第19話 もう二度と
「消防署から、君達にお礼を伝えてくれって言われたよ。実に道徳的な行動だった」
翌日の放課後、俺と暮橋は放課後に校長室へ呼ばれた。理由は、昨日俺達があの男性に施した救助活動だ。
心臓マッサージをやった後で、AEDによる処置を行っていた時、あの場に救急車が駆けつけた。男性が倒れた時の状況や、俺達がどんな処置を行ったのかを救急隊員に説明したのだが、さらに俺達のことも尋ねられた。
通っている高校や、俺達の名前も訊かれて、俺も暮橋もこれといって疑わずに答えた。
どうやら、あのやり取りが今の状況に繋がっているらしい。
「君達のお陰で、倒れた男性も助かったそうだ。早急な措置のお陰で、後遺症も残らずに済みそうとのことだよ」
大きな両袖デスクの上で両手を組ませ、俺と暮橋を交互に見つめながら校長先生が言った。
遠目で見る機会はいくらでもあった。しかしまさか、校長先生と直接話す機会が訪れるだなんて、夢にも思っちゃいなかった。
「そうだったんですか、良かったです……」
緊張した俺は、視線を泳がせてぎこちなく答えた。
隅々まで磨き上げられた校長室には、歴代の校長先生の写真が掛けられ、棚には数多くのトロフィーや盾が飾られていた。ゲン担ぎの意味があるのか、『福』という文字が書かれた大きなダルマまであった。
校長先生が座っている椅子の向こうには大きな窓があり、カーテンが開けっ放しになっていた。
道路を行き交う人々の姿が見えて、差し込む光が眩しく感じられた。
「埜上君、だったね? 君が率先して助けようとしたんだって?」
メタルフレームの眼鏡に触りつつ、校長先生が言った。
聞くところによると、この人は俺達が入学するほんの数か月前に校長になったばかりらしい。
校長に就任する以前から面倒見が良いと評判だったらしく、前々から生徒達と気さくに話しているのを見かけていた。ちなみに俺も一度、ゴミを捨てに向かっていた時に偶然廊下ですれ違い、『ご苦労様』と声を掛けられたことがあった。
優しげで親しみやすい雰囲気もあってなのだろう。校長先生の年齢は四十代半ばだそうだが、それ以上に若く感じられた。
「あ、いえ、俺は別に……救急車を呼んだのは、その……暮橋ですし」
隣に立つ暮橋を手の平で差しつつ、俺は言った。
彼女をどう呼ぶべきか迷ったけれど、やっぱり苗字で呼ぶのが妥当だと判断した。
小学校の頃こそ下の名前で呼んでいたけれど、もう彼女とは疎遠になって久しい。無暗に名前で呼んだら失礼だし、嫌がるだろうと思ったのだ。
しかし何にせよ、あの場で暮橋が協力してくれたのは大きかった。
というのも、彼女が救急車を呼んでくれたお陰で俺は男性の救命措置に専念できたのだ。もし暮橋が手を貸してくれなければ、手遅れになっていたかもしれない。
「っ……」
暮橋が俺を向き、かすかに声を出した。
改めて近くで顔を見て、本当に綺麗な女の子に成長したもんだと思った。
ボーイッシュだった小学校の頃とは一変していて、学年のアイドルと称されるだけのことはあると感じた。
「いいえ、私はただあの場に居合わせて、救急車を呼んだだけですから」
暮橋が答えると、校長先生が優しく笑みを浮かべた。
「はは、君達は謙虚だね。素晴らしい生徒がいて誇らしいよ」
その後、俺達は校長室を後にした。
この高校には一学年につき百五十人くらいの生徒がいるが、その中でも校長室に入ったことがある者はごく少数だと思う。一応、ここは市内でトップのレベルの高校だし、問題行動を起こして校長室に呼び出されるような生徒は俺の知る限り、いないし。
「まさか、こんなことになるなんてな……」
独り言のつもりだったのだが、
「そうだね……」
近くに暮橋がいることを忘れていた。
