花びらが散れば
桜を見る度、いつも、あの歌を思い出す。
『桜の花びらが散れば思い出は消える〜私を忘れてあなたは生きてね〜翌年も覚えてくれているのならまた会いましょう〜この想い、忘れないでね』
ありきたりな言葉を並べて作った、ありきたりでない歌。
美咲さん。ごめんね。僕にはなにもできなかった。
痛みを忘れて生きていくには、まだ僕は幼すぎたみたいだ。
君がいない世界はどうにもつまらなくなった。
今、なにをしてるの? ちゃんと、笑っているかい?
大丈夫。僕は元気だよ。
君との思い出を心に焼き付けて、僕は生き続けるよ。
君の言葉を、人々に届け続けるよ。
可憐に舞い散る、桜の花びらのように。
◇
とうに暖かくなった春の陽気のせいだろうか。それとも、高揚するこの気持ちからだろうか。
少し歩くだけで、シャツが汗ばんだ。ポカポカといった擬態語が一番ふさわしい、そんな春の日だった。
卒業、そして入学など、出会いと別れが繰り替えされ、新生活が始まる時期。
それと同時に、春は、新たな生命が息を始め、自然が盛りだす時期でもある。
日本を代表する花、「桜」も例外ではない。
美しく咲き、儚げに散る桜。日本人はなぜ、数ある花の中から、これほどまでに桜を溺愛するようになったのだろうか。
僕、小野 隼人は、そんなことを思いながら、「第三十二回 福井さくら祭り」に来ていた。
周知の事実だが、福井県とは田舎だ。けれど、今日だけは違う。
いつもの閑散な並木道とは打って変わり、悠々と流れる足羽川を挟んで、賑やかな歩行者の列ができている。
綿菓子を持って嬉しそうに走る小学生、酔っ払った中年の男、とりあえず騒げればいい大学生。
各々が様々な面持ちをして、祭りに参加していた。
ちょっと小腹がすいたな。たこ焼きでも買おうかな。
ちょうど列が空いていたたこ焼き屋に並び、リュックからボロボロの長財布を取り出した。
今日は土曜日で、高校は休みだ。クラス内でも浮いている存在の僕は、祭りに誘うような友達はおらず、結局一人で来る羽目になった。
本当はこんな、喧騒の溢れる場所に来る予定はなかったが、家で惰眠を貪るよりはマシと考え、自転車を飛ばし、足羽川のほとりに降り立ったというわけだ。
おお、いい匂い……
嗅覚が嬉しそうに反応している。
うん、これは美味しいたこ焼きだな。間違いない。匂いで分かる。
しかし、その時反応したのは嗅覚だけではなかった。
ジャララン……
たこ焼き屋のテントの奥の方から、軽やかなギターの音が響きだす。
何かと思って覗いてみると、ギターを持った女性が立っていた。歳は僕と同じくらい、高校生ほどに見える。なので、女性と言うより、女の子の方が近いかもしれない。
「今から路上ライブ始めます! よろしくお願いします!」
パチパチパチ……
数人の観客の乾いた拍手が宙に消えていき、ライブがスタートした。
ちょっと気になるな。これ買ったら見てみよう。
その後、無事たこ焼きを購入し、テントのある方向とは逆方向に進む。
観客は四人。歌っていたのは、ロングヘアーで身長が高めの女の子だった。ジーパンに、何かのバンドのTシャツといった姿。
僕は人を見る目に肥えている訳ではないが、一般的に、この人は、かなりカワイイ部類に入るだろう。透き通るような瞳と、笑った時に出来るえくぼが眩しい。
器用な手つきでピックを操り、弦をかき鳴らす。
『橘 美咲。メジャーデビュー目指して、アコギ一本で頑張ってます! 応援してください!』
椅子の上に立てかけてあったホワイトボードに、そう書いてあった。
すごくしっくり来る名前だ。なんていうか、ものすごく綺麗な花が咲くみたいな。
美しく咲く。で、美咲。うん、やっぱりピッタリ。
