第15話 ドラムスティック恐怖症
「ちょ、治……どうしたの!?」
帰るや否や、ばあちゃんが目を丸くしながら駆け寄ってくる。
至極当然というか、予想通りの反応だった。景南生達に殴られたり踏み付けられたりして、顔には痣、制服は汚れだらけだから。
通学用鞄を居間に置いて、俺はばあちゃんの横を通り過ぎた。
「いや、ちょっと自転車ですっ転んじゃってさ。そのまま土手から転げ落ちたんだ」
それが、俺が用意していた言い訳だった。
あまりにも下手でバレバレの嘘だけど、俺の頭で思いつくのはそれが限界だった。
ケンカした(というより、俺が一方的にリンチされただけなのだが)だなんて言ったら、じいちゃんとばあちゃんに余計な心配をさせてしまうと思っていた。だからもう、これでどうにか押し通すしかないと考えていたんだ。
「治、それならお前のズボンに付いたその足跡は何なんだ?」
じいちゃんに指摘された俺は、思わずドキリとした。
まさかと思って見てみると、じいちゃんの言った通り、後ろ腰のあたりにくっきりと足跡が付いていた。
帰ってくる前に、制服に付いた汚れはできるだけ払い落とした。しかし、その足跡は見えづらい場所に付いていて、完全に見落としていたのだ。
リンチされたことを隠すための嘘が、早々と見破られてしまう。
「こ、これはその……あれだよ、転んだ拍子にすっ飛んだ俺の靴が、そのままここに落ちてきて……それで足跡が付いたんだと思う。いや、きっとそうさ」
しどろもどろになりながら、俺は言った。
そんなことがあるわけがないだろ、と自分で突っ込まずにはいられない、理屈にもならない理屈だった。
「治、そんなことが起きるか?」
思い切り呆れた顔をして、じいちゃんが訊いてくる。
当然ながら、起きるわけがない。
あまりにも無理がありすぎると、恐らく俺自身が一番よく理解していた。だけどもう、これで誤魔化すしかなかったのだ。
「じいちゃん、絶対に起きないとは言い切れないじゃん?」
「いや、それは確かにそうだが……」
表情を曇らせつつ、ぽりぽりと後頭部を掻きながらじいちゃんは言った。
八十寿を過ぎていても、じいちゃんの頭には白髪がフサフサだった。
「とにかく大丈夫だから。大した怪我でもないし、制服の汚れは俺が自分で落としておくよ。だからじいちゃんもばあちゃんも、何も心配しないで!」
「ちょ、ちょっと治!」
ばあちゃんの制止も聞かず、俺は階段を上って自室に駆け込んだ。
ドアに背中を預けつつ、まずはため息。
ポケットからスパイダーマンのキーホルダー、及びそこに一緒に付いた家の鍵を取り出して、机の支柱に取り付けたマグネットフックに掛けた。無意識にどこかへ置いておくと、後で探すのに困るだろうから、鍵は決まった場所に掛けておくことにしていた。
制服を脱いで、そこに付いた汚れを払おうとした時、今日の出来事を思い出した。
まさか、美玲とこんな形で再会することになるなんて。
小学校の頃にあんな別れ方をした女の子が、また自分のクラスに転校してくる。何度考えても……いくらなんでも、偶然が過ぎると思った。奇跡……いや、神様が仕掛けた意地悪な悪戯だと思えた。
俺は結局見捨てられずに助けちまったが、彼女はどう思ったんだろう。
景南生達にリンチされた後、美玲は俺の顔にハンカチを当ててきた。あの行動といい、あの時の俺を心配するような表情といい……俺を気遣ってくれたのだろうか。
だけど、小学校の頃に彼女からぶつけられたあの言葉は、今でも鮮明に覚えている。
“あなたとなんてもう話したくもない、もう私に近づかないで!”
