第22話 私が憧れたヒーロー
バンドを抜けると埜上が言った時、もちろん私は引き留めた。ううん、私だけじゃない。リアムも光彦も、やっちさんも……彼にバンドに残ってくれるよう求めた。
でも、埜上の答えは変わらなかった。
――俺、バンド辞めるわ。
どんな言葉をかけても、彼はただそう言って、振り払うように私達の前から走り去っていくだけだったのだ。
私達はバンドのリーダーを、そして『要』を失った。
ドラムはリズムの担い手、テンポコントロールの主導権を握る大黒柱……それが不在なら、バンドは成立しない。
それに何より、仲間をひとり失った私達の心には、大きな爪痕が残ってしまったのだ。
「はあ……」
椅子の背にもたれかかって、天井を見上げる。
こんなことは、もう何度も考えたはずだった。考えに考えて、後悔して……もう、忘れようと思ったはずだった。諦めきるのは無理だったけれど、それでも埜上がいなくなってしまったことを受け入れ、前向きになろうと思った。
だけどその矢先……愛歌さんが転校してきて、押し込めていた気持ちが再燃してしまったようだった。
「っ……」
こんな形で、彼女と再会することになるなんて。
まだ話したこともないけれど、私は彼女とどう接すればいいのだろう? どんな言葉をかければいいのだろう?
だって、彼女は……そう思った時だった。
「奈々、一緒にアイス食べよー!」
ノックもなしに扉が開かれて、いきなりお姉ちゃんが部屋に入ってきたのだ。
どうやらお風呂上がりらしく、お姉ちゃんは短パンにタンクトップといういつも通りのラフな格好で、その片手にはバニラ味のアイスバーが二本提げられていた。
「はわっ!? ちょ、お姉ちゃん!」
仰天した私は、思わず机の上の創作ノートを取り上げた。だって恥ずかしくて見られたくないもの!
しかし、焦りで手元が狂ってそれを落としてしまい、ノートは開かれたまま、お姉ちゃんの目の前に落ちた。
「ん? 何これ? 『もう一度だけ』……?」
ノートを拾い上げたお姉ちゃんが、まじまじと見つめる。
私は慌てて駆け寄った。
「ああああっ!? 見ないで、お姉ちゃん返してっ!」
奪い取るようにノートをひったくって、私はそれを胸元に抱え込んだ。
でも、時すでに遅し。書きかけの歌詞は、しっかりとお姉ちゃんに見られてしまったようだった。
「奈々、それ……あんたが書いたの?」
「そ、そうだよ悪い? お姉ちゃん、ノックくらいしてよね……!」
「あはは、ごめんごめん。手打ち料あげるから許してよ」
ぴらぴらと手を振りながら、お姉ちゃんは軽い感じで言った。
私は創作ノートを机に置いた。まったくもう、姉妹とはいえプライバシーはあるんだから、ちゃんと配慮はしてくれないと……!
憤慨する私をよそに、お姉ちゃんはベッドに腰を下ろした。
「ほら、バニラアイス。あんた好きなんでしょ?」
まるで何事もなかったかのように、お姉ちゃんは手打ち料……つまりバニラ味のアイスバーを差し出してきた。
いきなり部屋に入ってきといて……と思ったけど、とりあえず私はそれを受け取った。お姉ちゃんの言うように、好物だったからだ。
根っから好きというより……小学生の頃、スタジオでこれを皆で食べた思い出があるからだろう。
袋を開けて、アイスに口を付ける。バニラ味のほのかな甘みが、口の中に広がった。
「ねえ奈々、ノートに書いてたあれって、新しい曲の歌詞なの?」
お姉ちゃんが訊いてきて、私はまた顔を赤らめた。
「そ、そうだよ。夏のバーベキュー大会で発表しようと思ってる曲の歌詞だけど……悪い?」
「いや、全然悪くなんかないって。ていうか、素敵な歌詞書くようになったじゃん」
いずれ歌として発表するのだから、どうせ人に聞かせることにはなる。だけど、相手がお姉ちゃんだということもあるのかもしれないけれど……書きかけの歌詞を見られるのは、どうしても恥ずかしかった。
さらに、私が書いた歌詞をお姉ちゃんが褒めてくれて……今度は照れてしまって、私はごまかすようにアイスバーにかじりついた。
