第37話 念願の相棒
「坂井康則です、『やっち』と呼んでください」
初めてミュージックハウス翼を訪れた光彦に、やっちさんがいつもの挨拶とともに名刺を手渡す。
光彦はぎこちなく、「あ、どうも……」と発しつつ、おずおずと受け取った。すでに彼の紹介は終えており、そこにいる奈々もリアムも、もう光彦のことを知っていた。
「暮橋奈々です、担当はギターとキーボード、それにちょっとボーカルも」
「僕は阿隝リアム。パートはギターとボーカル、よろしくね」
奈々とリアムが自己紹介すると、光彦はずびしっと背筋を伸ばし、
「も、守村光彦です! 今日はその……治さんに連れてきてもらいまして、その、見学を……!」
無駄に姿勢を正すその動作も、ぎこちなすぎる挨拶も、何もかもが大げさすぎた。
俺は苦笑いしつつ、光彦の頭を小突いた。
「緊張しすぎだってお前、ちょっと落ち着けよ」
「あいたっ……!? だ、だって……」
奈々が楽しそうに笑った。
「それで、守村君は何か楽器をやるの?」
奈々は当初、光彦のことを『守村君』と呼んでいた。
「あ、いえ。自分は楽器は別に……」
光彦は、別に楽器の経験者ではなかった。
ただ俺がミュージックハウス翼のことを教えると興味を示したようだったので、連れてきただけだ。見学だけなら無料だし、楽器に触れてみることもできる。俺や奈々やリアムにはもちろん、初めての人にもやっちさんは寛容で、優しく接してくれる人だった。
彼自身が言うように、光彦は楽器に関してはまったくの未経験者だ。せいぜい、学校で触れるリコーダーとか鍵盤ハーモニカとか、そういうのしかやったことがないらしい。
でも、彼はスタジオに置いてあるギターとかベースとか、ドラムセットに視線を動かしていた。その眼差しはいかにも、興味津々な様子だった。
「差し入れだよ、冷たいお茶ね」
やっちさんが、お茶の入ったコップを四つお盆に載せて持ってきた。
それを見た光彦が、誰よりも早く歩み出る。
「あっ、自分、配ります!」
誰にも有無を言わせる間すら与えず、光彦はやっちさんに歩み寄ると、両手でコップを二つ取った。
「どうぞ治さん、リアムさん」
俺とリアムに手渡すと、あとひとつ取って奈々に手渡した。
「奈々さん、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
呆気に取られる奈々。
しかし光彦は、最後のひとつ……つまり彼自身のコップは手に取らなかった。
「光彦君、これは君のだよ」
「えっ、自分のだったんですか?」
どうやら、そもそも自分の分だと思っていなかったらしい。
やっちさんに差し出されて、ようやく光彦はコップを受け取った。
俺達はお茶を飲み干し、渇いた喉を潤した。
「今日はせっかく来たんだし……君も何か、楽器をやってみたらどうかな?」
提案したのは、リアムだった。
「えっ、でも……こんなかっこいい楽器達、自分にはとても……」
遠慮しているようだが、光彦は『かっこいい』と言った。それは少なくとも、ここにある楽器に興味を持った証だと俺には感じられた。
とはいえ、引け目を感じてしまうのも無理はない。俺も初めてドラムセットに向かった時は、とっつきづらくて尻込みしてしまったのをよく覚えている。今の光彦の反応は、まるで昔の俺自身を見ているかのようにも思えた。
けれど、それはおそらく誰もが通る道だ。奈々も、きっとリアムも最初はそうだったと思う。
「光彦君、ちょっとこっちにいいかな?」
考えるような面持ちを浮かべていたやっちさんが、不意に光彦を呼んで手招きした。
「はい?」
怪訝な面持ちを浮かべつつ、光彦はそれに応じる。
「ちょっとあっちを向いて」
やっちさんは光彦に促し、光彦はそれに従ってやっちさんに背中を向ける。
何をするつもりなのか? 俺は思った。きっと奈々もリアムも、それに光彦もそう思っていただろう。
答えはすぐに分かった。
――やっちさんは背後から、ベースのストラップを光彦に掛けさせたのだ。