どうやら、俺達は校長室で十数分ほどの時を過ごしていたらしい。
すでに放課後を迎えたばかり、という時刻は過ぎていて、下校しようとする生徒の姿は見受けられなかった。部活動に勤しむ生徒の掛け声が、廊下の向こうから聞こえてきた。
暮橋とふたりきり……この状況が、俺にはどことなく気まずく感じられた。
適当に別れを告げて、さっさと帰ろう。
そう結論付けた俺が、『それじゃ』と言おうとした時だ。
「でもさ、すごかったね」
暮橋に先んじて話し掛けられ、口にしようとしていた言葉が押し戻された。
振り返ると、かつて俺とバンドを組んでいた少女が俺を見つめていた。その口元に、笑みが浮かんでいるように見える。
「何が?」
俺が問い返すと、
「心臓マッサージのやり方とか、あんなに詳しいなんて……どうして知ってたの?」
「あ……」
至極、もっともな疑問だと思った。
男性に心臓マッサージを施す際、胸が五センチくらい沈み込むくらいの強さでとか、垂直に体重をかけるようにするだとか……俺はその方法をひけらかすように語ってしまった。
救命措置の知識を持ち合わせていたお陰で、男性の命を救うことができたのは良かった。しかし今になって、何だか恥ずかしく思えてきた。
それもあったけれど、女の子らしく成長した暮橋と視線を重ねるのが、何だか気が引けて……校内に視線を泳がせながら、俺は言った。
「俺のじいちゃんもさ、心臓が悪いんだ」
「え?」
暮橋のほうを見ないまま、俺は続ける。
「それでじいちゃん、病院に通ってて、薬も飲んでて……もしも目の前でじいちゃんが倒れちゃったりして、何もできないなんて嫌だろ? だから、心臓が止まってしまった人を見たらどうすればいいか、前に本で読んだりして学んでたんだ。まさか、その知識がこんな形で役に立つだなんて、思いもしなかったけどな」
「そうだったんだ、おじいさんのために……」
暮橋は、俺のじいちゃんを知っている。
というか、暮橋もリアムも光彦も、俺んちに遊びに来たことがある友達はみんなじいちゃんと面識があった。俺が友達を呼ぶと、じいちゃんはいつもジュースやお菓子を出して迎えてくれたから。
そこで、俺はふと思い出した。
唯一、彼女にしか、暮橋にしか語っていないことがあったのだ。
それは、俺が幼くてガキだった頃に見ていたあの夢のこと。スパイダーマンになりたいという、とてつもなくバカげていてアホらしい、実現するはずのない夢だ。
俺さ、スパイダーマンになりたいんだ!
確か、小学校の頃に暮橋と知り合ってまもなく、ノリで語ってしまったんだと記憶している。時が過ぎて高校生になった今、思い出した途端に恥ずかしさが込み上がってきた。
暮橋は、俺のあのバカ丸出し黒歴史発言を覚えているのだろうか。
もう何年も前のことだし、さすがに……いや、でも絶対という保証も……!
「おさ……」
適当に会話を切り上げて、もうここから逃げようと思った時、暮橋が何かを言った。
「え?」
俺が振り向くと、暮橋は一旦視線を逸らし、改めて俺に向き直った。
「埜上……さ」
半ば無意識に、俺は息をのんだ。
俺もそうしているから当然といえば当然だったが、暮橋から苗字で呼ばれるのは初めてだった。
少しためらうような様子を見せつつ、暮橋が口を開いた。
「もう……ドラムは叩かないの?」
彼女が投げかけてきた予期せぬ質問に、俺はまばたきも忘れてしまった。
どうしてそんなことを訊くのか、と問い返そうと思った。だけど暮橋の眼差しは、そんな答えを望んでいるようなものではなかった。
俺の答えは、ひとつだけだった。
「ドラムは、もう叩かない」
振り切るように暮橋から視線を逸らして、俺は歩き始めた。
「もう二度と、絶対にな」