第35話 猫レスキュー作戦
「も、もうちょっと……!」
その少年が気がかりで、思わず俺は駆け寄ってしまった。
そしてすぐに、彼がどうしてこんなことをやっているのかを知ることとなる。
登校をすっぽかして、ランドセルを地面に放り出してまで、あの眼鏡に短い髪形の少年が木によじ登っているその理由――それは、木の枝の先に縮こまるようにしてしがみついている、一匹の猫だった。
白い子猫のようだが、どうやら木に登ったまま降りられなくなってしまったらしく、しきりにか細い声で鳴いていた。助けて、怖いよ、と言っているように思えた。
あいつ、あの猫を助けようとしていたのか……と思った時だった。
彼が足場にしている木の枝が、ミシミシと音を立てて今にも折れそうになっていたのだ。少年は猫に手を差し出すことに夢中になっているようで、そのことに気づく様子はない。
「ちょっ、お前! 危ないぞ!」
「えっ、うわっ!?」
俺が声を上げたのとほぼ同時に、彼が足場にしていた枝がバキリと折れた。
少年はたちまちバランスを崩し、落下していく。数メートルほどの高さまで登っていたので、落ちれば怪我をするのは必至だった。
とっさに俺は落下地点にまで滑り込んだ、彼の身を受け止めようとしたのだけれど、体重に落下スピードが加わった重みを支え切れるはずもなかった。
多少勢いを逃がすことはできたものの、俺は巻き添えを喰らう形で下敷きとなり……結果として彼のボディープレスを腹に喰らってしまう。
「おごふうっ!?」
その後俺は、少しのあいだ腹を押さえて悶え苦しむ羽目になってしまった。
傍目には、まるでイモムシのようだっただろうな。
「だ、大丈夫ですか……?」
おずおずとした様子で問いかけてきた彼を、俺は身をよじりながら睨みつけた。
「見りゃ分かるだろ、大丈夫なわけあるかよ! お前、俺が通りかからなかったら大怪我してたぞ……!」
「す、すみません……!」
俺がクッション代わりになったので、彼は無傷のようだった。
が、それと引き換えに、俺がダメージを100%引き受ける羽目になったのは事実。返答次第では、とばっちりの責任をしっかり取ってもらう気でいたのを覚えてる。
「あの猫です、あの猫を助けようと思って……!」
いまだに鈍い痛みを発している腹部をさすりつつ、俺は彼が指差したほうに視線を向けた。
さっきの衝撃で木の全体に振動が走り、無数の青々とした葉がザワザワと音を立てながら揺れ続けていた。しかしながら、あの猫が転落することはなかったようだ。
思ったとおりだった。
彼は木に登ってまで、降りられなくなった子猫を救出しようとしていたのだ。
「やっぱりそうだったのか。でもお前が落ちたら、元も子もないだろ……!」
少年はまた、「すみません……」と謝ってきた。
子猫の身を案じて、危険を顧みず助けに向かった。つまり善意からの行動なのは分かったが、ミイラ取りがミイラになったら意味がない。
「あの猫、降りられなくなっちゃったみたいなんです。放っておくのもかわいそうで、どうにかして助けてやりたくて……」
「んー……」
俺達が話しているあいだにも、子猫はか細い鳴き声を上げていた。
動物の言葉も気持ちも俺には分からないが、少なくとも俺があんなふうに高い場所にひとりで取り残されれば心細いだろうし、それに怖いはずだ。
少年がそう思ったように、俺にも猫を助けてやりたいという気持ちが芽生えはじめていた。
どうすればいいかと考えて、俺はある案を考え出した。
というわけで、俺達はさっそく猫レスキュー作戦を実行に移した。
「ど、どうだ?」
少年の足の裏の感触を両肩に感じながら、問いかける。
そう、俺は踏み台となっていた。俺が木に寄りかかる形で踏み台になり、少年が俺に乗っかる形になって猫を救出する。それが俺達の作戦だった。
猫レスキュー作戦とはいったものの、いざ実行に移してみるとシンプルで安直な手段だった。とはいえ、それ以外に方法は思いつかなかった。
「届きそうです、もうちょっと……!」
少年は小柄で、俺より体重が軽そうだった。
だから自然と踏み台は俺、猫を救出する役は彼となったのだ。体格的に考えて、その役割決めは適切だっただろう。
「このままじゃダメですね、ちょっと失礼します!」
どういう意味だと思ったが、それを問う暇はなかった。
それまで俺の両肩に乗っていた少年の両足が移動し、俺の頭が踏みつけられた。
「重っ、ちょ、少しは遠慮しろっての……!」
とは言ったものの、俺は身動きが取れない。
下手に動けば、少年がバランスを崩して落下する危険があったからだ。
さすがに靴は脱いでいたとはいえ、頭を踏まれるなんてかなりの屈辱だ。しかしながら、結果としてその屈辱は無意味には終わらなかった。
俺も少年も身体を張ったおかげで、子猫をどうにか救出することができた。
踏み台の役割を引き受けていたから、どういうふうに助けたのかを見ることはできなかった。けれど、少年が「やった、助けられましたよ!」と言った時は嬉しさと安堵感に胸が満たされそうになった。
直後に彼が降りてきて、その片腕に抱えられた白猫を見た時は……痛みも疲れも全部吹き飛んでしまったように、俺は笑みを浮かべた。
「よかったなお前、もうあんなとこに上るなよ」
俺の言葉を理解したのかは知らないが、子猫は鳴き声で応じた。
木の上で発した時よりも、ずっと溌溂として元気な鳴き声に聞こえた。もしかしたら、俺達にお礼を言ってくれていたのかもしれないな。
少年は、そっと猫を地面に降ろした。
猫はすぐに駆け出して、俺達から離れていった。草むらに飛び込んで姿を消す直前にもう一度俺達を振り返り、甲高い鳴き声を上げた。
「ありがとう、って言ってくれたのかもしれませんね」
「ああ、そうかもしれないな」
あのまま木の上に取り残されていれば、いずれ力尽きて落ちてしまったかもしれない、そうならなくとも、カラスとかに襲われていたかもしれない。
助けることができてよかったと、俺は心から思った。少年も同じ気持ちだっただろう。
安心感に浸っていた時だった。
――学校のほうから鳴り響いたチャイムの音色が、俺達を現実に引き戻した。
「あっ、やべえ忘れてた! 遅刻だ!」
猫の救出に夢中になるあまり、俺は遅刻寸前だということを完全に忘れていた。
「ああっ!? 本当だ!」
少年も同じだったらしく、跳ね起きるように立ち上がった。
「お前、早くランドセル持て! 行くぞ!」
「ちょっ、ちょっ、待ってください!」




