第32話 夕焼けに照らされた道で(治 Side)
「くそっ、くそっ……!」
どんなに悪態をついても、後悔しきれなかった。
バーベキュー大会になんて、来なければよかった。来るべきじゃなかった。
長らくバンドを離れていた俺が、どのツラ下げてミュージックハウス翼に行けばいいのか。じいちゃんに何を言われようが、その考えを押し通せばよかった。心の隅にこびりついていた未練も、忘れるまで放っておくべきだったんだ。
自分で自分の傷を抉ることになったばかりか、晴斗にあんなことをしちまった。飛んで火に入る夏の虫……つまり、そういうことだった。いや、そんな言葉じゃ表せなかった。
今の俺にできたのは、ミュージックハウス翼を飛び出したままの勢いでひた走り、逃げることだけだった。
「埜上! 埜上ってば!」
ヒグラシの鳴き声に交じって、暮橋の声が俺を呼ぶ。
不思議だった。こんな奴のことなんて放っておけばいいだろうに、どうして追いかけてくるのだろうか。
疑問には思ったけれど、俺は呼び声に応じない。振り向くことも、足を止めさえもしなかった。それどころかさらに速度を上げて、突き放すように暮橋から距離を取ろうとした。
俺と暮橋では体力に差があるだろうし、たしか暮橋はサンダルを履いていた。俺に追いつくなんて、まず不可能なはずだった。
「埜上! ちょっと埜上!」
なおも、暮橋が俺のことを呼んでくる。
けれど俺はやはり、反応しない。
無視して突き放せば、すぐに諦めてくれると思った。諦めてくれて、もう今後一切俺と関わり合いを持とうとしないだろうと思った。
しかし、
「待ちなさいって、埜上!」
より大きな声で、暮橋は呼びかけ続けてきた。
気配でしか分からないけれど、俺のことを追い続けているらしかった。
くそっ、何だってんだ。どうしてこれほどしつこく食い下がってくるんだ。バンドを辞めてから疎遠になって久しく、こないだ校長室に呼ばれた時を除けば、言葉を交わした記憶すらない。暮橋にとっては、もう俺なんかどうでもいい人間のはずなのに。
追って来ないでくれ、もう放っておいてくれ――そんな俺の気持ちが、ようやく暮橋に伝わったようだった。
さっきの言葉を最後に、もう俺を呼ぶ声は発せられなかった。立ち止まっているか、それとも引き返したかは分からない。いずれにせよ、暮橋は諦めたようだ。
そして俺も、これを機にもう二度とバンドのことは考えないと決めた。ミュージックハウス翼にはもう行かない。暮橋とも阿隝とも、光彦とも……もう関わらないようにしよう。
それが最善策だ。うだうだと余計なことを考えないで、最初からそうするべきだったんだ。
だからもう……!
「“治”っ!!!!!」
――頭が、真っ白になった。
俺を呼ぶ声は、もう暮橋からは発せられないと思っていた。
それはこれまでで一番大きな声で、これまでで最も真に迫った感情を帯びていて、そして。
覚えている限りでは、小学校の頃以来に……俺を名前で呼んでいた。
「っ……」
返事はできなかった。息をのむのが精一杯だった。
どうしてだか分からないが、俺は足を止めていた。一瞬、周囲から音が消失したように思えたけれど、再び俺の鼓膜を虫の鳴き声が揺らし始める。
その場に立ち尽くす俺に、サンダルの独特な足音が走り寄ってきた。
「ねえ、どうしたの……?」
俺に語り掛ける暮橋の声は弾んでいて、呼吸も荒いでいた。
そのことからも彼女が必死に走り、俺を追いかけてきたのかが伺い知れる。こんな暑い中で全力疾走したのだから、相当に体力を使ったはずだった。
女の子にそんなことをさせるなんて……罪悪感と申し訳なさが込み上がるけれど、俺は何も言えなかった。
「あんなことをしてまでドラムを叩きたくないの? もう、ドラムが嫌いになっちゃったの……!?」
俺にドラムスティックを手渡そうとする晴斗、その手を乱暴に振り払ったことはもちろん悪いと思っているし、後悔している。
もちろん、好き好んであんなことをやったんじゃない。言うなれば、俺のドラムスティック恐怖症が引き起こした反射的な行動だった。でも、晴斗にも暮橋にもそんなことは知る由もない。
今まで俺は、このことを誰かに話したことはなかった。美玲のことがあって以来、ドラムスティック恐怖症になっただなんて……信じてもらえないだろうと思っていたからだ。
「『叩きたくない』んじゃない……」
少しだけ暮橋を振り返りながら、俺は発した。
どうにか絞り出したその声は、虫の声に吸い込まれてしまいそうなほどに小さかった。
「俺はもう、ドラムを『叩けない』んだ……!」
チラリと、暮橋の顔が見えた。
長く伸ばされた茶髪が夕焼けに輝き、そして彼女の瞳は一心に俺を見つめていた。胸元で片手の拳を握るその仕草には、祈るような気持ちが滲んでいるように思えた。
視線を合わせていられなくて、俺は逃げるように視線を逸らし、また背を向ける。
「美玲のこと、覚えてるだろ? 俺が余計なことをしたせいで病気を重くしちまって、美玲の母さんも怒らせて……」
美玲が吐血して倒れ、その場に美玲の母さんが駆けつけた時、暮橋も一緒にいた。だから、事の顛末は彼女も理解しているだろう。
それは思い出すたびに胸が痛む、ガキだった俺が犯した大きな過ちだった。
「ドラムスティックに触ろうとするとさ、あの時のことが頭に浮かんでくるんだよ。そんで手が震えちまって、罪の意識で頭がおかしくなっちまいそうで……とにかくもう、ダメなんだ」
正真正銘に本当のことなのだが、聞く分にはデタラメだと笑い飛ばされてもおかしくない話だっただろう。
正気を疑われるかと思った。しかし暮橋は、
「でも、いじめられていた美玲さんを助けようとしたんでしょう? 少なくとも私は、その気持ちが間違ってるだなんて……!」
「いや、いいんだ。もう……いいんだ」
俺は、彼女の言葉を制した。
庇ってくれたのは嬉しかった。しかし、同時に痛くもあった。
それ以上、何も言えずにいると、
「ねえ、ミュージックハウス翼に戻ろう? きっと今、埜上は色々なことを考えすぎて苦しいんだと思う。それでも、とにかく晴斗君には謝らないと……じゃないと、どんどん後悔が積み上がっていくばかりだよ」
「いいってそんなの、もう必要な……」
投げやりな言葉を残して、俺は再び歩を進めてこの場を立ち去ろうとした。
けれど、それはできなかった。
――暮橋が、俺の手首を握ってきたから。
「っ!」
驚いた俺は、思わず振り返った。
俺の手首をぎゅっと握ったまま、暮橋は何も言わなかった。
ただ祈るような眼差しで、まばたきもせず俺のことをじっと見つめていた。
綺麗でありながら、真に迫るような暮橋の表情。それを見ていると、もう俺は彼女の手を振りほどく気すら起こらなくなって、何も言えなくなってしまった。




