第8話 治のヒーロー
愛歌がキーボーディストとしてバンドに加わってから、俺達は彼女を加えた新体制で練習に励んできた。
一緒に演奏をすればするほど、愛歌の演奏技術と音楽のセンスの高さを思い知らされる。どうやら彼女は絶対音感に近いものを持っているらしく、アドリブでキーボードの音を曲に加えたりもしてみせた。
そして、最初はちょっと浮き気味だった彼女もバンドに馴染み始め、気づけば俺達の『仲間』になっていた。皆彼女を下の名前で呼び、彼女も皆を下の名前で呼ぶ。そこまで打ち解けられたんだ。
学校でも、愛歌は笑顔を取り戻していた。以前愛歌は運動会の一件でクラスから疎まれるようになったが、俺や奈々と同じように、愛歌に味方する子だっていたんだ。もう、彼女は独りなんかじゃない。
そうして日々は過ぎていき、ライヴを五日後に控えたその日、俺は愛歌と一緒に下校していた。この後はいつも通りスタジオに集合して、いつも通り練習することになっていた。
と、俺はある重大なことに気づく。
「ああやべ、家の鍵忘れたかも」
今朝、寝坊した俺は慌てて家を出た。だから、家の鍵をポケットに入れてない。
今日はじいちゃんとばあちゃんは用事があるって言ってた、だから家に誰もおらず、鍵を開けてもらえない。
隣を歩いていた愛歌が、心配そうに尋ねてくる。
「え、本当?」
これじゃ家に入れない、やっちまった……!
僅かな希望を胸に、俺はランドセルを地面に置き、中を探った。ズボンのポケットに鍵を入れておけない時はここに入れる。
もしかしたら……すると指先に金属が触れる感触がして、安心感が全身を覆い包むのが分かった。
「あった……!」
俺は家の鍵を引っ張り出した。
じいちゃんかばあちゃんが入れておいてくれたに違いない。以前にも俺は何度か家の鍵を忘れて、家の前で数時間待ちぼうけをする羽目になったことがあったから、そうならないようにしてくれたんだな。後でお礼を言っとこう。
と、その時愛歌が、
「治それ……スパイダーマン?」
不意の問いかけに少しばかり驚いたが、俺は理解した。愛歌は、俺の家の鍵に付けられたスパイダーマンのキーホルダーを見たのだ。
俺は意味もなく、胸を張って答えた。
「そう、スパイダーマンさ。大好きなんだ俺」
男なら誰しも一度は、『ヒーロー』という物に憧れた事があるはずだ。
日曜の朝にやってる『~レンジャー』とかっていう戦隊モノとか、あと仮面ライダーとか……それらを真似て遊んだことがある人は、結構多いのではないだろうか。
そして俺にも、ヒーローがいた。そう、スパイダーマンだ。
赤と青のスーツに身を包んだ、特殊なクモに噛まれた事で超人的な能力、手首から糸を出したり壁を登ったりする力を得た青年で、本名はピーター・パーカー。元は何十年も前のアメリカのコミックで生まれたスーパーヒーローだ。
架空の人物であることには間違いない。でも、俺にとってスパイダーマンはとてつもなく思い入れの深いキャラクターで……色々思い出してると長くなりそうだな、一度ここらで切り上げとこう。
と、愛歌が、
「本当? 私も見たことあるよ、スパイダーマン」
「お、ホントか?」
驚いた。音楽が好きな以外に、こんな所で共通点があったとは。
愛歌は頷くと、
「結構前だけど……ほら、空飛ぶ緑色の怪人と戦ったり、あと四本の機械の腕が背中から生えた敵とか……それに砂の巨人とか、スパイダーマンに似てる黒いのと戦ったりするのもあったよね」
グリーンゴブリンとドクター・オクトパス、それにサンドマンにヴェノムだな。
いずれもサム・ライミ監督がメガホンを取った、実写映画化旧三部作に登場する悪役達だ。スパイダーマンのみならず、悪役もどれも個性的で、印象に残るキャラクターばかりである。
「へえ、結構見てたんだな」
愛歌は弾むような声で、応じてくる。
「うん、私も好きだよスパイダーマン。かっこいいし、面白いし……それにちょっと感動するよね」
自分の好きなスパイダーマンを、彼女も好きだった。不思議な巡り合わせを感じ、とても嬉しくなる。
そういえば……あの事をまだ、愛歌には伝えていなかったな。
「なあ愛歌、そういえばまだ知らなかったよな?」
「え、何を?」
怪訝そうな顔をする愛歌に、俺は人差し指を立てて言う。
「ライヴでやるセットリストの中には、スパイダーマンの曲も一曲だけ入ってるんだぜ」
「え、本当? 何の曲?」
俺は、その曲名を伝えた。
「『Vindicated』って曲。『スパイダーマン2』のエンドロールで流れる曲さ」
「ヴぃんでぃ……?」
英語の題名だから当然聞きなれないだろう。愛歌は眉間にしわを寄せて、問い返してくる。
映画を見た事はあっても、エンディングで流れる曲の事までは知らないよな。多くの人は、映画本編が終わってエンドロールが始まったらテレビを消しちゃうと思うし。
すると愛歌が、もっともな疑問を投げかけてくる。
「治、でもそれって英語の曲なんじゃない? 歌えるの?」
その通り、『Vindicated』は俺達がやる他の曲とは違って、全編英語詞の曲だ。
歌うのは不可能じゃないが、それでも難しい……そう、あいつがいなかったらな。
「これから分かるさ。さ、早くスタジオに行こうぜ」