第24話 リアム
「ああもう、くそっ! ついてねえ……!」
その日の朝、俺は学校に向かって全力疾走していた。
自転車はどうしたのかって? ごもっともな質問だ。雪の降らない時期なら、基本的に俺は自転車通学する。だから、こんな夏の時期に走って登校するだなんてことはまずありえない。
俺の自転車……高校に入学してから三か月と数日間、登校と下校を共にした相棒の急病が発覚したのは、ほんの数分前のことだった。病名はタイヤのパンク病。原因は分からない……というかそもそも調べる時間がなかった。
当然ながら、俺は自転車に乗って学校に向かうことを前提に朝の時間配分を組んでいる。
起床時間も、朝飯の時間も、着替えや歯磨きなどの身支度も、全部すべてだ。当然、自転車が使えないというイレギュラーな事態が食い込めば、時間内に学校に到着することは困難になってしまうのだ。
朝からこんなことになるとは、とてつもない厄日だ。
「やべ……!」
ひた走る最中で、俺はポケットからスマホを取り出して時刻表示を確認した。
現在時刻、学校までの距離、それに俺の走る速度から割り出した結果、このままでは間に合う確率は五分五分ってところだ。くっ、まずい。俺のクラスの担任の先生は遅刻に非常にうるさく、一週間ほど前に遅刻をやらかした生徒が長々とお説教を喰らっているのを見たことがあった。同じ目に遭うのは、何としてでも避けたい。
横着して自転車の整備を怠っていた俺が悪いのは分かるが、とにかく今は遅刻の回避を最優先に考えなければ。そう結論を出した俺は、ある解決策を取ることに決めた。
――近道をしよう。
ある理由があって、いつもは避けている道がある。そこを通れば間に合う確率が高いのだが、それ相応のリスクがあった。
けど、今日は仕方がない。
注意して進んでいけば、きっと大丈夫――と思った矢先だった。
「いっ!?」
曲がり角の先で、出くわしてしまった。
景南工業高校の生徒三人のグループ――全員が髪を茶色く染めていて、ピアスをしていて、その顔には大いに見覚えがあった。
それもそのはず、ついこの前に美玲に言い寄っていた連中だ。
「あ? お前……」
学校への近道だというのに、いつもこの道を避けて遠回りしていた理由――それは、ここが景南の連中の通学路だということだった。ガラの悪い連中に近づくのが嫌で、俺はあえてここを通らないようにしていたのだ。
注意が足りなかった。遅刻しそうだといえども、やっぱりこの道は通るべきではなかったのだ。
「カッコつけて調子に乗ってた奴だよな、ちょうどイラついてたんだ。こないだの続きだ……!」
「ちょ、ちょっ……!」
三人の中でも一番身体が大きくて、リーダー格と思しき奴(この前、俺をボコった奴だ)が拳を鳴らしながら歩み出てきた。その威圧感に、俺は逃げることも忘れてしまっていた。
数分前に戻りたいと思った。こうなることが分かっていれば、絶対にこの道は通らなかったに違いない。
美玲を庇い、こいつらにボコられた時の記憶が否応なく思い返される。
あの場から美玲を逃がすことこそできたものの、三人相手に成す術もなく、顔面パンチから始まって、次は腹部への蹴り、からの地面に突き倒されて最終的には集団リンチ……これからきっと、同じ目に遭わされるのだろう。
胸倉を掴み上げられ、俺は固く目を閉じた。
その時だった。
「何をしている?」
落ち着き払った声が、どこかから発せられた。
閉じていた目を開けて、声がしたほうを向く――ひとりの少年が、自転車から降りながらこちらに視線を向けていた。
彼は、俺と同じ高校の制服を着ていた。青みを含んだ瞳と、少し独特なその顔立ちに、大いに見覚えがあった。
「あ……!?」
近くで顔を見たのはいつ以来だろう。それでも俺には、彼が阿嶋リアムだと分かった。
暮橋と同じくかつての俺のバンドメイトで、ギターとボーカルを担当していた、言わばバンドの顔ともいえる存在だった少年だ。
小学校の頃からクラスこそ違い、同じ高校に進学した今でもクラスメイトになることはなかったが、それでも女子からモテにモテているということは聞いていた。
成績も良くて運動もできる、クールな気質を備え、顔もスタイルも良い。女子がすれ違えば、恐らく全員が振り返るであろう学年の最強色男――そんな彼が突然現れたことには驚いた。
驚いたが、俺はすぐに状況を思い出して、叫んだ。
「ちょっ、逃げろ! 早く!」
俺は叫んだ。
ここにいたら、あいつまで景南生の餌食にされかねないからだ。
だが、阿隝は俺の言葉など聞こえないかのように、何も言わずにこちらへと歩を進めてきた。
「三対一か、群れないと喧嘩もできないとは」
あまつさえ、挑発するような言葉まで投げかけた。
俺の胸倉が解放される。
「誰だ、てめえは?」
代わりに景南生達はリアムのほうへと歩を進め始めた。
ターゲットは完全に、俺から阿隝へと代わったようだった。
「舐めた口きいてると、痛い目に……!」
さっき俺にそうしたように、リーダー格の景南生が阿隝の胸元に手を伸ばす。
俺は思わず、『危ない!』と声を出すところだった。
だが、その声は出なかった。出なかったというか、出す暇もなかった。
――阿隝が自らに向けて伸ばされた景南生の腕を掴み返した次の瞬間、景南生の身体が宙に浮き、ぐらりと回転し、背中から地面に叩き付けられた。
「うげっ!」
奇妙な声を出したと思うと、景南生は腰を押さえたままゴロゴロと地面をのたうち回った。
続けざまにあとの景南生ふたりも襲い掛かったのだが、まるで敵にはならなかった。ひとりは背負い投げで、もうひとりは足払いで転倒させられ、一瞬と呼べる時間のあいだに無力化されてしまう。
小さかった頃から阿隝は柔道を嗜んでいた。高校生になった今でも習い続けているのかは分からないが、少なくとも腕が衰えていないことは明らかだった。
景南生達はフラフラと立ち上がり、「くそっ!」などと捨て台詞を残して走り去っていく。力の差を感じ取り、勝てないと察したようだった。
「ふん」
鼻で笑った阿隝が、背を向けて自転車へと歩み寄っていく。
「あ、ちょ、ちょっと!」
俺は思わず、呼び止めた。
「そ、その……ありがとな。助けてくれて……」
小学校の頃、バンドを去ってから数年。
阿隝に話し掛けるのも、もういつ以来だったか思い出せなかった。
少しのあいだ、阿隝は無言でその場にいた。返事どころか、俺のほうを振り向くことすらなかった。
俺の言葉が聞こえなかったのだろうか、と思ったけれど、どう考えても聞き逃すほどの距離は開いていない。
「遅刻するぞ」
重ねて呼び掛けようとした時、やはり俺に背中を向けたまま阿隝は言った。
そして彼は自転車に乗ると、俺の横を通り過ぎて走り去っていく。俺にはまったく視線を向けなかった。
助けてくれたことには感謝しなければならなかった。だけど、阿隝の態度が何となく冷たく感じられた。昔からクールな気質だったことは知ってるが、決して阿隝は冷たい奴じゃなかったはずだ。
どうして……とは思ったけれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
阿隝の言う通り、このままだと遅刻してしまう。
モヤモヤした思いを抱えつつも、俺は再び学校を目指して走り始めた。




