前編
僕の名前はヒカリ。
由来は新幹線からだとか。父はそこそこ鉄道マニアだったらしい。それから、輝くような存在であってほしい、という願いもあるとかなんとか……まあ、そんなことはどうでもいいね。
それで、今は大学生なんだけど、いわゆる、俗にいうFランってレベルかな。まあ、胸を張って言えることじゃない。それに留年もしている。
友だちとか、人付き合いも多いほうじゃない。最近は、大学と下宿のアパートの狭い部屋とバイト先と、その三カ所を行ったり来たりするだけの日々。あんまり不満は感じていないけど、満足でもない。
はっきり言ってしまえば、そもそも自分自身の人生に対して怠惰で無気力。この人生、ぜんぜん輝いてない感じ。だけど、それなりの理由があった。
人間が見ている世界というのは、いわば究極的な仮想現実みたいなものだろうと思っている。
僕たちが“現実だ”と思っている認識は結局、この自分たちの脳みその中で再現されているだけ、ということ。勉強は得意じゃないけど、たまたま読んだ脳科学の本かなんかで知った。たぶん、そういう理解で合ってるはず。ありのままの現実を見ているわけではないし、ほんとうに現実が現実であるかどうかを確かめるすべはないのだと思う。
どのみち、現実というものが非自然的なものであろうことを知っている。なぜなら、この世界のバグみたいな存在が、はっきりと見えるから。
それは、あまりにもあからさまだ。
解像度がいまいちのゲームみたいな、ポリゴンというか、円柱とか四角とか三角を組み合わせたみたいな感じの、雑な形状のなにかが転がっていたりする。たいてい、日常で見かけるもの……空き缶とかゴミとかだったりとか、そんな感じのもばかり。
ただ酷いものだと、真っ黒な四角形、たまに丸とか三角とかも、穴みたいなのが地面や壁に見えるときがある。それだけは、なんかゾッとする。
でも、ほとんどの人というか、たぶん僕以外の全員かもしれないけど、そのことに気づいている感じはない。まあ、見えていたら大騒ぎだろうけど。
それに見えるといっても、四六時中というわけでも、たくさんあるというわけでもなかった。
いずれにしても、現実と思ってるものが、実はそうではないかもしれない人生なんて、誰が本気で取り組むだろうか……。
いつ頃からだっけ? 数年前? 最初は戸惑ったけど、今は慣れた。それに、ちょっと視線を動かせば元に戻る。なにごともなかったように修正完了。他人に見せるとか、なにか証明してみせることもできなかった。
だいたいそれで、なにか困ることも特になかった。でも、この考えは間違っていたみたいだ。
***
大学からの帰り道。アパートに向かう、見慣れた人通りの少ない道を歩いているときだった。
道に大きな穴——きれいな四角形で明らかに不自然だ——があった。それに、やっぱり僕だけが見えているようだ。車とか他の人は、普通にその上を通過していく。
特に害は無いものなんだと思う。だけど、なんとなくというか、本能的とでもいうのか、その上を歩きたいと思ったことはないし、これまでも避けてきた。
それで、近くで覗き込んでみても、中になにか見えるわけではない。いつだかネットで話題になったベンタブラックとかペタンブラックだか、そんなふうな名前の、めっちゃ黒いという塗料を地面に塗ったら、こんな感じなのだろうか?
じーっと、その黒いところを見つめる。この姿を他人が傍からみれば、なにもない地面を凝視してる変な奴、と思われるだろう。
でも今回は、なんとなく好奇心が湧いて、触ってみようかと、さらにかがんで手を伸ばした。
「気をつけなさい!」
唐突な女性の声に、僕は顔を上げた。
少し離れたところに立っている人物と、視線が合った。僕と同じくらいの歳っぽい。なんとなく険しい感じの表情で、こっちを見ていた。
「それには近づかない方がいいわ」
「え?」
それで、なんて答えようか迷っているあいだに、その女性はくるりと向きを変えて足早に行ってしまった。
それから、また地面に視線を向けたけど、このやり取りの間にアスファルトの地面はなにごともなかったみたいに、穴は消えていた。
なんだか変な気分だ。いわゆる、キツネに包まれたような、という表現はこういうことなのか。ただ、声をかけてきた女性が、キツネとは思えないけど。
単純に考えれば、彼女も同じものが見えていたということだろう。まあ、僕以外にも見えるという人が、世界に一人や二人いても不思議ではないのかもしれないけど。
でもどうして、わざわざ声をかけたのだろうか?
