第30話 蘇る痛み
「治君かい? 久しぶりだね!」
暮橋に連れられて、俺はミュージックハウス翼に入った。
そこには大人も子供も、ざっと十数人くらいの人がいて、中には知り合いの人もいた。話し掛けてきたのは、石塚さんという人だ。俺がまだバンドに在籍していた頃からここに出入りしていて、やっちさんにギターを習っている人である。
石塚さん以外にも、俺がかつて縁を繋いだ人の数人が話し掛けてきた。お陰で、数年ぶりに訪れたミュージックハウス翼の中を懐かしむ余裕すらない。
どの人とも数年ぶりの再会だったので、ドギマギしてしまって……ぎこちない返答しかできなかった。
「やっちさん!」
暮橋が声を上げた先には、やっちさんがいた。
「お……治!」
やっちさんが振り返ると、即座に俺と視線が重なった。
冷蔵庫から食材を取り出していたようだが、やっちさんはその作業を切り上げてこちらに歩み寄ってきた。
「来てくれたんだね、嬉しいよ」
「どうも……来ちゃいました」
軽く頭を下げ、ぎこちなく応じた。
正確には、ここに来る直前に引き返そうとしていた。でも偶然光彦と出くわし、半ば連行される形で来てしまったのだ。
というか今気づけば、もし暮橋が連れ添ってくれなかったら……俺はここに単騎突入することになっていただろう。数年ぶりにやっちさんや他の人達と顔を合わせるのだ、ひとりだったら来づらいことこの上なかったはずだ。
暮橋には感謝しなきゃならないな……というか、どうして俺のためにそこまでしてくれるのだろうか?
気にはなったけれど、とりあえず今はそれより大事なことがある。俺は後ろポケットから財布を取り出した。
「会費、払います」
じいちゃんがくれた数千円を差し出すと、やっちさんは「ありがとう、確かに」と言って受け取った。
「でも、俺なんかが来てよかったんですかね? バンド辞めてからもう三年くらい経つのに……」
気を紛らわそうと、無意味に後頭部を掻きむしりながら訊いた。
今は来ていなくても、ミュージックハウス翼に通っていたことがある人なら誰でも来ていい。そのことは知っていたのだが、どうしても気が引けてしまったのだ。
「よかったよ」
すると、やっちさんの代わりにそばにいた暮橋が口を開いた。
「今は来ていなくても、昔ここに来てた人にだって参加資格はあるんだから……だからそんなこと、全然気にしなくていいんだよ」
思いがけずかけられた言葉には、気遣いの気持ちが溢れているように思えた。
どう応じていいのか分からなくて、何も言えなくなってしまう。
「そうですよね? やっちさん」
「そのとおり。治、せっかく来てくれたんだから、今日は楽しんでね」
内心、俺は面食らった。
アウェーになると思っていた。あんな形で一方的にバンドを去っておいて、どのツラ下げて来たんだと言われると思っていた。
昔から温厚で面倒見のいいやっちさんや、他の人達はともかく、暮橋からもこんな言葉をかけられるだなんて……まったくの予想外だったのだ。
「ありがとうございますやっちさん、その……暮橋も」
ふたりの気遣いに、俺は感謝するしかなかった。
「それじゃやっちさん、私残りの飲み物とクーラーボックス運んでおきますね。埜上、手伝ってくれない?」
「あ、そりゃもちろん」
力仕事なら、多少は役に立てそうだった。
それにさりげなく暮橋は、俺がひとりになって居づらくならないように配慮してくれているのかもしれなかった。
「よろしく頼むね!」
やっちさんが応じる。
暮橋が「行こう」と促してきて、その背中を追おうとした。
横のほうから不意に小さい子が駆けてきて、ぶつかってしまったのだ。
「うわっと!」
さほど衝撃はなかったけれど、跳ね返る形でその子は後方によろけた。
見たところ、小学三年から四年くらいの男の子だ。おそらくは、やっちさんの生徒なのだろう。かつて俺がそうだったように、このミュージックハウス翼に音楽を習いに来ている子なのだ。
「ちょ、危ないよ……!」
暮橋の言葉に応じず、俺は慌ててその子に駆け寄った。
「ごめん、大丈夫?」
不意のこととはいえ、俺の不注意が招いた事故だ。
「すみません、こちらこそ……」
謝りながら、男の子が顔を上げる。
その顔を間近で見て、俺は気づいた。
「ん? あれ……晴斗?」
当初は分からなかった。しかし彼はなんと、俺がミュージックハウス翼に通っていた頃に縁があった子だったのだ。
名前は、塩見晴斗。三つ年下で、俺と同じようにドラムをやっている子だ。
少し年が違ったけれど、ドラムを習っているという共通点から知り合って、何度かドラムの稽古をつけてあげたこともあった。
「埜上さん、やっぱり埜上さんだ! お久しぶりです!」
嬉々とした様子の晴斗だったが、俺は少し表情を強張らせた。
晴斗の右手に、ドラムスティックが握られていることに気づいたからだ。
今の俺にとって、それはトラウマを再燃させる根源。誇張抜きにして、恐怖の対象に他ならなかった。
「あ、ああ……久しぶりだな」
どうにか、応じることはできた。
しかし、晴斗は俺にドラムスティックを差し出してきた。
「埜上さん、またドラム叩いてみてくださいよ。埜上さんのスーパードラミング、僕また見たいです!」
「ちょっ……悪い晴斗、俺もうドラムは……!」
俺はもう、ドラムを叩かない。
いや、叩けないのだ。ドラムスティックに触ろうとすれば、過去の苦い記憶が頭に浮かび、たちまち埋め尽くされてしまう……俺は今、『ドラムスティック恐怖症』なのだから。
だけど、晴斗はそんな事情を知るはずがないし、説明しようにもどう言えばいいのか見当もつかない。
「どうしたんですか、ほら昔みたいに!」
「いや、だから……!」
悪意とかはなしに、晴斗が純粋にドラムを叩いてほしい一心なのだ。
前へ前へと差し出されるドラムスティックが、危うく俺の手に触れそうになった時だった。
走馬灯のように、その記憶が浮かび上がった。
小学校の頃に美玲と出会い、そして彼女の病気を悪化させたこと。吐血する彼女、その血がこびり付いた俺の腕。さらには美玲の母さんに糾弾されたこと――罪悪感と自責が、突き上げるように込み上がってきたのだ。
「うああああああっ!」
我に返った時――俺は叫び声を上げながら、晴斗の手を思い切り払い除けていた。
彼の手から離れたドラムスティックが、ミュージックハウス翼の床に転がる。
「えっ……?」
俺に暴力を振るわれた晴斗が、まばたきもせずにこっちを見ていた。
暮橋も、やっちさんも……周りにいた人達が、皆こちらに視線を向けているのが分かった。
もう、苦い記憶のフラッシュバックは止んでいた。しかし、俺の手は震え続けていた。それは初めての時と変わらない、ドラムスティック恐怖症の症状に他ならなかった。
浴びるような視線に、俺は耐えられなかった。
「わ、悪い……ほんと、悪い……!」
晴斗の顔を見もせずに、俺は中身のない謝罪の言葉を発した。
逃げ出したいという衝動が込み上がる。もう、ここにいることはできなかった。
視線から逃れるように、俺は一目散に入り口に向かって駆け出した。
「ちょっ……埜上!」
暮橋の声が聞こえた、でも俺は応じなかった。振り向くことすらしなかった。




