第16話 私はクモが怖かった
「ただいま」
帰宅した私がそう言うと、お姉ちゃんがこっちに視線を向けた。
「おお、お帰り奈々」
お姉ちゃんは居間のソファーに寝っ転がって、スマホでゲームに興じていた。
私よりも六つ上で、二十一歳のお姉ちゃん……名前は、暮橋翔子。職業は会社の事務員だけど、今日は休みで、休日は大体こうして家でダラダラしている。
お姉ちゃんは、Tシャツに短パン、裸足というラフな格好だった。起きてから寝癖も直していないらしく、長く伸ばした茶髪がくしゃくしゃに波打っていた。
「お母さんに頼まれた買い物ついでに、あんたが好きなバニラアイス買っといたよ」
寝っ転がったまま、冷蔵庫を指差しつつお姉ちゃんが言った。
出社する時は寝癖もちゃんと直すけれど、基本的にお姉ちゃんはズボラで面倒くさがりだった。美人でスタイルも良い反面、そこが少しもったいないと思う。
でもそれは、家にいる間だけの話。
お酒も好きで一見ダメ人間にも思えるけれど、ちゃんと社会的常識は弁えているし、私のことを色々と気にかけてくれたりするし……何だかんだ頼りがいがあって、面倒見が良くて優しいお姉ちゃんを私は尊敬していた。
「ありがとう。でも今は大丈夫、あとで食べるね」
「そう、今日も練習しに行くの?」
私は頷いた。
「しっかり練習しな」
「うん」
お姉ちゃんに応じた私は、階段を上って自室に入った。
通学用鞄を置いて、制服から私服に着替える。
この後は、バンド練習に行く予定だった。部屋の時計は午後三時半を指していた、集合時間は四時だったから、用意を済ませたらすぐに練習会場……ミュージックハウス翼に向かうつもりでいた。
だけど今日の出来事を思い出し……私はふと、机の上のアクリルクリアフレームに収められた一枚の写真に視線を向ける。
数年前に撮影されたその写真には、四人の子供達が映っていた。
小学生だった頃の光彦と、リアムと、私と、そして……埜上。皆笑顔を浮かべていた。
当時の私は、今とは大分様子が違っていた。あの頃は髪もショートで、お洒落とかにも全然気を遣ってなくて……正直、自分が女の子だという自覚もあまりなかったから。
髪を伸ばし始めたのは、いつからだっただろう。ジーンズじゃなくてスカートを履くようになったのは、いつからだっただろう。正直、もう覚えていない。
でも、この写真の四人がもう二度と揃わない原因となった出来事は……よく覚えてる。忘れようとしても、絶対に忘れられないだろうから。
私は指先で、写真の中で笑みを浮かべる彼……欠けてしまったピースの、埜上に触れてみた。
そしてふと……彼と初めて会った時のことを思い出した。
小学校に上がって間もなかった頃、私は親の仕事の都合で転校することになった。
とても幼かった私は、できたばかりの友達と離れ離れになるのが嫌で、悲しくて……もう泣きわめいて……親やお姉ちゃんに宥められたのを覚えてる。
悲しみの後に訪れたのは、喪失感と虚無感。
すっかり落ち込んじゃった私は、転校先の小学校でクラスに馴染めなくて、いつも独りでぽつんとしてて……いじめの対象になってたんだ。
「やーい、うじうじ女!」
放課後、校門の前。
数人の男子達からそんなふうに言われても、言い返すどころか、先生に告げ口することもできなくて、ただ下を向くだけだった私。
そんな時だった。
「おい」
不意に現れた彼が、私を庇うように男子達に立ちはだかった。
その時は、まだ私は彼の名前も分からなかったけど、顔には大いに見覚えがあって……同じクラスの子だということは分かった。
「女の子に嫌がらせしてると……こいつが赦さねえ!」
そう言ったその子が、手の平を差し出す。私をいじめていた男子達に、握っていた何かを見せつける。
効果は劇的で、男子達が驚いた。
「いっ!? うわあああああっ!」
「や、やだ、やだあああああ!」
瞬く間に、彼らはその場から逃げ去ってしまった。
男の子が、お腹を抱えて笑い出す。
「ぷっ、くく……驚きすぎだろあいつら、見たか? 今の……!」
振り返った彼に、私は恐る恐る問う。
「ね、ねえ……あの子達に何を見せたの?」
「ん? ああ、こいつさ」