***
けど意外にも、早々に再開することになった。大学構内の食堂で、彼女のほうから声をかけてきた。
「こんにちは。」
その口調は、良く言えば気さくな感じだけど、ちょっと馴れ馴れしい感じもした。席には座らず、テーブルの横に立ったままで続けた。
「同じ大学にいるなんて、思いもしなかったわ。これは本当のことよ」
妙に落ち着いているような感じだ。それで、なんと返事をすべきか、すぐに言葉が思い浮かばなかった。
「前回は、いきなり声をかけてごめんなさいね。驚かせちゃったかしら?」
「いえ、ええと、ところであなたは、その……あれが見えるの?」
「そうよ。でも、詳細な話をするのは次回にしましょう。今日は挨拶だけね」
彼女はそれだけで、足早に出口のほうへ向かってしまった。
「あ、ちょっと」
呼び止めようとしたけど、彼女は軽く手を振って食堂から出ていった。またしても、彼女の去っていく姿を、ただただ、見つめるしかできなかった。周囲は僕らのことを、さして気にも留めていない感じだ。
途中の食事に視線を戻す。どうせ同じ大学に通っているなら、彼女が言ったように、また会うことになるのだろう。
彼女の見た目というか雰囲気は、いたって普通の感じだった。とりわけ美人でもなければ不細工というわけでもない。ちょっと言葉が悪い表現だけど、平均的というのだろう。
***
図書館にいる人は少なかった。
留年しているといっても、普段から暇というわけではなかった。バイトはあるし、受けられる講義には出るし、こうして提出課題にも取り組む。留年はしても、中退はしたくなかった。でもたまには、図書館でボーっとして過ごすこともあった。本の独特の香りに包まれるのは嫌いじゃない。
それで、課題が半分ほど終わったころ、彼女が再び会いに来たわけだった。
「レポートに取り組んでいるなんて、あなた真面目ね」
「でも、進捗は良くないです」
彼女はテーブルにカバンを置いて、向かい合わせで席に座った。
「あなた、見えるのよね?」
「そうだけど……あなたは、何者なんですか?」
「まあまあ、焦らないこと。物事には順序があるの。そんな調子だと女性にモテないわ」
唐突な言い草に、なにも言い返せなった。
「物事には順序があるのよ、なにごとも」
「わ、わかりました」
「でも、そんなにかしこまらなくてもいいわ。気楽にいきましょう」
「あ、え、はい」
「とにかく自己紹介しないとね。私の名前? #9109383‐ζ‐167Wよ」
「は?」唐突な言葉に不意打ちをくらった。
「ごめん、ちょっとした冗談」
彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「でも、別ヴァージョンの地球での名前なのは事実。それで、今ここでの名前はモトコよ。モ・ト・コ。よろしくね。あなたは?」
「あ、えっと、僕はヒカリ」
「ヒカリね。いい名前だと思うわ」
自分の名前を、いい名前だと言われたのは初めてだった。
だけど、わけがわからない。モトコは、名前と称して番号やら記号みたいなことを口にしたと思ったら、別の地球がどうこうとか。もしかして……俗にいう電波系とかなんとかいう人なのだろうか? だとしたら、ああ、なにか面倒くさいことに巻き込まれてしまった。
「私のこと、変人とか面倒くさい人と思った?」
「えっ!? いや、まあ別に」察したような直球の質問にはドキッとする。
「いいのよ。別に気にもしないわ。ここの社会は滑稽だから」
モトコはため息とも笑いともつかない吐息をもらした。「それでヒカリは、いろいろと質問したいことがあるわけでしょ?」
なんだか、自分の手の内を知られているような感じだ。
「えっと、やっぱり、この世界は仮想現実かなにかなの?」
「ふーん」
モトコは一人で納得したような表情になった。「ヒカリは、そういう認識でいるのね」