『あなたを忘れて生きる私は〜もうあの時の私じゃない〜』
前奏が八秒ほどあり、イントロが始まった。
この歌はどうやら、彼女の一番の出来の曲のようで、曲名を、『花びらが散れば』というらしい。
しばらく立ち聴きしていると、やがて、観客は僕一人になっていた。
おかしい。これだけの歌が目の前で披露されているのに。
祭りばやしの笛や、太鼓の音にかき消されてしまっているのだろうか。
皆、おしゃべりに夢中で気付かないのだろうか。
それとも、単に興味がないのだろうか。
いずれにせよ、僕はとてつもなく悔しくなった。彼女の歌が届かないことが。全くの部外者で、今日知ったばかりなのに。
気づけば、曲が終わっていた。
彼女の世界に没入していて、完全に我を忘れていた。
焦点の合わない目つきをした僕に、丁寧に話しかけてくる。
「あの、ありがとうございます。ずっと見ていただいて」
「え? ああ、いえ、素晴らしかったです」
「本当ですか?! 嬉しいです。水曜日と土曜日のお昼から、普段は駅前でやってるので、良ければ見に来てくださいね!」
「駅前ですか? 分かりました。必ず見に行きます!」
くしゃっとした彼女の笑顔で、心が喜びに震えた。この人の歌には、人を惹きつける何かがある。そう信じて止まなかった。
「あの、これ、よかったらどうぞ」
先程買ったたこ焼きを差し出した。彼女は祭りに参加せずに帰るのだろう。少しでも楽しんで欲しいという、謎のお節介を発動していた。
「たこ焼きですか?! 大好物です! 美味しくいただきますね」
その笑顔はやはり、直視するには眩しく、笑うだけで、周りの空気が甘く、柔らかくなる。そんな笑顔だった。
気分良く自転車に乗り、鼻歌混じりで下り坂をいつもより速く下った。
早く、来週にならないかな。
その後の一週間が、いつもよりほんの少し、短く感じられた。
*
そして、翌週の土曜日。
駅前広場に設けられた噴水の前に、可憐に立つ女の子の姿があった。
なにやら準備をしているらしい。
具体的な時間を聞き忘れたので、路上ライブに何時から行こうか迷ったが、一時頃に行って正解だった。
僕が近づいていくと、向こうも思い出したらしく、いつもの可愛らしい笑顔を向けてくれた。
「あ、この前の方ですね。来てくださったんですか?」
「そうです。先日お聞きした歌がすごい耳に残って。友達みんなに言いましたよ、橘 美咲って歌手がすごいんだ!って」
嘘だ。本当はそんなことを言う友達はいない。けれど、僕の胸の中には、嘘でもなんでもいいから彼女の喜ぶ顔が見たい。という、複雑な感情が渦巻いていた。
「ええ! 感激です! 今日もライブ楽しんでいってくださいね!」
まだお客さんは僕しかいないが、始めてくれることになった。
ジャララン……
FコードからCコードへとコードチェンジ、そして曲が始まる。その音色は、優しく心を撫でられるような感覚だった。
『桜の花びらが散れば思い出は消える〜私を忘れてあなたは生きてね〜翌年も覚えてくれているのならまた会いましょう〜この想い、忘れないでね』
この前と同じ曲だ。この歌詞は彼女が考えたのだろうか。色々な意味にもとれる、奥深い歌詞だ。
そんなことを頭に浮かべて、我に帰ると、いつも曲が終わってしまっている。
彼女の演奏中だけ、意識を手放しているみたいだ。
今日は終わりまで聴いていた観客が、僕の他に数人いた。
ダンディなハットを被った四十歳くらいの男性が、ギターケースに五百円玉を放り込むのが見えた。
「ありがとうございます! また来てください!」
愛想良く笑顔を振りまく彼女。
七曲ほどの演奏後、空がオレンジ色になると同時にギターを片付けだした。
僕の他にいた観客は、とうにいなくなっていた。
