第31話 夕焼けに照らされた道で(奈々 Side)
「どうしたんですか?」
ミュージックハウス翼に入ったリアムは、周囲に視線を巡らせつつ尋ねた。
外でバーベキューの準備をしていた時、突然誰かの叫び声が聞こえ、治が中から飛び出し、その後を奈々が追っていった。ほんの一瞬横顔が見えただけだったが、治が思いつめた表情を浮かべていたのが分かった。
治がここに来ていたことには驚いたけれど、それ以上に尋常ならざる彼の様子が気になった。
ミュージックハウス翼には光彦や康則、他にも数多くリアムの見知った人がいたが、騒然とした空気に包まれていた。
「分からないんです、治さんが急に晴斗君の手を振り払って、逃げるように出て行っちゃって……」
リアムに説明したのは、光彦だった。
「治、晴斗君に『またドラムを叩いて』って頼まれて、ドラムスティックを差し出されたら、急に様子がおかしくなったんだよ。まるで怯えているみたいに、手を震わせて……」
光彦に続いて康則が説明し、彼は床に転がった二本のドラムスティックを拾い上げた。
状況から察するに、それは治が晴斗の手から払い飛ばしたドラムスティックのようだった。
どうしてそんなことを? リアムは思ったけれど、もちろん治がそんなことをした理由は分からない。いや、どうやら状況を理解できていないのは、ここにいる誰もが同じのようだった。光彦も康則も、他の人達も……この場にいる者は、一様に困惑した表情を浮かべていたからだ。
「僕、何か治さんの気に障ることでもしたんでしょうか……」
俯きながら呟いた晴斗に、康則が歩み寄って今しがた拾い上げたドラムスティックを差し出した。
「大丈夫さ、晴斗君は何も悪くないよ」
康則の言葉に、晴斗は何も言わずに頷いた。
治がまだミュージックハウス翼に出入りしていた頃、彼はここに通ってドラムを学んでいる者の中でも『指折りの実力者』と呼ばれていた。そんな彼に憧れていた子は数多く、晴斗もそのひとりだったのだ。
自分に憧れて、慕ってくれていた晴斗に、どうしてそんなことをするのか。
歯がゆい気持ちが込み上がって、リアムは治に問いただしたくなった。しかし、彼はもうここにはいない。
「埜上は? 奈々が追っていったようですけど……」
リアムは問いを重ねるが、誰も応じなかった。
答えは、誰にも分からなかったのだろう。
◇ ◇ ◇
「埜上! 埜上ってば!」
呼び掛けながら、私は必死に埜上のことを追いかけていた。
時刻はもう夕方で、夕日が空を、それに辺り一帯をオレンジ色に照らし出していた。
どこからともなくヒグラシの鳴き声が聞こえてきて、雑草が生い茂った近くの空き地からはキリギリスの鳴き声が絶え間なく響き渡っている。それ以外にも様々な種類の虫が各々鳴いていて、人によってはやかましく感じそうなくらいだった。そんな喧騒の中でも、私の声は間違いなく埜上に届いているはずだった。
けれど、彼は足を止めてくれない。それどころか、私を突き放すようにさらに速度を上げ、走り続けるだけだった。
「埜上! ちょっと埜上!」
埜上がいきなり晴斗君の手を振り払い、そして逃げるようにミュージックハウス翼を飛び出した。
驚きとともに困惑したけれど、私は反射的に彼のことを追いかけてしまった。どうしてなのかは分からないけれど、そうしなければいけない気がしたのだ。
「待ちなさいって、埜上!」
やはり、埜上は立ち止まらなかった。私の声は聞こえているのだけれど、拒絶されているのだ。
全力で追いかけていても、彼の後ろ姿はぐんぐん遠ざかっていく。運動は不得意じゃないけれど、埜上のほうが体力があることは明らかだった。それに私はサンダルを履いているので、思うように走ることができない。
加えて夕方になって昼間より下がっているとはいえ、気温は高かった。たちまち私は体力切れになり、足を止めてしまった。
「はあっ、はあ……!」
膝に手を付き、身を屈めてしまう。頬を伝った汗が、アスファルトで舗装された道路に滴り落ちるのが分かった。
息を荒げながら、私はどうにか顔を上げた。
遠ざかりゆく埜上の背中を見て、昔の出来事が呼び起こされる。
――それは小学校の頃、バンドを去ろうとする埜上を説得しようとした時の記憶。
私はもちろん、リアムや光彦も必死に引き留めたけど、埜上の答えは変わらなかった。
愛歌さんのことがあって、心に大きな傷を負った彼の悲しげな表情が、今でも頭に残り続けている。どうにかして助けたかった、救いたかったのだけれど……私や皆が何を言っても、埜上には届かなかったのだ。
去っていく彼の背中を、見ていることしかできなかった。
そして今、同じ出来事が繰り返されようとしている。今ここで埜上が行ってしまったら、もう彼は二度と戻ってこない。そして私は、より重くなった後悔を抱えて一生を過ごすことになる――証拠なんてどこにもないはずなのに、私にはそれが分かった。
「うっ、ぐっ……!」
それを実感した途端、胸が締め付けられるように痛くなって、涙が込み上がってきた。
そんなのは、絶対に嫌だ。失いたくない、行ってほしくない……!
だって……彼は私の憧れで、私を救ってくれたヒーローで、そして……。
私の、『好きな人』なんだもの!
「“治”っ!!!!!」
余力のすべてを振り絞って張り上げた声で、掻き消されたように周囲から音が消失した。
でも、それも一瞬だった。数秒が過ぎた時には、すぐに私の鼓膜を再び虫の鳴き声が揺らし始めた。
我に返った時、私は今自分が放った言葉について思考を巡らせた。無我夢中で、無意識だったけれど……私は今、埜上のことを名前で呼んだ。記憶している限りでは、小学校の頃以来に……彼を『埜上』ではなく『治』と呼んだのだ。
効果は劇的だった。
何度呼び掛けても振り返るどころか、足を止めることすらなかった埜上が……立ち止まっていた。
「っ……!」
やっと反応してくれた、でも喜んでいる暇はない。
私はすぐに彼の背中に向かって駆け出して、声が聞こえるくらいの位置にまで距離を詰めた。
埜上は、それでも振り返らなかった。夕焼けを背に受けながら、まるで銅像のようにその場に立ち尽くしているだけだった。
「ねえ、どうしたの……?」
埜上を必死に追いかけたせいで、私も呼吸が弾んでいた。
それでも彼の口から答えが聞きたくて、どうにか声を出す。
「あんなことをしてまでドラムを叩きたくないの? もう、ドラムが嫌いになっちゃったの……!?」
晴斗君の手を乱暴に振り払う埜上の姿を思い出しながら、私は問いかけた。
少なくとも、私の知っている彼はあんなことをする人じゃなかった。自分を慕ってくれている子に手をあげるだなんて、信じられなかった。優しくてかっこよくて、いつも自分以上に友達を思い遣っていた埜上とは、どう考えても結びつかない行動だったのだ。
私が投げかけたのは質問だったのだけれど、哀願でもあった。
どうしても、今の埜上の思いを言葉にしてほしかったのだ。
「『叩きたくない』んじゃない……」
私のほうを瞥見しながら、埜上は発した。
呟くように発せられた彼の言葉は、虫の鳴き声に掻き消されてしまいそうなほどに小さかった。
「俺はもう、ドラムを『叩けない』んだ……!」