「どういうこと?」
「間違っているということ」
「じゃあ、あの黒い穴は?」
「私は“病的な空間位相ギャップ”って呼んでるわ」
「びょ、病的? 空間、位相ギャップ?」なんだか中二病じみたワードだ。
「病的な空間位相ギャップ。だからといって、空間が病気なわけないわよ。意味のある数学的表現だからね」
「そ、そうなんだ」どのみち、意味はわからない。
「じゃあ、それで、そのギャップってなんなの? ゲームのバグみたいなもの?」
「そうね、バグというより、高次空間における場の干渉、というのが適切な表現かしら。ここでの“場”っていうのは、物理的な意味よ。それは分かるわよね?」
「ええっと、それって……」
「磁場とか電磁場とか、これは理解できるでしょ?」
「あ、はい」
「つまり、そう言うことよ」
なんというか、説明になってない気もするけど、たぶん詳しく説明されたところで、理解できないんだろうとも思う。
「なんとなく想像できれば十分よ。厳密さが絶対の数学と違って、物理は抽象的イメージも大事だから」
モトコはカバンからノートを出してなにか書きはじめた。「どっちにしても、宇宙がシミュレーションによって意図的に作られたものかどうかなんて、その問いかけは間違ってるわ。無意味よ」
「どういうこと?」
「本質的じゃないから。誰も、自分自身で自分が生まれた理由を問いかけてもしょうがないでしょ? だって、“既に存在している”のだから。この宇宙は、全てが数学的に記述可能な物理法則に従っている。確率も含めてね。仮にシミュレーション世界だったとして、それはプログラムに従うだけ。そこになにか、本質的な違いがあるのかしら?」
「うーん……」
そう言われても、なにがどう違うのかわからない。
「まあ、ここの地球は理論だけでなくて倫理だって未熟だから、しょうがないわね。気にすることはないわ」
「でも、それはそうとして、その、どうして僕には見えるの?」
「そんな理由、私は知らないわよ。おそらくだけど、“感性”が違うからじゃないかしら。まあ、この地球では霊感だとか第六感とか、非科学的な表現になるのでしょうけど」
それからノートのページを見せてきた。
矢印が三本、数学のグラフみたいに、xとyとzが(0,0)の基点から出ている図だった。
「これは分かるでしょ?」
「う、うん」
それから、モトコはグラフの基点からもう一本、あらぬ方向へ矢印を描いて、wと書いた。
「これが四次元の空間軸」
「へぇ」
「厳密ではない表記だけど」
「でも、四次元って時間じゃないの?」
「基本的には違うわ。もちろん定義によるけど、この世界は物理的な話とごっちゃにして考える人が多いのよね。時間軸tは別物」
続けてグラフの横に同じグラフを描いて、その下に長い横線矢印を描いた。そこには時間軸tと書かれた。
「時間はこういうイメージ。より正確には、この描き方にも語弊があるのだけれど。それで空間位相ギャップというのは、並行して重複している空間同士の……」
モトコはこっちを一瞬見てから、話すのを止めた。たぶん、困惑しているだろう僕の表情を読み取ったに違いない。
「とりあえず、説明はここまでくらいにしときましょう」
どのみち、全部聞いたところで、ちゃんと理解できるとは思えなかった。
「ところでモトコは、その、違う地球から来たって言うけど、どうやってなの?」
「これを使ってるのよ」
またカバンから、なにか取り出した。ノートくらいの大きさで、灰色のタブレット端末みたいな感じのものだった。
「二、三人までなら、これで“移動する”のは簡単。触ってもいいわよ。私以外には操作できないから」
それはパネルもなにもなくて、エッジの丸い、ただの板みたいだった。金属のようにひんやりとしていて、固かったけど、まるで発泡スチロールみたいに軽かった。