「ありがとうね。君、ずっと聴いてくれてたよね。お疲れ様」
突然、彼女の言葉が敬語ではなくなったのに、少しドキッとした。
「あれ? ごめんなさい、いつの間にかタメ口になっちゃった」
恥ずかしそうにはにかんだ彼女と夕日のコントラストが、とても麗しかった。
「大丈夫ですよ。高校生なので、多分、美咲さんの方が年上だと思います」
「あはは、美咲さんかぁ。なんかだか、同級生に呼ばれてる感じがするなぁ。君、名前はなんて言うの? 周りの子より大人びてるって言われない?」
なんと呼べば正解か分からなかったので、美咲さんと言ってしまったが、もしかして失礼だっただろうか。だが、他にふさわしい呼び方も思いつかない。
「名前は……小野 隼人です。大人びてるというか、暗いだけかもしれません」
実際、陽キャラや陰キャラのような分類分けをするならば、確実に、僕は陰性だ。
「隼人くんかぁ。かっこいい名前だね。全然暗そうには見えないけどな。高校生なんて、毎秒楽しいからね。私はもう大学生になっちゃったけど、君は思いっきり楽しむんだよ」
へえ、美咲さんは大学生なのか。
「楽しめたら……いいんですけど。あと、ごめんなさい、美咲さんって言い方、失礼でした?」
「ううん、全然大丈夫だよ。そういう呼び方する人が周りに少ないから、新鮮で面白かったの。周りは、みーちゃんって呼ぶ子が多いかな。君もそう呼んでくれていいんだよ?」
「はは……それは遠慮します」
さすがに冗談だと思うので、苦笑いで返しておく。
「えー? ひどいなぁ」
路上での弾き語りライブが終わったあとは、僕の高校生活の話や、美咲さんの大学の、友達の話、お互いに好きなバンドの話なんかをした。
そうやって他愛もない会話をして笑いあったり、特別に僕だけにアンコールを披露してくれたりした。
土曜日には決まって、駅前に足を運んだ。流石に、水曜日は行けなかったけれど、それでもたまに顔を出せたりした。
時々、差し入れとして、お菓子や飲み物を持っていくと、それはそれは喜んでくれた。
そういう日には、限って、いつもより大きめの声で歌ってくれたりするのだった。
観客は徐々に増えてきていたが、最後まで残って聴く者は、僕を除いて大抵一人や二人程だ。
彼女の声を聴くたびに、確実に彼女に惹かれていくのを感じた。
それが、彼女というアーティストとしてなのか、一人の異性としてなのかは分からない。ただ、それが叶わぬ願いだということは、しっかりと理解していた。
◇
最近、お肌の調子がいいかもしれない。
私、橘 美咲は、バイトに行く前の化粧をしている時、ふと思った。
以前は、中々増えない路上ライブのお客さん問題や、たまに向けられる冷たい視線にストレスを感じ、体調を崩したり、肌の治安が最悪になる。なんてこともあった。
だが、なぜだろう。最近の音楽活動は、ものすごく楽しい。
大学二年生なのでまだ就職活動は先。
だけど、親からは早く音楽で生きていくのか、就職するのか決めろと急かされている。
「やっぱり無理なのかなぁ……中途半端じゃ」
誰もいない部屋に独り言を放った。
歌手になることは、美咲の子供の頃からの夢だった。そして、高校生までは、それはただの夢だった。
高校二年生の時、親戚のおじさんがくれたギター。出逢ったその日から、美咲は目を輝かせて毎日練習した。
ただ、学校が進学校ということもあり、その後は受験勉強に手一杯で、音楽をやる時間はなかった。
ようやく大学生になり、自由な時間も増えたので、今は音楽に専念できている。
あ……もうこんな時間だ。ヤバいヤバい。
今日は金曜日。時刻は午後五時だった。
荷物とアパートの鍵を持ち、玄関の外に出る。
ガチャン!
