前編
隣国で起きた醜聞は耳にしていた。
貴族の子女を集めた学び舎での出来事に隣国に激震が走ったらしい。
とある令嬢を高位貴族の令息達が、文字通り溺愛し、婚約者達を蔑ろにし、挙げ句の果てには家長の許可なく婚約を破棄したのだそうだ。由々しき事態である。
どうでも良い事ではあるが、隣国も我が国も法で一夫一妻と決められており、貴族としての義務を果たしてから恋人を作るのが一般的である。それが良い事かどうかさて置いて。
その令嬢は男爵家の人間であるから、こう言ってはなんだけれど、高位貴族の正妻と言うよりは恋人、愛人向きであった。
それにも関わらず、彼らは婚約を破棄し、男爵令嬢を妻にと求めたのだ。
学園を卒業すれば婚姻を結ぶのが一般的である。その前の火遊びぐらいにしか各家も考えていなかったのだろう。
当然ではあるが、慌ててその始末に奔走したとの事。
驚いた事に、その令嬢は魅了と言う禁忌の魔法でもって令息達の心を操っていたのだとか。
高位貴族になればなる程、政略の度合いは高い訳であり、魅了されていたから罪はないとばかりに、結局婚約破棄そのものがなかった事にされたようだ。
唯一婿入りの婚約は、令嬢側が断固として拒否したようで婚約が立ち消えたとかなんとか。婿入りで婚約破棄は、いくら魅了されていたからと言って愚かとしか言いようがないので、自業自得だと思う。
対岸の火事かと思われていたが、急に我が国も危うくなってきた。我が学び舎でも似たような現象が起きたからである。
第二王子や騎士団長のご子息、公爵家の御次男、大神官のご子息達がとある令嬢を囲い込むようになったからだ。
国の重鎮達は大慌てで事に当たった。
渦中の女子生徒──メラニー・オブ・ブランショネが魅了の魔法をかけているのではないかと調査した。
結果は、白。
彼女は魅了の魔法をかけていなかった。
対処法が見つからないからと言ってそのままにしておく訳にもいかない。
ブランショネ嬢に傾倒してしまった令息達はそれぞれ屋敷に閉じ込められる事になった。
これで落ち着くかと言うとそんな事はなく、彼女は他の男子生徒達を虜にしていくのである。
確かにブランショネ嬢は可愛らしい。金色の髪は柔らかな巻毛で、ライム色をした円らな瞳。ほんのり桃色に染まった頰に白い肌。まるでビスクドールのように愛らしい。
誰もが可愛らしいと思ったに違いない。
ブランショネ男爵の姉が裕福な平民の家に嫁ぎ、生まれたのがメラニー様らしい。
男爵の姉が流行り病で亡くなるとすぐにその夫も他界してしまい、親族の者が家を継いだとの事だったが、跡取りに恵まれないでいた叔父──男爵が引き取って養女としたのだそうだ。
「ルイーズ、遂に貴女の婚約者が狙われたみたいよ」
友人に話しかけられ、彼女の視線の先を見やると、婚約者のリュドヴィック様が歩いており、その後をメラニー様が歩いていた。
ブランショネ嬢に夢中になった令息達は、婚約者に素気無い態度を取るようになったと言う。冷たくなったと言うよりは、関心がなくなったと言うか、気を遣わなくなったと言うか、そんな感じらしい。
リュドヴィック様と私は確かに婚約者ではあるものの、儀礼的なお付き合いといった感じだ。
毎月のようにお茶会などはするものの、会話などない。話をしても二言三言、言葉を交わすぐらい。それも、
"良いお天気ですね"
"ああ"
こんなものだ。
残された時間は黙々とお茶を飲み、お菓子を食べるのみ。
つまらないだろうと思うのに、リュドヴィック様は律儀に三時間はいるのだ。
夜会の際にはドレスやら装飾品を欠かさず贈って下さるけれど、自身の色の入った物は贈られた事がない。もしかしたらご本人が選ばず、家人が選んだのを贈って下さっているのかもしれない。
でも、それも仕方ないと思うのだ。
私は伯爵家の娘ではあるものの、髪はブルネットにヘーゼルの瞳といったこの国でよく見かける色だし、顔立ちも地味だ。母親同士が友人であった為、侯爵家のリュドヴィック様の婚約者になったようなもの。
対するリュドヴィック様ときたら、ダークブロンドに青い瞳の、整い過ぎて冷たく感じる程の美形なのだ。
そんなリュドヴィック様がメラニー様に夢中になったとしても、私への態度は変わらない気がする。もしかしたら婚約解消になるかも知れない。
二人の姿を遠目に眺めながら、そんな事を考えていた。
そうなったら私は瑕疵が付くのだろうか。
新しい婚約者を探していただく事になるのであれば、同じように地味な方だと嬉しい。
リュドヴィック様は私には眩しすぎるから。
人は予想もつかない事が起きると声が出ないらしい。
今、私は手を握られている。目の前の男性に、両手で包み込むように握られているのだ……。
婚約者のいる身で異性に手を握られるなど問題だけれど、今回それは適用されない。
何故なら──
「あぁ、愛しいルイーズ……」
うっとりとした顔で私の手を握るのは、婚約者であるリュドヴィック様、その人なのだから。
「学園のない日は君の姿を見る事が出来ない。それが辛くて堪らない」
私は白昼夢を見ているのだろうか……。
「君がくれたハンカチを眺める事にしているのだが、近頃、それだけでは満たされなくなってしまって……」
悲しそうに目を伏せるリュドヴィック様らしき人物に戸惑うばかりで、何と答えて良いのかも分からない。
同じ教室にいる級友達も、信じられないものを見るようにリュドヴィック様を見ている。
白昼夢なら周囲はこのような表情はしていないかも知れない。
「それでね、ルイーズ。良ければ君の姿絵を画家に描かせたいんだ。そうすれば君に会えない日は、絵姿を見て心を慰められるから」
「えっ!」
思いも寄らない言葉に淑女らしからぬ反応をしてしまった。慌てて謝罪する。
「失礼致しました」
動揺が収まらず、ちょっと声が上ずってしまった……。
謝罪すると、リュドヴィック様は楽しそうに微笑んで言った。
「驚くルイーズも、なんとも愛らしいね」
これは……一体誰なの……?
