第27話 大いなる力には……
「んー……」
自分の口から発した唸り声が、セミの鳴き声に混ざるのが分かった。
その理由は、俺が手にしているチラシ。下校中に木陰で休憩していて、不意にやっちさんから声を掛けられた。恩師との不意の再会には驚いたが、バーベキュー大会に誘われたことにはもっと驚いた。
帰宅した俺は着替えを済ませ、部屋の真ん中に仰向けに寝っ転がり、扇風機の風に当たりながらじっとチラシを眺めていた。
デカデカと書かれた『夏のバーベキュー大会 in ミュージックハウス翼』の見出し、さらには参加費や開始時刻、それに服を汚したくない人には紙エプロンを貸し出す旨などが記載されていた。やっちさんらしい細やかな気配り、昔から変わってないなと思った。
俺はもう、ミュージックハウス翼には行っていない。それでも、かつてあそこに通っていた人なら誰でも参加資格はあるとのこと。しかしながらやっぱり、やっちさんに『行きます』とは言えなくて、俺は『ちょっと考えさせてください』とだけ言って、とりあえずはこのチラシを貰って帰ってきた。
さて……どうしたもんだろう、と思う。
「治、いるのか?」
と、不意にドアの向こうからじいちゃんの声がして、俺は身を起こした。
「じいちゃん、何?」
俺が答えると、ドアが少しだけ開いて、じいちゃんがその顔を覗かせた。
「夕飯できたぞ、さっきから呼んでいたんだが、聞こえなかったか?」
「え、夕飯?」
俺は部屋の時計に視線を向けた。時刻はすでに午後七時に迫っていた。
もうこんな時間になっていたのかと、面食らう。
「ごめん、全然気づかなかった。ちょっと考え事しててさ」
俺はじいちゃんに釈明した。考え込んでると、時間が経つのは早いものだ。
「考え事? 何かあったのか?」
俺は少しためらって、手に持ったチラシをじいちゃんに差し出した。
じいちゃんを誤魔化すのは無理だと思うし、隠し事をするのはいい気がしない。それに何よりも、じいちゃんなら相談相手にはうってつけだと感じた。
「これさ」
「ん、これは……?」
俺からチラシを受け取ると、じいちゃんは目を細めるようにしてそれをじっと見つめた。
数秒後、じいちゃんは顔を上げて俺と視線を合わせ直した。
「へえ、ミュージックハウス翼でバーベキュー大会か。治、誘われたのか?」
「うん、今日帰ってくる時、やっちさんに会っちゃってさ」
それから、俺は経緯をじいちゃんに説明した。
久しぶりにやっちさんに会って、このチラシを貰って……行くかどうか決めあぐねている今に至るということを。
「康則君に? へえ、愛歌ちゃんの時といい、偶然は重なるものだな」
チラシを持ったまま、じいちゃんは言った。俺の保護者という立場上、じいちゃんはやっちさんと面識があるのだ。
美玲が俺と同じ高校に、しかも同じクラスに転校してきたというだけでも偶然が過ぎると感じていた。さらに今日は、やっちさんにまで遭遇してしまった。偶然は重なる……まったくもって、じいちゃんの言うとおりだった。
美玲と会話したということは、ひとまず伏せておこう。
「日時は次の土曜、参加費は二千五百円か……それで治、行くのか?」
チラシをじっと見つめたあとで、じいちゃんが問うてくる。
「そこが問題なのさ。ちょうど今、行くかどうか考えてたとこだよ」
部屋の片隅を見つめつつ、俺は言った。
やっちさんも言ってたように、俺のようにかつてミュージックハウス翼に通っていた人でも参加資格があるとのことだった。つまり行く権利はある……のだが、俺は『行く』と答えることができなかった。
その理由は言わずもがな、『行きにくい』のだ。
当然だろう。
ミュージックハウス翼に行かなくなってから、もう三年にもなる。バンドメイトだった暮橋達にはほとんど何も言わず、ただ一方的に『辞める』って言って去って、さらにはもう、俺はドラムを叩けない。