薄汚れた自室の扉が、大げさな音を立てる。
美咲のアパートは、駅から徒歩五分の好立地にある。ちゃんと、風呂トイレ付きの5畳の部屋だ。福井県は田舎なので、家賃も全然高くない。こういう時、田舎に住んでいてよかったと思える。
バイト先は、近くにあるチェーンの居酒屋。美咲の今日のシフトは、午後五時〜十時までだ。
考え事をしながら歩いていると、いつの間にか目的地に着いていた。裏口から休憩室に入り、スマホをいじる先輩に挨拶する。
「お疲れ様でーす」
「美咲、お前ちょっと遅刻だぞ」
先輩のやる気のない注意を華麗にスルーし、自分専用のロッカーを開ける。
「拓哉先輩。今日何時までですか?」
「あー、俺か、今日は八時まで」
この人は、私と同じ大学に通う三年生の拓哉先輩。お酒が大好きという点を除けば、いい先輩だ。
「了解です。じゃあ、今日も頑張りましょうね」
「ん……? お前、なんかいいことでもあったの?」
「え? いや、全然そんなことないですけど」
「そうか? なんか、いつもより、よく笑う気がするんだが」
「そうですか……ね?」
そんなに表情に出ていただろうか。もし先輩の言うことが正しければ、なぜ私はそんな顔をしていたのだろうか。
多分、答えは知ってる。
折れかけていた私に、優しい言葉を投げかけてくれた、あの子。初めて本気で私の音楽を好きと言ってくれた、あの男の子。
明日のライブ、楽しみだなぁ……
◆
今日で、美咲さんのライブに来て何度目だろうか。多分、四回目くらいだろう。僕はすっかり常連客になっていた。水曜日は学校もあり、たまにしか来られないが、土曜日には欠かさず来ている。
いつもと変わらない、上手で甘美なギターと声に浸り、今日も夢心地だ。
ライブ終了後は、何か差し入れるのがすっかり習慣になっていた。こんなに素晴らしい歌をタダで聴くのは、申し訳ない気がしたからだ。
「今日もお疲れ様です。美咲さん。すっごく良かったです」
そう言って、グミとジュースの入ったレジ袋を手渡す。
今朝コンビニに入ったら、たまたま目に着いたいちご味のグミ。喜んでくれるだろうか。
「えへへ、いつもありがとう隼人くん。でも、私なんかの為にこんなにお金使わなくていいんだよ? 彼女とのデート代がなくなっちゃうよ」
目が合うのが恥ずかしくて、思わず視線を逸らしてしまう。
「やめてくださいよ、分かってるでしょ。お金の使い道なんて、毎週買う少年ジャンプくらいしかないです」
これは事実だ。友達なんてほぼいないに等しいので、遊ぶのに金を使うこともない。
「え〜そうかな〜美咲お姉さんの見立てでは、君はこれからどんどんモテていくと思うけどなぁ」
「はは……それはどうも」
結局、彼女からすれば、親戚の男の子のような感覚なのだろう。悲しくはあったが、仕方がない。
「じゃあさ、隼人くん、この後ちょっと時間ある?」
「えっ!?」
驚きのあまり、頓狂な声を出してしまった。いけないいけない。何を期待しているんだ僕は。
「もし時間あるなら、この後クレープでも食べに行かない? いつもお世話になってるし」
「いいんですか!?」
まさかの展開。この際、親戚のガキでもなんでもいい。
「もちろん。年上の私が奢ってあげるよ。じゃあ、ギター片付けるからちょっと待っててね」
「はい!」
心臓がバクバクする。ああ、神様仏様。生きててよかったです。ありがとうございます。
緊張のあまり、冷や汗をかきだす。
「いこっか」と言った美咲さんに続いて、隼人は駆け出した。
ああ、どうなるんだろう?
◇
ど、どうしよう?! 変な奴だと思われてないかな?!
桜祭り以来、いつも路上ライブに来てくれている男の子。子犬みたいな可愛い目をしていて、母性(?)をくすぐられる。こっそり撮った写真を大学の友達に見せると、「守りたくなるタイプ」と言っていたので、多分合ってるはずだ。
その男の子を、今日はライブ終わりにクレープに誘った。
もちろん、いつも会いに来てくれて、差し入れまでしてくれるお礼がしたかったというのもある。
ただ、本音は、高校生のキラキラした時間をちょっとでもいいから分けて欲しかった。女の時間というのは、光陰の矢の如しなのだ。
でも……私、捕まったりしないかなぁ!?
端から見ればどう見えるのだろうか。友達? 姉弟? カップル……にしては歳が離れているかもしれない。
とにかく、私が変な人物でないという事だけは頭に入れておいて欲しい。
表面では冷静、内心は動揺しまくる状態で、駅前のフードコートに向かって歩いていると、隼人くんが、どこかぎこちなさそうに歩いているのに気がついた。
「隼人くん? どうしたの?」
「いや……えっと……僕は美咲さんの右か左か、どっちを歩けばいいのかなーと……」
「あははは! 面白いなあ、隼人くんは。そんなのどっちでもいいよ」
「すみません……慣れてないもので」
ああああ……! 可愛い! 君はその不慣れな感じがいいんだよ〜
「あ、あった。ここだよ。何食べる? 私はいつもこの、バナナスペシャルなんだけど」
「えっと……じゃあ、一緒なのでお願いします」
うんうん、クレープ食べたことなさそうなのもまたいいね。
「はーい。すみません、バナナスペシャル二つください」
「バナナスペシャル二つですね、少々お待ちください」
この店員さんには、私たちはどう映っているのだろうか。
数分の後、甘いバナナの香りがしてきた。最近はダイエットをしていたので食べていなかったが、一時期は週一で食べていた大好物だ。
私が二つを受け取り、一つを彼に渡す。
「美味しすぎてびっくりするぞ〜」
「あ、ありがとうございます。じゃ、いただきますね」
私はまだ口にせず、先に彼が食べるのを見守った。
パク、と少し遠慮がちにかじりつく。数回間噛んで味を確認すると、
「すごく美味しいです」と、目がなくなりそうなほどの満面の笑みを浮かべた。
ああ、連れてきて良かったな。それにしても、こういう類の経験の最初が私なんかでいいんだろうかと、今更ながら思う。
ま、いいや。今は、目の前の大好物を食べることに集中しよう。
よいしょっと、一旦ギターを担ぎ直したその時。
ボチャッ!