「はわっ!?」
驚く光彦をよそに、やっちさんは光彦の腕を持ち上げてストラップにくぐらせる。
それで完全に、光彦はベースを身に帯びた状態となった。
「わ、似合ってる!」
俺も奈々に同感だった。
まるでずっと前からベーシストだったかのように、今の光彦の姿がサマになっていたのだ。リアムは何も言わなかったけれど、腕を組んでうんうんと頷いていた。
やっちさんが、コードで接続されたベースアンプの電源を入れた。
「光彦君、どこでもいいから、指で弦を弾いてごらん」
困惑しながらも、光彦はやっちさんの指示に従って、ベースの弦を右手の親指で弾いた。
――スタジオを揺らさんばかりの低音が、鳴り渡った。
それはベースに触ったことすらない初心者が出したとは思えないほどに大きくて、響きの良い音で……正直俺は驚いてしまった。しかし、それを出した当人が誰よりも驚いている様子だった。
「わ、わわっ!? こんな大きな音が……!」
自分で出した音で慌てふためく光彦。
その近くで、やっちさんが感心したように頷いていた。
「光彦君には、やっぱりベースが向いていると思うよ」
◇ ◇ ◇
初めてベースに触れ、そこから奏でられる低音をその身に受けた光彦。彼がベースという楽器の魅力に取り込まれたのは、そのあとすぐのことだった。
ミュージックハウス翼に備品として置いてあるベースならば、無料で使わせてもらうことができた。だから光彦は、暇があれば治とともにミュージックハウス翼に通うようになり、ベースの練習に励むようになった。持ち前の人当たりの良さで、治のみならず奈々やリアムともすぐに打ち解け、彼らや康則からのアドバイスを記録する専用のノートまで用意していた。
家でも練習したい、自分のベースが欲しい。
そう思い始めるまで、時間はかからなかった。
しかしもちろんのこと、数万円もするベースは小学生である彼の手が届く代物ではない。ベース以外にも、アンプやチューナーなどの備品も必要だった。小遣いやお年玉、誕生日プレゼント代を貯め込んでも、費用を工面するのに何年かかるか分からないくらいだった。
母親に小遣いの前借りを頼んだが、『ダメ』の一言であえなく却下された。目に見えている結果だったが、それでも光彦は諦めずに食い下がり続けた。
やがて母親は根負けし、ある条件を提示した。それは向こう半年間の小遣いと次回の誕生日プレゼント、それにお年玉のカットに加え、家事を手伝い続けることでボーナスとして数万円を支給するというものだった。
光彦が代行した家事は様々だった。皿洗いに風呂洗い、お使いに玄関掃除に洗濯物干し、芝刈りにゴミ出し……とにかく母から頼まれた手伝いは、何でもやった。その努力は、まさしく涙ぐましいものだった。
ベースのことなんて、どうせすぐに忘れる。手伝いが嫌になって投げ出すに決まってる……光彦の母も父も、そう思っていたようだった。しかし、息子は嫌事ひとつ言うことなく、むしろ『他にやることはないか』と尋ねてくるほどだった。
その根底には、光彦のベースへの思い。それに、治や奈々、リアムの仲間になりたいという強い気持ちがあった。自分のベースを手に入れることが、その第一歩になると光彦は考えていたのだ。
日々手伝いに打ち込み、ミュージックハウス翼でのことを楽しげに語る光彦。両親はやがて、そんな息子の姿に心を動かされていくようになった。
そしてついに光彦は自分の貯めた金、そして両親から受け取った手伝い料を合わせ、ベースを購入することができた。
数万円ほどで、他の数十万円もするベースと比べれば、そこまで上等な物ではなかったのかもしれない。しかし光彦にとっては、苦心と努力の果てに、ついに手に入れた宝物だった。
それから彼は、念願の相棒といえるベースをミュージックハウス翼に持ち込むようになった。
それからほどなくして、光彦は初の挫折と痛み、そして悔し涙の滲む……生涯忘れられない出来事に、直面することになった。




