第36話 お前ならやれる
「あーあ……」
無意味だと十二分に理解していたけれど、ため息は止められない。
結局あのあと、俺は遅刻することになった。登校した時にはすでに朝の会が始まっていて、教室に入ると同時に、先生やクラスメイト達から視線の集中砲火を浴びることとなった。
それに続いて、先生からのお説教。遅刻の理由を尋ねられたが、『寝坊した』と言っておいた。木に登って降りられなくなった猫を助けようとした、なんて言っても信じてもらえないだろう。それに、何だかあの猫に責任を押しつけるようでいい気分じゃない。
忘れ物と遅刻を計三回やらかすと、ペナルティとして放課後にグラウンドを二周。それがうちのクラスのルールだった。
すでに忘れ物を二回やらかして、リーチになっていた俺は、今日の出来事でめでたくスリーストライクでアウト。
ま、グラウンド二周走るだけでチャラにしてもらえるんなら安いもんか……と思いつつ、俺は放課後のグラウンドに足を運んでいた。盗難を防ぐため、ランドセルは教室に置いてきている。遠くからは、すでに帰路につく生徒達の和気藹々とした声が響いていた。
今日はいい天気で、それなりに暑い。
さっさと二周走って、水飲んで帰るとするか……と思い、軽く準備体操をしようと思った時だった。
「あ、あれ……?」
聞き覚えのある声に振り向くと、これまた見覚えのある少年がこっちを見ていた。
短い髪に、眼鏡……今朝、一緒に猫を助けた彼だと、すぐに分かった。
「おお、どうしたんだ?」
彼は驚いた顔をしていたが、それは俺も同じだった。
「いや、グラウンドを走りに来たんです。うちのクラス、忘れ物と遅刻を計三回やると放課後にグラウンドを二周走るっていうルールがあって……」
「え、マジか? 俺のクラスと同じだな」
驚いたことに、デスペナルティの内容も、それを課せられる条件も、俺と彼のクラスでは共通らしい。しかも、俺達はふたり揃って今日、条件を満たしてしまったようだ。
「てことはお前も遅刻しちまったんだな、やっぱり間に合わなかったってわけか」
「『お前も』ってことは、あなたも……」
俺達は、ふたり揃って笑みを浮かべた。
ともに猫を救った仲である俺達は、ともにデスペナルティを受けることになったわけだ。まるで運命共同体だと思うと、何だか可笑しく思えてきた。
可笑しく思えると同時に、嬉しさも感じられた。
「なあ、どうせだったら一緒に走らないか? ひとりで走るより、ふたりのほうが心強いだろ?」
「いいですね! 実は自分も、そう言おうと思っていたんですよ!」
そうして俺達は、軽く準備運動をしたあとでグラウンドを走り始めた。
めんどくさかったペナルティも、ふたりだったらまるで友達と遊んでいるように思えて、むしろ楽しく思えた。それも一緒に猫を救出した彼だからこそ、だったのかもしれない。
「それにしても、このペナルティも考え物だよな。熱中症にでもなったらどうするってんだか……」
走り始めてまもなく、俺は彼に話しかけてみた。
しかし、返事がない。返事どころか、隣を走っていると思っていたはずの彼の姿が、なくなっていたのだ。
「あ、あれ?」
俺は思わず、立ち止まって振り返った。
――はるか後方で、フラフラになりながら必死に俺を追っている彼の姿が目に入った。
「あ、あの……ちょ、ちょっと待ってくださ……!」
仰天した俺は、急いで戻って彼の身を支えた。そうしないと、すぐにでもその場にブッ倒れてしまいそうだったのだ。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「は、はい……自分、体力には自信がなくて……」
顔からズレ落ちそうになっていた眼鏡を、俺は直してやった。
熱中症とかじゃなくて、純粋に疲れてフラフラになってしまっているだけらしい。まだ一周目の半分も走っていないというのにこのヘバりよう……気の毒なほど、体力がないようだ。
