第33話 名前で呼んで
「晴斗、悪かった! 本当にごめん、このとおりだ……!」
暮橋と一緒にミュージックハウス翼に戻った俺は、晴斗のところへ行って頭を下げた。
事情を知らなかったとはいえ、晴斗が差し出してきたドラムスティックが俺のトラウマを刺激する原因になったのは間違いない。それでも晴斗に悪意がなかったのは明白だし、暮橋の説得もあって、俺には晴斗を責める気なんて微塵も起きなかった。
俺に残っていたのは、かつての可愛い後輩の手を乱暴に振り払ってしまったことへの罪悪感。それに、謝罪の念だった。
言い訳も弁解も、しようと思わなかった。
「いいんです埜上さん、気になんてしてないですから、そんな頭を下げないで……」
晴斗はそう言ってくれた。
いきなり俺にあんなことをされて、ビックリしたし傷ついたはずだ。それなのに俺を糾弾しようとはせず、許してくれたのだ。
そんな俺達に、やっちさんが歩み寄ってくる。
「さ、そろそろバーベキューも始まるよ。治も準備、また手伝ってくれるかな?」
俺が晴斗の手を振り払う様子を、やっちさんも見ていたはずだった。でも、まるで何事もなかったかのようにそう言ってくれた。
やっちさんの優しさと気遣いの気持ちが染み入るようで、俺は何も言えなくなってしまって……一瞬だけ目を逸らした。でも、その厚意には報いなきゃならないという結論をすぐに見出し、視線をすぐに戻す。
俺は頷いて、
「手伝います。俺、何でもやりますよ」
肩がぽんと叩かれて、振り返ると暮橋が俺を見つめていた。
「準備の続き、やりに行こう」
彼女はもう、晴斗のことには触れなかった。
さっきまでと同じように、俺が居づらくならないように気遣ってくれているのが分かる。
俺はその後、暮橋と一緒にバーベキューの準備に戻った。クーラーボックスとか飲み物とかを運んで、食材や機材も運んで……途中から、やっちさんが軍手を貸してくれて助かった。素手だったら大変な作業だっただろう。
数台のコンロに着火され、いよいよ調理が開始される段階になった時だ。
「ねえ治、その段ボールこっちに持ってきてくれない?」
「っ……」
俺は思わず、暮橋の顔をじっと見つめてしまった。
それもそのはず……彼女が俺のことを、苗字じゃなくて名前で呼んでいたからだ。
名前で呼ばれたのは、さっき道で俺を引き留めた時と同じだった。でも、何気ない会話の時に名前で呼ばれるのは……また事情が違うように感じられた。
暮橋は、どこか我に返ったような面持ちを浮かべた。
「だ、ダメかな? 小学校の頃みたいに名前で呼んじゃ……」
「いや、別にダメってわけじゃないけど、でも……」
俺は答えながら、暮橋が指差した段ボール箱を両手で抱え、持ち上げた。
箱には何も書かれていなかったから、中身が何なのかは分からない。けど、結構重たかった。
「でも?」
トングを使って金網に牛ロース肉を並べながら、暮橋が首をかしげた。白い服が汚れないように、彼女は貸し出されている紙エプロンを着用している。
周りでは、他のコンロを使ってみんなが調理を始めていた。肉を焼くいい香りが、そこら中から漂ってきているのが分かる。準備の最中だったけど、思わず腹が鳴りそうだった。
たしかに、俺と暮橋は昔はバンドメイトで……互いを名前で呼び合うくらいには仲が良かった。でも、もうそれも遠い昔に思えるほど前の話だ。
それに……
「阿隝以外の男を名前で呼ぶなんて、その……いいのか?」
「えっ?」
肉を並べる手を止めて、暮橋は目を丸くした。
この言葉だけで俺の意図を理解してくれると思っていたけど、分からないのだろうか?
