第21話 どれほどそう言いたかっただろう
小学校に入ってから、五度目の夏。
今から四年前の八月七日――その日は私の十一歳の誕生日で、夏の定期ライヴがあった日で……そして、私にとって生涯忘れられない一日だった。
ライヴはとっても盛り上がって大成功、見に来てくれた人達も大きな拍手をくれて……浴衣姿の私を、たくさんの人が『可愛い』と言ってくれた。
誕生日だし主役だからって、さすがに浴衣姿でステージに立つのはちょっと……って当初はためらってたけれど、みんなの提案を受け入れて正解だったと思ったのを、今でも覚えてる。
「みんな、ありがとう。今日のライヴ、今までで一番楽しかったよ」
ライヴ終了後、ミュージックハウス翼のスタジオの片隅に設置されたベンチに腰掛けて、私は三人のバンドメイト達にお礼を言った。
リアムと光彦と、その頃はまだ埜上も在籍していた。
「そうだろうな。奈々、今までで一番楽しそうにギター弾いてたし、歌ってたぜ」
埜上がそう言ってくれたのを、今でも鮮明に覚えてる。
彼が私を下の名前で呼んでくれていたあの頃が……今ではまるで、遠い昔のことのようだった。
「上出来だった、今日のライヴは文句なしだな」
「奈々さん、浴衣すっごく似合ってますからね!」
リアムはいつものように堅くて、光彦はいつものように無邪気だった。
スタジオの防音扉が開いて、やっちさんが手を叩きながら入ってくる。
「素晴らしいライヴだったよ皆。冗談抜きで、どの曲もベストテイクだったと思う」
私は、ベンチから立ち上がった。
「ありがとうございます、やっちさん!」
私を主役にライヴをしようというのは埜上達の提案だったけど、浴衣姿でステージに立つというのはやっちさんの提案だった。
バンドメイトの皆はもちろん、このライヴが最高の形で終わったのは、やっちさんのお陰でもあったのだ。
「いやいや、お礼を言うのはむしろこっちのほうさ。やっぱり君達は素晴らしいバンドだね」
やっちさんの言葉に、私は笑みを浮かべた。
埜上も光彦も、めったに笑わないリアムさえも……笑っていた。
「さて、皆そろそろ時間だろう?」
腕時計を見ながら、やっちさんが言った。
ライヴが終わった頃にはもう、時刻は夜七時に差し掛かっていた。
この後にも、まだ私達には予定があったのだ。
「あっと、もうそんな時間か。それじゃ皆、行くか」
埜上がそう言った。
ライヴの後、私達はお祭りに出掛けた。
それはミュージックハウス翼からほど遠くない神社で開催されるお祭りで、私達はほぼ毎年、バンドメイト全員で参加していた。私がライヴ終了後も浴衣を着替えなかったのは、お祭りに行くことになっていたからだ。
例年通り、私達は存分にお祭りを楽しんだ。
タコ焼きや焼きそばにイカ焼き、かき氷、チョコバナナにりんご飴……他にも美味しい食べ物がたくさん売っていて、くじ引きとか射的とか型抜きとか、面白い出店がたくさん並んでいた。
リアムがくじ引きでプラモデルを当てていて、光彦が本気で型抜きに望んでいたのを覚えてる。
ふたりが楽しんでるのを見て、私もちょっと遊びたくなって……ふと目に入ったのが、金魚すくいだった。
「奈々、金魚すくいやりたいのか?」
埜上がそう言ってきて、私は頷いた。
お金を払って、店主のおじさんからポイとお椀を受け取り、私は浴衣の袖を捲って金魚すくいに臨んだ。
水槽の中には、数え切れないほどの金魚が泳ぎ回っていた。その中でも、一際大きくて鮮やかな赤色をした金魚を見つけて……私は、その金魚を狙うことにした。
しかしながら、
「ああっ……!」
ポイはすぐに破れてしまった。当然ながら、上手く掬うことなんかできなかったのだ。
「貸してみ、俺がやってやるよ」
と、私の隣に埜上がしゃがみ込んだ。
お金を払っておじさんからポイとお椀を受け取ると、埜上はさっき私が掬おうとしたあの金魚に狙いを定めた。
少しの間、埜上はじっと金魚を見つめ続けていた。
「ほっ!」
すると彼は、私が取りたかったあの金魚を、いとも容易くお椀に放り込んでしまったのだ。
どうしてそんなことができたのか全然分からなくて、私は驚きに目を見開いた。
「す、すごい……! 治、どうしてできるの?」
「コツがあるのさ。ポイは水の中では平行に動かして、なるべく負荷を抑えること。それから、金魚が水面近くでじっとしている瞬間を狙って、尾じゃなくて頭のほうから掬う。じいちゃんに教えてもらったんだ」
ポイとお椀を店主のおじさんに渡しつつ、埜上がすらすらと説明した。
「へえ、坊主、よく知ってるじゃないか」
店主のおじさんが感心しながら、埜上に金魚袋を手渡す。
