第12話 あの夏の僕ら
――なあ、治。
――何? じいちゃん。
――治には、将来の夢はあるか?
――将来の夢?
――そう、治が将来何になりたいのか……じいちゃんに教えてくれないか。
――何になりたいか……じいちゃん、俺……!
えらく、懐かしい夢を見た。
俺がまだガキで、何も知らなかった頃に見ていた夢。何年も前にじいちゃんと語り合った、実現なんかするはずがない、無知で幼かった俺が憧れた、聞けば誰もが鼻で笑うような夢だ。
「はっ、アホらし」
そう呟いて、俺は布団を払って身を起こした。
時刻は朝七時、天気は晴れ。鳥達のさえずりが、朝を告げているように聞こえる。
日ごとにそうしているように、俺は寝間着のまま布団を押し入れに突っ込み、高校の通学用鞄とスマホを手に取って、階段を下りた。
居間に入ると、いいにおいが漂ってきて……じいちゃんとばあちゃんが俺を迎えた。
「おはよう治」
朝食の支度をしながら、ばあちゃんが俺に言った。
じいちゃんはすでに椅子に座り、お茶を飲みながら新聞を広げていた。
「おはようばあちゃん、じいちゃんも」
通学用鞄とスマホを居間の隅っこに置いて、俺も席についた。
テーブルの上には、ばあちゃんが用意してくれた朝食が並べられていた。
ご飯に納豆、豆腐とワカメの味噌汁、鮭の塩焼き。それに根菜と鶏肉の煮物に、茄子のぬか漬け……いつも通り手が込んでいて、栄養のバランスもいい献立だ。
俺は箸を取って、手を合わせる。
「いただきます」
台所から、ばあちゃんが「はい、召し上がれ」と返してくる。
俺が起きてくるまで、食べずに待っていてくれたのだろう。じいちゃんが読んでいた新聞を畳んで近くのソファーの上に置き、席に戻って箸を手に取る。
俺が納豆のパックを開けて醤油をかけていると、
「そういえば治、今日お前のクラスに転校生が来るんだろう?」
鮭の塩焼きをちょっと食べると、じいちゃんが訊いてきた。
「ああ、そうだよ」
かき混ぜた納豆をご飯にかけながら、俺は応じた。
今は六月の半ば、高校生活が始まってからまだほんの二か月ちょいだったが、数日前に担任の先生から予期せぬニュースが伝えられた。
そう、うちのクラスに転校生がやってくるというのだ。
事情は知らないが、その転校生はせっかく入った高校をたった二か月で去り、うちの高校に来るということになる。
どんな子なのか分かるわけもないが、一応俺がいる『栄翔高校』は市内でトップのレベルだ。その編入試験に合格するくらいだから、かなり勉強ができる子だと考えて間違いないだろう。
「新しい友達が増えるじゃない、良かったわね治」
麦茶を注いだコップを俺の前に置いて、ばあちゃんが言った。
俺は味噌汁をちょっと啜って、
「いや、そんなに興味ないけどね」
あえて、そう言っておいた。
――何となく……小学校の頃の出来事を思い起こさせる流れで、あまり気分が良くなかったんだ。
「治、どうかしたのか?」
じいちゃんがそう訊いてくる。考えていることが、無意識に顔に現れていたのかも知れなかった。
俺は首を横に振り、慌てて平静を装った。
「いや、何でもないよじいちゃん」
ごまかすように、俺は納豆かけご飯をかき込んだ。
「そうか、それならいいんだ」
そう答えたじいちゃんに、俺は無言で頷いた。
その後もとりとめのない会話を交えつつ、俺とじいちゃんは朝食を終えた。空になった食器をまとめ始めたじいちゃんに、ばあちゃんが薬袋とコップ一杯の水を手渡した。
「はいおじいちゃん、ちゃんとお薬を飲んでね」
「ああすまない、ありがとう」
じいちゃんは、心臓に持病があるんだ。
それで毎食後の一日三回、処方された薬を飲んでて……しばしば病院に行っていた。
俺は自分が使った食器をまとめて台所へ持っていき、歯を磨いて洗面台で整髪もして、制服に着替えた。これで身支度は完了だ。
通学用鞄を肩から提げて、俺はじいちゃんとばあちゃんを振り返る。
「じゃ、行ってくるから」
俺の言葉に、「いってらっしゃい、治」とばあちゃんが、「車に気をつけてな」とじいちゃんが返してくれた。
靴を履いて外に出て、小屋から自転車を引っ張り出す。その籠に通学用鞄を放り込んだ。
俺はイヤホンを耳にはめて、スマホの音楽プレイヤーアプリを開いた。画面には、俺が取り込んだ百数曲のタイトルがずらりと並んでる。
通学のBGM、今日はどの曲にしようか……と思って画面をスクロールさせていたら、ふとある一曲が目に留まった。
――『Vindicated』。
視線が釘付けになった。
俺の大好きな曲……でも、もう何年も再生していない。最後にいつ聞いたのかも思い出せない。
その曲名を見ていると、小学校の頃のことを思い出しちまいそうになって、俺はすぐに別の曲をタップして再生し、スマホを制服のポケットへしまった。
福山雅治の、『虹』。
軽快なリズムと、胸に染み渡るメッセージ性が魅力的で、ドラマの主題歌にもなった人気曲だ。よし、今日はこの曲にしよう。
