第34話 ある朝の通学途中の思い出
「ああ、それなりにな」
奈々がどこかへ行ってしまってからまもなく、光彦が話しかけてきた。
驚きはしたけれど、ありがたいと思ったのもまた事実だった。長年このミュージックハウス翼から離れていた身としては、周りの人達が輪を作って楽しんでいるこの雰囲気にはどうも馴染みづらい。まあ、こうなるとは想像がついていたのだけれど……疎外感って、やっぱなかなかキツいものがあるな。
しかし、光彦のお陰で疎外感もだいぶ薄れた。
話せる人がひとりでもいれば、気持ち的に全然違うな。
「よかった。自分、無理やり治さんをここに連れて来ちゃったから……今頃になって迷惑じゃなかったか心配になってきちゃいまして」
「いや、別に気にしなくていいさ」
奈々と分け合った焦げ肉を口に運びつつ、俺は応じた。
そこでふと、俺は奈々のことを思い出した。急にいなくなったと思ったら、彼女はやっちさんと一緒にミュージックハウス翼に入っていったきり、出てくる気配がない。
「ところで、奈々ってどうかしたのか? さっきやっちさんと一緒に行っちゃったんだけどさ」
もしかしたら光彦が何か知っているかもしれないと思って、俺は尋ねてみた。
「あー、えっと……まあちょっとした用事ですよ用事。もう少し待ってれば、奈々さんはまた来るはずですよ」
眼鏡をいじりながら、光彦は言う。
彼の様子から、はぐらかしているのは明白だった。奈々の『用事』が具体的に何なのかを、光彦は知っているようだ。しかしながら、それを俺に明かすつもりはないらしい。
気にはなった。けれど、無理に聞き出そうとも思わなかったので、俺はそれ以上質問を重ねなかった。
「ま、とにかく治さん。一緒に食べましょうよ」
返事も待たずに、光彦はコンロに肉や野菜を並べ始めた。
その時、俺は気づいた。光彦の指に、何枚も絆創膏が貼られていたのだ。中指に人差し指……それがどうしてなのかは、容易に想像がつく。
ベースを弾く人の多くがそうであるように、光彦もピックを使わず指弾きで演奏するベーシストだ。中指と人差し指を交互に使うツーフィンガー奏法だから、指に水ぶくれができてしまうのだろう。
「ベース、続けてるんだな」
光彦が、はっとしたようにこっちを向いた。
どうして俺がそう言ったのかを察したらしく、彼は自分の指に視線を落とした。
「はい、もちろん。ベースはもう、一生やろうと思ってますよ」
守村光彦。
かつての俺のバンドメイトだったひとりで、担当パートはベースとバッキングボーカル。ドラムを担当していた俺とは、ともにリズムの担い手だった。
一生やろうと思ってます、か……ベースに触れ始めた頃の光彦なら、きっと自分がそんなことを言うようになるとは想像もしていなかっただろうな。と、昔を思い返しながら俺は思った。
彼の両指に貼られた絆創膏は、練習の賜物。光彦の努力の証なのだろう。
「ベース初心者だった頃のお前なら、そんなことを言うようになるなんて思ってなかったんじゃないか?」
食事を続けつつ、俺は言った。
奈々と分け合った焦げ肉は、もう残り少ない。これならどうにか消費し切れそうだ。
「初心者の頃、ですか……はは、今思い出すと懐かしいですね」
肉や野菜を焼きながら、光彦は笑みを浮かべた。
「治さん、覚えてます? 治さんと自分が初めて会った時のこと……」
「初めて会った時のこと? 俺と光彦が?」
光彦は「ええ」と言いつつ頷いた。
そりゃもう……だいぶ昔の話になるな。けどもちろん、俺は覚えていた。まあ、それなりにインパクトのある出会い方だったから、忘れようにも忘れられない。
焦げ肉を食べる手を止めて、俺は答える。
「覚えてるさ、一緒に猫を助けた時だろ?」
「そうですそうです、覚えてくれてたんですね!」
光彦は嬉々とした様子だった。
そう、それはもうかなり昔のこと……それこそ十年近く昔の出来事だった。
俺と一緒にバンドのリズムを担うことになる少年との、まったく予期せずした出会い。俺と光彦の縁を繋いだのは、ある一匹の猫だったのだ。
◇ ◇ ◇
何年生だったか具体的には覚えていないが、とにかく俺が小学校低学年だった頃の話だ。
今と同じ夏の時季の早朝、幼かった俺はランドセルを背負い、学校への道を全力疾走していた。
「あああやばい、遅刻だ! 遅刻だ!」
盛大に寝坊してしまった遅れを、何としても取り戻さなければならなかった。というのも、その当時俺が所属していたクラスには遅刻と忘れ物に対する罰則があったのだ。
それはつまり、遅刻と忘れ物を計三回やらかすと放課後にグラウンドを二周走るというもの。
忘れ物を計三回でも、遅刻を計三回でも、忘れ物を二回と遅刻を一回でも、遅刻を二回と忘れ物を一回でも……とにかくスリーストライクでアウトってわけだ。
俺はその時すでに忘れ物を二度してしまっており、デスペナルティにリーチだった。だだっ広いグラウンドを二周するのは、それなりに重労働だった。
だから、絶対に遅刻はしたくなかったのだ。
「急げ急げ、まだ間に合う……!」
全力疾走し続ければ、まだ滑り込みセーフできそうな時間だった。
学校が見えてきたその時、
「うぐっ、ぐぐぐ、もう少し……!」
奇妙な声が聞こえてきて、思わずそちらを振り向いた。
学校からほど遠くない場所に位置する空き地、そこに生えた木に、誰かがよじ登っていた。木の根元にはランドセルが置かれていて、学年は分からないがその子も俺と同じ小学校の生徒だということは分かった。
あいつ、一体何をしているんだ? 俺はそう思って思わず彼の元へと駆け寄った。始業時刻が迫っている最中、登校をすっぽかして木登りに興じるその少年は、眼鏡に短い髪が印象的だった。
そう、それが俺と光彦の出会いだったのだ。