「だ、だからその……暮橋って、阿隝と……付き合ってんだろ? なのに俺を名前で呼んだりして、いいのかよってことなんだけど……」
暮橋と阿隝が恋人同士ってのは、噂になっていた。
学年内でも評判の美少女と、これまた学年最強の色男。小学校の頃からの中で、まるで小説にでも出てきそうな理想のキングオブリア充カップル……と、思っていた。しょっちゅう仲良く話してるし、一緒に歩いてるのを頻繁に見かけてたし……お似合いだと感じていた。
少し黙ると、暮橋はトングを置いて、俺にしっかりと向き直った。
暮橋の真剣な眼差しに、思わず身構えてしまった。
「付き合ってないよ」
「えっ……?」
今度は、俺が目を丸くしてしまった。
「学校でも何回か言われたことがあるけど……リアムとはバンドメイトっていう関係で、付き合ってるわけじゃないよ。彼のことは、友達としては好きだけどね」
「そ、そうだったのか……?」
学校でもあんな噂になってるくらいだし、ふたりは恋愛関係なのだと思って疑っていなかった。けれど、その認識が俺の頭の中で音を立てて崩れていく。
彼女は頷き、
「それに、私の好きな人なら……」
その時だった。
――焦げるようなにおいが、俺の鼻に飛び込んできた。
何のにおいだ……? と思った俺は周囲に視線を巡らせて、すぐにその発生源を見つけ出す。
「あっ、ちょ、焦げてる! 肉が焦げてるぞ!」
「えっ、あああっ!? ホントだ!」
俺達は会話に夢中になるあまり、肉を焼いている最中だということを完全に忘れていた。
「皿、皿を出せ! 急げ奈々!」
「う、うん! はい治!」
慌ただしくトングを掴み取って、俺は紙皿に肉を避難させていく。
時すでに遅しだった。最初に焼き始めた分の肉には、しっかりと焦げ跡が付いてしまっていた。食べられないわけじゃないが、肉本来の美味しさは大きく損なわれてしまっただろう。
調理の最中に会話に夢中になってしまったことを、猛省せざるをえない。
「焦げちゃったね……食べられなくはないけど」
皿に盛られた焦げ肉を割り箸でつつきながら、暮橋が言う。
「俺が悪かったよ、それ俺が責任もって食うわ」
そう言って俺は手を差し出すけれど、暮橋は皿を渡そうとしない。
彼女は首を横に振ったと思うと、皿をもう一枚用意して焦げ肉をそっちにも取り分け始めた。
「治のせいじゃないよ、私も悪い。だから私も食べるから……半分ちょうだい」
焦げ肉を二枚の皿に半分くらいずつにすると、彼女は片方の皿を俺に差し出してきた。
「そ、そうか? じゃあ……いただきます」
「いただきます」
俺達は焦げ肉を割り箸でつまみ、ぱくりと一口。
焦げてはいるけど、やっぱり食べられないレベルじゃない。いや、普通に美味いと思った。
「さっきはありがとう」
「え?」
暮橋からの突然の感謝の言葉に、俺は食べる手を止めた。
「私のこと、『奈々』って……名前で呼んでくれたでしょ?」
肉が焦げてることに気づいて慌ててたけど、そういえばそうだったか?
「お願いなんだけどさ……これからは名前で呼んでくれないかな? 小学校の頃みたいに……私も治って呼ぶから」
「名前で? まあ、呼んでほしいならそう呼ぶけど……」
名前で呼んでほしいとは、予想外の申し出だった。
どうしてそんなリクエストをしてくるのか? 考えてみたけれど、俺には全然見当もつかない。
「じゃあ治、そこの野菜取ってくれる?」
焦げ肉をつまみながら、暮橋……もとい奈々は、コンロのそばに設置されたテーブルに載ったザルを指差した。そこにはもやしにピーマンにナス、トウモロコシとか……他にも色々な野菜が刻まれて、溢れんばかりに盛られていた。
俺は一度箸を置いて、そのザルを両手で抱えて持ってきた。
「ほらくれ……じゃなくて、奈々」
危うく、暮橋と呼びそうになる。
当然だった。今の今まで苗字で呼んでいたのだから、急に名前で呼ぼうとしても混乱してしまう。それに疎遠だった頃と比べれば、少し距離は縮まったかもしれないとはいえ、小学校の頃とは違って俺も彼女も子供って歳じゃない。
高校生にもなれば、女の子を名前で呼ぶことに尻込みしてしまうのは当然……だと思うが、俺だけだろうか?
「ありがと、治」
ザルを受け取った奈々が、それをコンロのそばに置いた。
その時だった。
「奈々ちゃん、そろそろ……」
不意にやっちさんが来て、奈々を呼んだ。
「あっ、もうそんな時間か……今行きます」
奈々はそう告げると、また俺のほうを向いた。
「ごめん治、私ちょっと行くね。楽しみにしてて?」
「え?」
彼女の言葉の意味が分からなくて、俺は怪訝な声を発した。
しかし問い返す暇もなく、奈々はやっちさんの背中を追う形で足早に行ってしまった。
楽しみにしてて? どういう意味だ?
そう思いつつ焦げた肉を黙々と処理していると、
「治さん、楽しんでますか?」
不意に話しかけてきたのは、光彦だった。