夢かと思ったのに、その翌日もリュドヴィック様は私の前に現れた。サヴォワ家の馬車で迎えに来て下さったのだ……。
私以外の家族も驚いて言葉にならない様子である。
そっと手をつねってみたものの、痛みがある。夢ではないらしい。
そんな私の動揺を無視して、私の手を取るリュドヴィック様。
「今日から一緒に登下校をしよう。ルイーズは愛らしいから、何処の誰が近付くか分からないから」
それはないと思う。
「まぁ、ご冗談を、リュドヴィック様」
なんとか受け答えをすると、リュドヴィック様が悲しそうに眉尻を下げる。
……何か対応を間違えただろうか?
「リュド、と呼んで欲しい」
婚約者なのだから、愛称で呼ぶのは全くおかしな事ではない。ないのだけれど……!
「遅れますから、そろそろ参りませんか?」
はぐらかすように言うと、リュドヴィック様は笑顔で頷いた。
「そうだね。では、続きは馬車の中で」
…………失敗である。
馬車に乗り込んだ後、抵抗を試みたものの、最終的には愛称で呼ばされた。泣き落としは酷いと思う。
「私もルゥ、と呼ぶね」
許可は得ないのね……。
隣に腰かけ、私をうっとりとした顔で見つめてくるリュドヴィック様が、得体の知れないものに思えて怖い。怖くてリュドヴィック様の方を見る事が出来ない。
「あの……リュドヴィック様」
「リュド」
即座に訂正が入ってしまった。
「……リュド様、近頃変わったものを召し上がられたり、なさいましたか?」
たとえば毒ですとか……。
怪しげな薬ですとか……。
そうでもなければこの別人ぶりに理由がつかない。
「なにもないよ。
私の心配をしてくれるなんて、嬉しいよ、ルゥ」
聞くのではなかった……。
休み時間、お昼の休憩時間、合間合間の僅かな時間でもリュドヴィック様は別のクラスである私の元を訪れる。
そして欠かさず愛の言葉を囁く。
毎朝毎夕の送迎。
休みの日には欠かさず会いに来た。恐ろしい事に画家を連れてやって来る。
私の地味な絵姿など描かせるなんて、絶対正気じゃない。
贈られる花束。夜会前に渡されるのはリュドヴィック様の瞳の色の装飾品にドレス。
初めの頃は混乱と羞恥で堪らなかった私も、三ヶ月もこの状態が続けば嫌でも慣れる。
家族も、級友も慣れた。
そんなある日、いつものようにリュドヴィック様が私の手を握って、恥ずかしい台詞を口にしていた時、メラニー様が私達のすぐそばまでやって来て言った。
「何でなの!」
教室が一瞬にして静まり、メラニー様に視線が集中する。
「何でリュド様には効かないの!」
……何でリュド様には効かないの、とメラニー様はおっしゃった。
それはつまり、メラニー様がリュドヴィック様に何がしか、よからぬ事をしていた、と言う事に他ならない。
級友が勢いよく教室を飛び出して行った。
教師を呼びに行ったのだろう。
メラニー様はリュドヴィック様の腕を掴む。途端にリュドヴィック様が不快感を表した。
掴まれた腕を払うと、メラニー様を見て言った。
「触らないでくれないか、不愉快だ」
それから私の方に向き直り、「あぁ、ルゥ、君ならばいくらでも触ってくれて構わないよ」とおっしゃる。
「何で呪いがリュド様にだけ効かないの!」
──呪い?