俺はサドルに跨り、自転車をこいで高校へ向かい始めた。
風を切りながら、俺は空を見上げた。少しの雲もなく、どこまでも澄み渡った青空が広がっている。
今日は良い天気だ。こんな空を見ていると、今日は何か良いことがあるんじゃないだろうか。思わずそう感じてしまう。
もちろん、これから『転機』となる出来事が待っているだなんて……この時の俺は知る由もなかった。
一生忘れられない夏が……もうこの瞬間から始まっていたのだ。
ヒーローという言葉の意味を知らない僕達は。
高校の敷地内にある駐輪場に自転車を止めて、通学用鞄を肩に掛け、イヤホンを外してポケットにしまった。
昇降口に向かう途中、広場の一角に生徒が数人集まって何かを話していた。近くを通る際に、その会話が耳に入る。
「なあ見ろよ、あれ暮橋さんだよな?」
「暮橋さんて、あの暮橋奈々さんか? お、本当だ。やっぱ可愛いよな……!」
「噂に違わぬ美人だよな!」
彼らの視線の先にいたのは、俺も見知ったひとりの女の子だった。
昇降口付近で、誰かを待つように立っている女生徒――そう、暮橋奈々だ。
かつて俺のバンドメイトで、パートはギターとキーボード、たまにボーカルを担当していた彼女。だけど、もう昔の面影は感じられなかった。
ショートだった茶色い髪を長く伸ばし、体つきも女らしくなり、高校の制服に身を包んだその姿は、ボーイッシュだった小学校の頃とは打って変わったようだったのだ。
今の彼女は学年内でも評判の美少女で、性格まで良いと聞いている。
中学まで一緒で、二年と三年の頃はクラスも同じだったのだが……俺がバンドを去ったのを境に疎遠となり、話したことは一度もなかったはずだ。なおどんな因果か、あいつとは高校一年の現在においても同じクラスだ。もちろん、高校入学後も話したことなんてないし……多分これからも関わり合いは持たないだろうけど。
それでも、女らしくなったもんだと思う。サナギが羽化して、華麗なる蝶へと変貌を遂げた……虫に例えちゃ失礼だが、俺の言葉で表現するならそんな感じだった。
「告白したら付き合ってくれたりしないかなー……」
「バカ、んなの無理に決まってんだろ」
「え、何で?」
「ほら、見てみろって」
な……いや、暮橋にひとりの男子生徒が歩み寄る。彼もまた、俺の見知った少年だった。
背が高くてスタイルも良くて……女の子がすれ違えば、その全員が振り返りそうなほどの超イケメンな男子生徒。
――阿隝リアム。暮橋と同じく小学校の頃は俺とバンドを組んでいて、ギターとボーカルを担当していた……今の異名は、『学年の最強色男』。
バレンタインにはチョコを十個くらい贈られたこともあったと記憶しているが、高校生になった現在でも女子からの人気は絶大らしい。
成績もルックスも良くて、さらにはスポーツ万能。高校生のステータスといえる要素すべてにおいて突き抜けた存在なんだから、モテるのも当然だろう。
「暮橋さんと阿隝、あのふたりってやっぱデキてたんだな……」
「学年一の美女と美少年のカップル、悔しいけどお似合いだよな……」
嘆く少年達をよそに、俺は歩を進めつつ暮橋と阿隝のやり取りを見つめた。ここからじゃどんな会話をしているかは分からないが、とても楽しげに話しているのは分かる。
小学校の頃からバンドで一緒に活動して、同じ高校に進学して……お互いに男子と女子の頂点に立つルックスの持ち主。まさに双璧、漫画に出てくるようなキングオブリア充カップルだな。
かつてバンドメイトだったふたりを眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えた。
その最中、ふと暮橋が俺の方を瞥見してきて……気取られないよう、慌てて視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
「ほーら、皆静かに」
生徒達の話し声で賑やかな教室内に踏み入ると、担任の先生が告げた。
いつもはすぐにドアを閉めるんだが、今日は開けたままだ。ドアの向こうに誰かがいるのが見えて、それが例の転校生だということが分かる。
俺の席は一番後ろなので、ここからでは顔は見えないし、男子なのか女子なのかも分からない。
「おはよう諸君。朝の会を始める前に、お待ちかねの転校生を紹介するぞ」
生徒達に告げると、先生はドアのほうを向いて、
「さ、入って」
その言葉を受け、転校生の子が入室する。
彼女の横顔を見た瞬間、俺は言葉を失った。
「っ……!」
――どうにか。
どうにか、声を上げずには済んだものの……思わず息を飲んでしまった。
横顔を見ただけで、俺には分かった。名前など聞かなくとも、一目で……一目でその転校生が、『彼女』だと。
「さ、自己紹介して」
先生が告げると、彼女は俺達に一礼し、そして名乗った。
「美玲愛歌です、よろしくお願いします」