その中には、さっき彼が掬った金魚が泳いでいた。
「ほら奈々、やるよ。欲しかったんだろ?」
「えっ、いいの?」
予期せぬ埜上の言葉に、私はまた目を見開いた。
「ああ、俺からの誕生日プレゼントさ。おめでとう!」
埜上の言葉に、嬉しさに胸がいっぱいになったのを覚えている。
私は差し出された金魚袋を受け取って、彼に精一杯の感謝を伝えた。
「ありがとう、治……!」
その後も、私達は四人でお祭りを楽しんで、最後には花火を見て……帰宅することになった。
あの時に見た花火は、まさしく夏の夜に咲く花で、ほんの一瞬の煌めきではあったけれど、一生忘れられないほどに美しかった。
当初は四人全員で一緒に帰っていたけれど、最初に光彦が違う道を行くことになり、次にリアムも違う道を行くことになり……最終的に、私と埜上のふたりになった。
「ふう、今日は楽しかったな。ライヴも、祭りも」
「そうだね……」
とりとめのない会話をしながら、私は埜上と一緒に夜道を歩き続けた。
今思えば、小学生同士だったとはいえ、ふたりきりで歩いていて……傍から見れば、恋人同士に見えたのかな。
ほどなくして、埜上の家に到着した。
「それじゃ奈々、またな」
「うん、今日はありがとね治。この子、大切に育てるから」
金魚袋をかざしつつ、私は埜上に言った。
埜上が家に入っていき、ここから私はひとりで帰ることになる。
それがどこか寂しくも思えた。でも、袋の中で泳ぐ金魚を見つめたら……そんな寂しさも薄らいでいった。
金魚だけじゃなくて、あの日の出来事すべてが、最高の誕生日プレゼントだった。
忘れられない一日になったな……もうちょっと一緒にいたかったけれど、欲張っちゃダメだよね。
ほんの少しの切なさを胸に、夜道を歩き始めた時だった。
「奈々!」
不意に聞こえた埜上の声に、振り返った。
もう家に入ったと思っていた埜上が、私を追ってきていたのだ。
「えっ、どうしたの?」
埜上は、私から数メートルの場所まで近づくと、
「家まで送ってくよ、暗いしさ」
――その言葉を理解するのに、数秒を要した。
少しの間、何も言えなくなってしまって、頬が赤らんだのが分かった。でも辺りは暗くて、街灯以外には明かりも無かったから、埜上には気づかれなかったようだった。
埜上は何とも思っていなかったようだけど、彼から不意に発せられたそれは、まるで恋人に向けられた言葉のようだったのだ。
「あ……い、いいよ、だってそんなの治に悪いし……」
「気にすんなって、こんな夜道を女の子ひとりじゃ危ないだろ? さ、行こうぜ」
有無を言わさず……私は埜上に送っていってもらうことになってしまった。
申し訳なさ以上に、嬉しさが込み上がるのが分かった。もうちょっと彼と一緒にいたい、そんな私のワガママを、神様は聞き届けてくれたのだ。
私の家は、埜上の家からは逆方向なのに、そんなことをこれっぽっちも気にせず送り迎えをしてくれるなんて。
無邪気な表情を浮かべつつ隣を歩く埜上を見て、私は心から思った。
――自分は、この人のことが好きなんだと。
そして埜上は、私を家まで送り届けてくれた。
赤面していることを悟られないようにするのが大変だったけれど……それでも彼とふたりで夜道を歩ている間は、最高に幸せな気持ちだった。
「それじゃ奈々、今度こそじゃあな」
「ごめんね治、送ってくれて本当にありがとう」
私の家に着くと、埜上は手を振って立ち去ろうとした。
遠ざかっていく彼の背中――私は思わず、
「治っ!」
声を張り上げて、彼を呼び止めた。
足を止めて、埜上がこちらを振り返る。
「ん、どうした?」
怪訝な面持ちを浮かべる埜上。
私は、そこから何も言えなくなってしまった。
言いたいことは明白だったけれど……言えなかった。私には、伝える勇気がなかったのだ。
――好きだよ。
どれほどそう言いたかっただろう。
でも、私の口から出たのは、違う言葉だった。
「来年もさ、バンドの皆でお祭りに行こうよ」
本当に言いたかったのは、そんなことじゃなかった。
「ああ、もちろんさ」
そう言って、埜上はまた私に大きく手を振った。
歩き去っていく彼を、もう引き留めることはできなかった。
自分の気持ちを伝えられなかったことは、歯がゆくてもどかしかった。でも、今じゃなくてもいいと思った。
これからでもいい、来年の夏でもいい。そう思っていた。
もちろん、私はあの時……もうバンドの皆でお祭りに行くことができないとは、夢にも思っていなかった。
だって、その来年の夏休みに入る頃には、もう埜上はバンドを抜けてしまっていたから。
彼が隣にいる幸せな夏は、もう永遠に来なかった。




