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ヒーローという言葉の意味を知らない僕達は。  作者: 虹色冒険書
高校生篇 再会・そして僕がヒーローになるまで
16/39

第16話 私はクモが怖かった


「ただいま」


 帰宅した私がそう言うと、お姉ちゃんがこっちに視線を向けた。


「おお、お帰り奈々」


 お姉ちゃんは居間のソファーに寝っ転がって、スマホでゲームに興じていた。

 私よりも六つ上で、二十一歳のお姉ちゃん……名前は、暮橋翔子くれはししょうこ。職業は会社の事務員だけど、今日は休みで、休日は大体こうして家でダラダラしている。

 お姉ちゃんは、Tシャツに短パン、裸足というラフな格好だった。起きてから寝癖も直していないらしく、長く伸ばした茶髪がくしゃくしゃに波打っていた。


「お母さんに頼まれた買い物ついでに、あんたが好きなバニラアイス買っといたよ」


 寝っ転がったまま、冷蔵庫を指差しつつお姉ちゃんが言った。

 出社する時は寝癖もちゃんと直すけれど、基本的にお姉ちゃんはズボラで面倒くさがりだった。美人でスタイルも良い反面、そこが少しもったいないと思う。

 でもそれは、家にいる間だけの話。

 お酒も好きで一見ダメ人間にも思えるけれど、ちゃんと社会的常識はわきまえているし、私のことを色々と気にかけてくれたりするし……何だかんだ頼りがいがあって、面倒見が良くて優しいお姉ちゃんを私は尊敬していた。

 

「ありがとう。でも今は大丈夫、あとで食べるね」


「そう、今日も練習しに行くの?」


 私は頷いた。


「しっかり練習しな」


「うん」


 お姉ちゃんに応じた私は、階段を上って自室に入った。

 通学用鞄を置いて、制服から私服に着替える。

 この後は、バンド練習に行く予定だった。部屋の時計は午後三時半を指していた、集合時間は四時だったから、用意を済ませたらすぐに練習会場……ミュージックハウス翼に向かうつもりでいた。

 だけど今日の出来事を思い出し……私はふと、机の上のアクリルクリアフレームに収められた一枚の写真に視線を向ける。

 数年前に撮影されたその写真には、四人の子供達が映っていた。

 小学生だった頃の光彦と、リアムと、私と、そして……埜上。皆笑顔を浮かべていた。

 当時の私は、今とは大分様子が違っていた。あの頃は髪もショートで、お洒落とかにも全然気を遣ってなくて……正直、自分が女の子だという自覚もあまりなかったから。

 髪を伸ばし始めたのは、いつからだっただろう。ジーンズじゃなくてスカートを履くようになったのは、いつからだっただろう。正直、もう覚えていない。

 でも、この写真の四人がもう二度と揃わない原因となった出来事は……よく覚えてる。忘れようとしても、絶対に忘れられないだろうから。

 私は指先で、写真の中で笑みを浮かべる彼……欠けてしまったピースの、埜上に触れてみた。

 そしてふと……彼と初めて会った時のことを思い出した。


 小学校に上がって間もなかった頃、私は親の仕事の都合で転校することになった。

 とても幼かった私は、できたばかりの友達と離れ離れになるのが嫌で、悲しくて……もう泣きわめいて……親やお姉ちゃんに宥められたのを覚えてる。

 悲しみの後に訪れたのは、喪失感と虚無感。

 すっかり落ち込んじゃった私は、転校先の小学校でクラスに馴染めなくて、いつも独りでぽつんとしてて……いじめの対象になってたんだ。

 

「やーい、うじうじ女!」


 放課後、校門の前。

 数人の男子達からそんなふうに言われても、言い返すどころか、先生に告げ口することもできなくて、ただ下を向くだけだった私。

 そんな時だった。


「おい」


 不意に現れた彼が、私を庇うように男子達に立ちはだかった。

 その時は、まだ私は彼の名前も分からなかったけど、顔には大いに見覚えがあって……同じクラスの子だということは分かった。


「女の子に嫌がらせしてると……こいつが赦さねえ!」


 そう言ったその子が、手の平を差し出す。私をいじめていた男子達に、握っていた何かを見せつける。

 効果は劇的で、男子達が驚いた。


「いっ!? うわあああああっ!」


「や、やだ、やだあああああ!」


 瞬く間に、彼らはその場から逃げ去ってしまった。

 男の子が、お腹を抱えて笑い出す。


「ぷっ、くく……驚きすぎだろあいつら、見たか? 今の……!」


 振り返った彼に、私は恐る恐る問う。


「ね、ねえ……あの子達に何を見せたの?」


「ん? ああ、こいつさ」


 彼が広げた手の平には、大きなクモがいた。


「ひゃあああああっ!?」


 さっき男子達がそうしたように、私も悲鳴を上げた。

 そのクモはもう、私が見たことのあるクモとは段違いの大きさで、その子の手の平からはみ出るほどだった。


「そう驚くなよ、大丈夫だって」


 自分の手の平で動き回るクモをじっと見つめて、彼は言った。


「クモってさ、かわいそうな生き物なんだよ。ハエとかゴキブリとか、悪い虫と戦ってくれてるのに、見た目が怖いせいで人間から嫌われちゃってるんだ。こいつらは乱暴に捕まえたりしなきゃ噛みつかないし、日本には毒グモなんてほとんどいないんだぜ」