「奈々、あの曲さ……もしかして、治君のことを歌ったんじゃないの?」
「はうっ!?」
お姉ちゃんの言葉に、顔がさらに赤らむのが分かった。
返答はできなかったけど、私のリアクションで答えを察せられてしまった。
「やっぱりね、そうだと思ったよ」
小学校の頃、私は埜上の家に遊びに行ったことがあるし、埜上も私の家に遊びに来たことがある。
だからお姉ちゃんも、埜上とは面識があった。
もちろんお姉ちゃんは、埜上がバンドを抜けてしまい、私や他の仲間達とは疎遠になってしまったことも知っている。
アイスバーを食べ終えた私は、棒をゴミ箱に放り込んだ。
「お姉ちゃん、今でもさ……私思うんだよね」
「何を?」
気づいたら、私は思っていたことを語り始めていた。
「無理やりにでも引き留めていれば……埜上は今でも、バンドにいてくれていたんじゃないかなって。彼を説得するのは、本当に無理だったのかなって……」
埜上が傷つき、バンドを離れた経緯は私も知ってる。
結果を見れば、確かに彼がやったことは間違いだったと言えなくはない。それでも、動機はあくまで愛歌さんを助けたかったからなのだ。いじめられっ子だった私に手を差し伸べてくれたように、彼は愛歌さんを救いたかっただけ……それなのに、その優しさをあんな形で……。
バンドを辞めるなんて言わないで、治は悪くない、もう一度ドラムを叩いて……彼を引き留めるために、私は他にも多くの言葉を投げかけた。でも結局、埜上の結論は覆らなかった。
もっと心に響く、彼を踏みとどまらせられる言葉があったのではないか……今でも私は、そう思う。
「引き留めることはできなかったかもしれない。でも、治君を『連れ戻す』ことは、できるんじゃない?」
「え……」
お姉ちゃんを振り返ると、それまでとは打って変わったような真剣な眼差しが向けられていた。
「奈々、治君が好きなんでしょ? それとも、その気持ちは過去の話?」
「っ……」
私は思わず息をのんだ。
不思議なことに、私の埜上への気持ちを図星で言い当てられてしまったはずなのに、恥ずかしさは感じなかった。
お姉ちゃんの質問に、私は今一度昨日の出来事を思い返した。
倒れた人を助けるために、懸命に尽力する埜上……あの場にいて、私は確かに自分が好意を抱いた彼の姿を垣間見た。困った人を見ると放っておけない、優しい男の子……ドラムを辞めてバンドを去ってしまい、長い時を経て冷めてしまったように見えても、中身は昔のままだと思った。
彼はまだ、私が憧れたヒーローだった。
「過去の話なんかじゃないよ、私は今でも彼が……!」
お姉ちゃんの言葉を否定するように言った時、私は我に返った。
自分で言っておいて、急に恥ずかしくなってきたのだ。
「はは、ついこの間まで『お姉ちゃん! お姉ちゃん!』って私の後ろをついて来てた子が、いつの間にかすっかり『女の子』になったもんだねえ」
「も、もうっ!」
からかうようなお姉ちゃんの言葉に、私はただそっぽを向くことしかできなかった。
すると後ろから物音が聞こえて、振り向くとお姉ちゃんがベッドから立ち上がり、ドアのほうに向かっていた。
「あと五年で奈々も酒が飲める年になることだし、その時は居酒屋であんたの恋バナを聞いてあげるわ。その時まで、存分に青春を過ごしな」
「お姉ちゃん……」
「じゃ、おやすみ」
そう言い残して、お姉ちゃんが出て行った。
静けさを取り戻した部屋で、私は再び創作ノートを開いてシャーペンを手に取った。
お姉ちゃんの言葉を思い出す。
“引き留めることはできなかったかもしれない。でも、治君を『連れ戻す』ことは、できるんじゃない?”
連れ戻す……か。
可能性は低いように思えた。だけど、帰ってきてほしいのは確かだった。
「報われなかったとしても、誰かを好きになったっていうことは、私の人生の一部になるはずだから」
自分自身に言い聞かせるように、私は小声で言った。