彼が広げた手の平には、大きなクモがいた。
「ひゃあああああっ!?」
さっき男子達がそうしたように、私も悲鳴を上げた。
そのクモはもう、私が見たことのあるクモとは段違いの大きさで、その子の手の平からはみ出るほどだった。
「そう驚くなよ、大丈夫だって」
自分の手の平で動き回るクモをじっと見つめて、彼は言った。
「クモってさ、かわいそうな生き物なんだよ。ハエとかゴキブリとか、悪い虫と戦ってくれてるのに、見た目が怖いせいで人間から嫌われちゃってるんだ。こいつらは乱暴に捕まえたりしなきゃ噛みつかないし、日本には毒グモなんてほとんどいないんだぜ」
「あ……」
言われてみて、確かに彼の言う通りだと思った。
「悪かったな、元気でな」
クモを茂みの中に逃がすと、彼は今一度私を向いた。
「俺、同じクラスの埜上治。お前、暮橋奈々……だったよな?」
「うん、そう……」
不思議なことに、彼とはその時初対面だったはずなのに……まるでずっと前から友達だったような感覚を覚えた。
「今度嫌がらせされたりしたらさ、俺を呼べよ。いつだって助けるからさ」
それが、彼との……埜上との出会いだった。
優しくてかっこいい、心のきれいな男の子だと思った。だけど、もう……私が知っている彼はいないのかもしれない。
もう、あなたはドラムを叩かないの?
もうこのまま、私とあなたはずっと疎遠なままなの? もう二度と、私があなたを下の名前で呼ぶ日は来ないの?
今日の出来事を思い出しながら、写真の中で笑顔を浮かべるかつての彼……幼くて弱かった私を、孤独から引き上げてくれた恩人を見つめながら、私は思った。
まさか、愛歌さんが転校してくるなんて。
彼女が教室に入ってきた時、私は驚き、そして思わず埜上のほうを向いた。
彼も同じように、驚いた顔をしていた。気持ちはよく分かる。
昔の出来事を思い返しつつ、私はしばらく写真を見つめ続けた。そしてふと、バンド練習に行かなきゃならないことを思い出し、その支度に取り掛かった。
愛用のギターを、ギターケースに入れようとしたその時だ。
「きゃああああああああああっ!」
お姉ちゃんが発した悲鳴に、私は弾かれるように振り返った。
何事かと思い、階段を駆け下りて居間に続くドアを開ける。
「どうしたの!?」
ソファーの上に立ち上がって、お姉ちゃんはわなわなと全身を震わせていた。
「あ、ああっ、あああっ、く、く、く、クモ……クモがいるっ……!」
震える声とともに、お姉ちゃんが指差した先を追ってみる。
居間の壁に、五百円硬貨くらいの大きさのクモがいた。
どこからか、うちの中に迷い込んで来てしまったのだろう。察するところ、このクモがお姉ちゃんが発した悲鳴の原因らしかった。
正直、私は拍子抜けした。二階まで届き渡るほどの、もう尋常じゃない悲鳴だったから、もっと大事なのかと思った。
お姉ちゃんの虫嫌い、昔から変わってないな。
「あああやだやだ、吸ってやる、掃除機で吸ってやるっ!」
「ちょっ、お姉ちゃんダメ、やめて!」
半狂乱に陥って、掃除機を取りに納戸に向かおうとしたお姉ちゃんを、私は慌てて制した。
テーブルの上に放置されていた新聞紙を手に取り、私はそれをクモにあてがう。
「え? え? え? ちょっとあんた何してんの!?」
お姉ちゃんの言葉をよそに、私は新聞紙の先をクモに寄せ続けた。
するとクモは移動し、新聞紙の上に乗った。
「逃がしてあげるの。掃除機で吸うなんて、そんなことしたらかわいそうだよ」
「噛みつかれたらどうすんの、毒グモかもしれないじゃん!」
「乱暴に捕まえたりしなきゃ噛みつかないし、日本に毒グモなんてほとんどいないよ」
昔、埜上から教わったことをそのままお姉ちゃんに伝えると、私は窓を開けて新聞紙を外に差し出した。
クモはするすると糸を出し、新聞紙の端から庭に向かって降りていった。
「ばいばい……」
お姉ちゃんには聞こえないくらいの小さな声で、私はクモに言った。
素手で触るのは、今でも無理だった。
でも、埜上と初めて会ったあの日から、彼にクモが本当はかわいそうな生き物なのだと教わってから……私は、クモが怖くなくなった。