自信がないとかそういうレベルじゃなくて、誇張抜きにして俺がそばで見ていたほうがいいと思うレベルだった。なので俺はスピードを落として彼のペースに合わせ、一緒に走ることにした。
それはまるで、介護でもしてるような気分だった。
「も、もう、ダメです……!」
彼の口からは、何度もその言葉が漏れた。
そのたびに俺は励まし、鼓舞し、足を止めないよう促した。
「あともう少しだ、頑張れ! お前ならやれる!」
彼のペースに合わせて走るのは、俺にとっては歩くよりも幾分か早い程度で……正直なところ、ほとんど疲れなかった。
――お前ならやれる、か。
今朝会ったばかりの少年に、そんな分かったような言葉を繰り返し投げかけたのだろう。
分からない。分からないが、とにかく彼には諦めてほしくなかったのだ。
「あああ、もう、もう……立ち上がれません……!」
どうにか完走した時、彼は日陰のベンチにうつ伏せに倒れ伏した。
結局俺はまるで、彼の監督役みたいな感じになってしまった。思えば、俺と彼が一緒にペナルティを受けることになったのは幸いだった。こいつひとりでグラウンドを走らせていたら、絶対にマズかっただろう。
教室から急いでランドセルを取ってきた俺は、その中から魔法瓶を取り出して、中身の水をキャップに注ぐ。
ベンチに倒れ伏している彼に、それを差し出した。
「ほら、飲めよ」
亀みたいに首を上げて、彼がキャップを受け取った。魔法瓶のキャップは、それがそのままコップみたいに使えるようになっていたのだ。
「あ、ありがとうございます……でも、どうして水筒なんか……?」
正確には水筒じゃなくて魔法瓶なんだが、別にどうでもいい。
「俺さ、牛乳を飲むと腹が痛くなっちまうことがあるんだよ。だから先生の許可で、水を持ってきてるのさ」
バニラアイスとか、乳製品は別に平気なんだけどな。アレルギーってわけでもなさそうなんだが、体質かもしれない。
「そうだったんですか……ありがとうございます」
おもむろに身を起こして、彼はキャップに口を付けた。
ただの水なんだが、魔法瓶に入っているおかげで温くはならず、冷たいままだった。
「まあ、今日はお互い災難だったな」
空を見上げて呟きつつ、魔法瓶に口を付ける。
冷たいままの水が喉を流れて、潤滑油みたいに身体を潤し、冷やしていくのが分かった。走っているあいだにそれなりの時間が過ぎていたようで、緩やかな風が出てきて幾分か涼しくなっていた。
「いえ、案外……そうでもないかもしれませんよ」
隣に座る彼を、俺は振り返った。
走り終えた直後は、もう二度と立ち上がれないのではと感じるような様子だった彼も、しばらく休んだおかげで体力が回復しつつあるようだ。
「どういう意味だ?」
俺が問い返すと、彼はキャップに注いだ水を一気に飲み干して、こっちを振り返った。
「自分達のお陰で、あの猫は助かったわけですし……それに比べればこれくらい、どうってことないかなって思えるんですよね」
彼の性根の良さが伺い知れる言葉だった。
ペナルティを受けたこと以上に、あの猫を救えたことのほうが、彼の中では大きいらしい。自分以上に他人を大事にできる、そんな器の大きさが垣間見える言葉だった。
――お前、良いやつだな。あえてそう言わないで、俺は頷いた。
魔法瓶を置いて、俺は額に浮かんだ汗を拭い取る。
「埜上治だ」
自己紹介する。
彼は少しの間を開けて、空になったキャップを俺に差し出した。
「守村光彦です」
キャップを受け取った俺は、それを魔法瓶にはめた。
守村光彦、か。彼の名を受け取った俺は、ふと思うことがあって……今一度彼に、光彦に向き直った。
「あのさ、お前……バンドに興味あるか?」
「え、バンドですか?」
もちろん、この時光彦は夢にも思っていなかっただろう。
自分がベーシストとして、俺と同じリズムの担い手として……ともに活動することになるだなんて。




