を渡り歩くの。この世界のドラマで例えるなら……そうね、『ドクター・フー』みたいな感じかしら」
「なにそれ?」
「知らないの? まあいいわ。どうする?」
「でも、そんなの、すぐには決められない。課題提出は残ってるし、もうじき期末試験もあるのに」
「真面目ね」
モトコはあきれたようにため息をついた。「そんな悠長な時間ないわよ。まあ、少しくらいは考える時間が必要でしょうけど。私は移動しなきゃいけないから」
「移動?」
「とにかく、人生は決断の連続よ。一つ一つに時間をかけていたら、知らないうちに人生が終わっちゃうわ」
***
正直なところ、僕は自分の中ではっきりと結論が出せなかった。それで、モトコの誘いは断った。
「そうなの」
モトコは残念そうにつぶやいた。一瞬、とても寂しそうな表情が見えたような気もした。
「明日にでも、この世界が滅ぶとしても?」
「え? それって……どいうこと?」
「冗談よ」
彼女は笑って答えた。「ここの人類はアホばかりだけど、そんな簡単に滅びはしないわ。でも、ヒカリが冒険に興味がなくて、ここで平凡に暮らしたいなら、それもいいわ。じゃあ、さようならね。永遠に」
「ほんとうに?」
「そうよ。でもヒカリ、自分の人生を過ごしなさい!」
ほんのわずかの、迷いがなかったわけじゃなかった。でも、「やっぱり行くよ」という言葉は言い出せなかった。
「うん、さようなら」
***
それからというもの、雑なポリゴンみたいなやつとか、世界の裏面みたいなところへ繋がる、病的な空間位相ギャップとやらも見ることはなくなった。
なぜか、図書館でモトコが見せてきた、あのタブレットみたいなやつのことを思い出した。どんな仕掛けの機械かしらないけれど、もしかして、それがなにか関係あったのだろうか?
ほんとうに何者だったんだろう? でも、彼女はもういない。
「僕も、研究者とか目指してみようかな……」
ぼそりと呟いてみても、なにかが変わるわけでもなかった。
でもなんだか、小さくてもいいから、人生で輝くものを手にしないといけないような気がした。