憎しみそのものを吐き出すような言葉。
俺はふと、部屋の押し入れを開けた。そこに入っている段ボール箱には、俺が小学校の頃に使っていた物が色々と詰め込まれている。
絵具セットに習字セットに版画セット……それに、真新しいドラムスティック。
“大きくなった治が、そのドラムスティックでドラムを叩くところを見てみたい”
俺がまだ小学生だった頃、じいちゃんがそう言って買ってくれた、大人用のドラムスティックだった。もちろん、昔の俺の手には太すぎて合わず、扱えなかった。
だけど、今なら使えるかもしれない……でも、俺はこのスティックには触れない。
いや、これに限らず……俺はドラムスティックに触れないんだ。
あれ以来、ドラムスティックに触ろうとすると苦い記憶が頭に浮かび上がって……俺を糾弾する美玲や、美玲の母さんの顔が鮮明に蘇る。そして手の震えと涙が止まらなくなってしまい、胸が押し潰されるような気持ちになっちまう。
ドラムスティック恐怖症。
世界でも、唯一俺だけが罹患した病に違いなかった。
じいちゃんが買ってくれたこの大人用のスティックは、小学校以来俺の手に握られることはなく、こうして押し入れにしまい込まれている。ドラムを辞めた俺には無用の長物だったし、捨てようと思ったことは何度もある。でも俺には、どうしてもそれができなかった。
成長した俺が、このスティックでドラムを叩くところを見てみたい。じいちゃんはそう言ってくれたけれど、その願いは叶えてあげられそうになかった。
「治、入っていいか?」
不意に、扉をノックする音と一緒にじいちゃんの声。
いつもならこの部屋に向かってくる時の足音が聞こえるのだが、考えに浸っていたせいで全然気づかなかった。
「いいよ」
慌てて押し入れの戸を閉めつつ、応じた。
部屋に入ってきたじいちゃんは、俺の近くに腰を下ろした。
「どうしたの?」
じっと見つめてくるじいちゃんに、俺は問うた。
するとじいちゃんは、少しの間をおいて口を開いた。
「どうしても嫌なら、無理に答えろと言うつもりはないが……今日、本当は何があったんだ?」
「何でもないってば。言ったじゃん? 自転車で転んだだけだよ」
「なあ、治」
嘘で取り繕うとする俺に、じいちゃんは優しげな表情を浮かべる。
「父さんと母さんが亡くなってから、それなりの期間、わしはお前のことを見てきた。何から何までとは言わないが、お前のことはそこそこ知っているつもりだ」
「っと……だから?」
俺が問うと、少し首を傾げてじいちゃんは言う。
「お前が嘘をつけば、わしにはすぐに分かる。どうも、昔からお前は嘘が苦手みたいだからな」
最初から自信はなかったけど、やっぱりダメかと思った。
こんな下手な嘘で誤魔化されるほど、じいちゃんの目は甘くないということだ。
「さすがじいちゃん、参ったよ」
観念した俺は、率直に虚偽の供述をしていたことを認めた。
「で、今日は何があったんだ?」
詰問するような感じではなく、よかったら話してくれ、といった感じのじいちゃんの表情。
じいちゃんになら、話してもいいと思った。俺の育ての親だし、小学校の頃に起きたあの出来事を知っている、数少ない理解者でもあるからだ。
俺は全部話した。
美玲と予期しない形で再会することになったことも、景南生に絡まれた美玲を助けたことも、その後、ボコボコにリンチされたことも。
話し終えると、じいちゃんは難しい表情を浮かべた。
「愛歌ちゃんが……それはすごい巡り合わせだな」
じいちゃんに話すと、何だか色んな感情が胸に込み上がってきて……俺は床に視線を落としながら、言った。
「笑っちゃうよね。あんなことがあったのに、美玲を見捨てることもできなくて、勝ち目のないケンカに首を突っ込んで、その結果無意味にこんなボコられて。せっかく買ってもらった制服を汚しちゃって……ごめん、じいちゃん」
「誰が笑ったりするものか」
自嘲の気持ちを丸出しにした俺の言葉に、真剣な声色でじいちゃんが返事をした。
思わずじいちゃんを向くと、真っ直ぐな視線が向けられる。
「治、お前が小学校の頃にわしが言ったことを覚えているか? どんな結果になろうと、お前は苦しんでいる女の子を助けようとした。手を差し伸べたんだ。その優しさは決して間違いなんかじゃない……絶対にだ」
病気の子を遊びに誘う、そんなとんでもない間違いを犯し、結果美玲の病気を悪化させてしまった俺。自責の念は、今でも消えてない。
だけど、消えてないのはそれも同じ。
失意の底にいた俺を救い上げてくれた、じいちゃんの言葉だって、しっかりと俺の胸に刻み込まれていたんだ。
「お前がすることは、いつだって他の誰かのためを想ってのことだった。だから……これからもお前が正しいと感じるままに行動すればいいんじゃないか? わしはそう思うぞ」
じいちゃんの笑顔に、俺は頷いた。
「うん……」
マグネットフックに掛けられたスパイダーマンのキーホルダーが、かすかに揺れていた。