「あ……」


 言われてみて、確かに彼の言う通りだと思った。


「悪かったな、元気でな」


 クモを茂みの中に逃がすと、彼は今一度私を向いた。


「俺、同じクラスの埜上治。お前、暮橋奈々……だったよな?」


「うん、そう……」


 不思議なことに、彼とはその時初対面だったはずなのに……まるでずっと前から友達だったような感覚を覚えた。


「今度嫌がらせされたりしたらさ、俺を呼べよ。いつだって助けるからさ」


 それが、彼との……埜上との出会いだった。

 優しくてかっこいい、心のきれいな男の子だと思った。だけど、もう……私が知っている彼はいないのかもしれない。

 もう、あなたはドラムを叩かないの?

 もうこのまま、私とあなたはずっと疎遠なままなの? もう二度と、私があなたを下の名前で呼ぶ日は来ないの?

 今日の出来事を思い出しながら、写真の中で笑顔を浮かべるかつての彼……幼くて弱かった私を、孤独から引き上げてくれた恩人を見つめながら、私は思った。

 まさか、愛歌さんが転校してくるなんて。

 彼女が教室に入ってきた時、私は驚き、そして思わず埜上のほうを向いた。

 彼も同じように、驚いた顔をしていた。気持ちはよく分かる。

 昔の出来事を思い返しつつ、私はしばらく写真を見つめ続けた。そしてふと、バンド練習に行かなきゃならないことを思い出し、その支度に取り掛かった。

 愛用のギターを、ギターケースに入れようとしたその時だ。


「きゃああああああああああっ!」


 お姉ちゃんが発した悲鳴に、私は弾かれるように振り返った。

 何事かと思い、階段を駆け下りて居間に続くドアを開ける。


「どうしたの!?」


 ソファーの上に立ち上がって、お姉ちゃんはわなわなと全身を震わせていた。


「あ、ああっ、あああっ、く、く、く、クモ……クモがいるっ……!」


 震える声とともに、お姉ちゃんが指差した先を追ってみる。

 居間の壁に、五百円硬貨くらいの大きさのクモがいた。

 どこからか、うちの中に迷い込んで来てしまったのだろう。察するところ、このクモがお姉ちゃんが発した悲鳴の原因らしかった。

 正直、私は拍子抜けした。二階まで届き渡るほどの、もう尋常じゃない悲鳴だったから、もっと大事なのかと思った。

 お姉ちゃんの虫嫌い、昔から変わってないな。


「あああやだやだ、吸ってやる、掃除機で吸ってやるっ!」


「ちょっ、お姉ちゃんダメ、やめて!」


 半狂乱に陥って、掃除機を取りに納戸に向かおうとしたお姉ちゃんを、私は慌てて制した。

 テーブルの上に放置されていた新聞紙を手に取り、私はそれをクモにあてがう。


「え? え? え? ちょっとあんた何してんの!?」


 お姉ちゃんの言葉をよそに、私は新聞紙の先をクモに寄せ続けた。

 するとクモは移動し、新聞紙の上に乗った。


「逃がしてあげるの。掃除機で吸うなんて、そんなことしたらかわいそうだよ」


「噛みつかれたらどうすんの、毒グモかもしれないじゃん!」


「乱暴に捕まえたりしなきゃ噛みつかないし、日本に毒グモなんてほとんどいないよ」


 昔、埜上から教わったことをそのままお姉ちゃんに伝えると、私は窓を開けて新聞紙を外に差し出した。

 クモはするすると糸を出し、新聞紙の端から庭に向かって降りていった。


「ばいばい……」


 お姉ちゃんには聞こえないくらいの小さな声で、私はクモに言った。

 素手で触るのは、今でも無理だった。

 でも、埜上と初めて会ったあの日から、彼にクモが本当はかわいそうな生き物なのだと教わってから……私は、クモが怖くなくなった。






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― 新着の感想 ―
[良い点] ナナ……今では埜上と内心読んでるんですね…… ぐむぅ……なんとも悲しいもんですね…… でも! クモの話はとてもいいですね! なんとか今後は……どうにか!
[良い点] なんと奈々ちゃんの一人称!  治くん、かっこいいですね。心のきれいな男の子という言葉に頷きました。 [一言] 朝の蜘蛛は神様、と聞いたので、昔から朝は外に逃しています。朝だけは、ですが(笑…
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