行ったところでアウェーになるだろうし、『お前、何で来たの?』って言われるのは目に見えている。
答えはもう、『行かない』で決まりのはずだった。
はずだったのに、どうしてだか俺は、頭に引っ掛かるものを感じていたのだ。
「治、そうは言いつつも、もう答えは出てるんじゃないのか?」
じいちゃんは俺の前に腰を下ろした。
窓の奥からは、セミの鳴き声が相変わらず響き続けていた。
「行く気がないのなら、そもそもこんなチラシは貰ってこないだろう?」
俺が渡したチラシをかざしつつ、じいちゃんは言った。
そのとおりだと思った。
「そうやって考えているということは、お前の中に少なからず『行きたい』という気持ちがある証拠だ」
いつものように、優しい笑みを浮かべてじいちゃんが諭してくる。
「でも、あんな逃げるようにバンドを辞めて、どのツラでミュージックハウス翼に行けば……」
「いや、だからこそ……行くべきなんじゃないか? 愛歌ちゃんのことがあってから、ずっとお前は思い悩んできた……これはもしかすると、その重荷を捨てるチャンスに繋がるかもしれないぞ」
まばたきも忘れて、俺はじいちゃんの顔を見つめた。
じいちゃんにはお見通しみたいだ、やっちさんに誘われたバーベキュー大会……これがもしかしたら、俺がずっと背負い込んできたものと決着をつける機会なのかもしれない、そう思っていたことに。
ドラムを辞めてから、欠けたようになってしまった日々。それが元通りになるだなんてことは期待していないけれど、せめて少しでも気が楽になればと思っていた。
ドラムは、もう叩かない。
もう二度と……絶対にな。
暮橋にはああ言ったけれど、やっぱり奥底では俺は、ドラムへの未練を捨てきれていないみたいだ。だからこそ、公園でドラムスティックのような木の枝を見つけた時、思わずそれを手に取ってしまったのだと思う。
ドラムスティック恐怖症は、未だに治っていない。
でも、直せるものなら直したい……今さらバンドに戻りたいだなんて思っちゃいないが、少しでも気が晴れれば……そう思っていた。
「でも、俺が行っても喜ぶ人なんて……」
「きっといるとも、奈々ちゃん達はまだ、バンドを続けているんだろう?」
確かにそうだ。
それに暮橋からは、ついこの前に『もう、ドラムは叩かないのか』と訊かれたばかりだ。
「奈々ちゃんの他にも、リアム君や光彦君……案外今でも、お前が『帰ってくる』のを待っているかもしれないぞ」
俺は何も言わなかった。
もしじいちゃんの言うとおりなら、それはもう奇跡に近いことのように思えた。
しかしながら、暮橋や光彦(もうしばらく会っていないが)は分からないけど、少なくとも阿隝は俺が帰ってくることは望んでいないと思う。今朝素っ気ない態度を取られたことが、そう思う根拠だ。
「このままでは、いつまでも苦しいままだ。お前は向き合わなければならない、友達とも、お前自身ともな」
隣に座っていたじいちゃんが、ゆっくりと立ち上がった。
「怖がる必要なんてないさ、お前には『優しさ』という力があるからな。スパイダーマンだって言っていただろう?」
じいちゃんが手の平で指した先を目で追うと、フックに掛けられたスパイダーマンのキーホルダーがぶら下がっていた。
「“大いなる力には……”」
そこで、じいちゃんは言葉を止めた。
スパイダーマンの象徴と称して間違いのない、とてつもなく有名な名言だ。
美玲を助けるか、助けないか。小学校時代の俺には選択権があった。そしてあの時俺が出した答えが、今に繋がっている。
苦みや痛みも受け止めながら、向き合うこと。
それこそが、俺が今やらなきゃいけないこと……じいちゃんの話を聞いていて、そう思えてきた。
「“大いなる責任が伴う”」
俺は、じいちゃんの言葉を繋げた。