手に持っていた物体の重量が、一気に軽くなる。嫌な予感がした。恐る恐る下を見ると、最悪の事態が起こっていた。
「うわ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
なんという不覚。あれだけ気をつけたのに落とすなんて。
地面には、無残に飛び散るクリームとバナナが散乱していた。自分の無能さに泣きたくなる。
すると、また予想外のことが起こった。
隼人くんが、彼のクレープを私に押し付け、落ちてしまった私のクレープを拾い出したのだ。
「は、隼人くん?! 大丈夫だよ?」
「いえ、僕、もうお腹いっぱいになっちゃいました。後は、美咲さんが食べてください」
お腹いっぱいって、二、三口しか食べてないけど……
そして、せっせとクレープの残骸を拾う彼が、突然叫んだ。
「あ! ごめんなさい! すごいセクハラ発言をしてしまいましたか!?」
それは、食べかけのこのクレープことを言っているのだろうか。顔を真っ赤にして焦っている。
「ううん、全然そんな風には思ってないよ。ありがとう」
「嫌だったら大丈夫ですよ、僕が持って帰って食べさせてもらいます。でも、クレープも出来立てで食べられた方が幸せだと思うので」
ああ、この子とお付き合いするような子は幸せだろうな。不意にそんなことを思った。
今まで、年下の可愛いらしいお客さんくらいにしか思っていなかったけど、こんなに男らしい面もあるのかぁ。それに、これって関節キス……
美咲は、顔が赤くなっているのを隠すため、渡されたクレープを食べて顔を覆った。
「ごめんね……拾わせちゃったりして」
美咲も手伝いたいのはやまやまだが、かがんでまたクレープを落としたりしたらもう立ち直れないので、大人しくしておくことにした。
「いやいや、奢ってもらったんだからこのくらい当然です」
君はどれだけいい子なんだ……
「さあ、終わりましたよ」
「ほんとにごめんね……また君に借りができちゃったね。何かお礼しなきゃ」
彼の分を買い直そうと、先ほど財布を見たが、持ち合わせの小銭では値段に届かなかった。
「じゃあ、何かお話を聞かせてください。いつものライブに終わりみたいに、大学のこととか、友達のこととか。あ、ハマってるバンドでもいいですよ。僕はそれだけで楽しいです」
いい子だ……今すぐ抱きつきたいくらいに……
「そうだねぇ……そういえばこの間、バイト先の先輩に、『お前、最近楽しそうだな』って言われたの」
拓哉先輩は嘘をつくタイプではないので、本当のことなのだろう。
「ちょっと分かるかもしれません。美咲さんの歌、どんどん良くなってる気がしますもん。あの歌詞って、自分で書いてるんですか?」
「そうだよ。夜中に思いつくことが多いかな」
「すごい好きなんですよね、あの部分。ほら、サビの、『桜の花びらが散れば思い出は消える〜私を忘れてあなたは生きてね〜』ってとこです」
「えへへ、ありがとう。そんなに褒めてくれるの、隼人くんくらいだよ」
お世辞じゃなく、本当のことだ。彼は、本気で私を応援してくれている。大学の友達なんかも、もちろん応援はしてくれているが、どこか他人事のように思っている感じが伝わってくる(それは当然だけど)。彼は、人と喜びや悲しみを、自分のことのように思える人間なのだ。
その言葉の後、少しだけ沈黙が流れた。
それを先に破ったのは、美咲の方だった。
「なんかさ、こうしてると、デートしてるみたいだね」
何も考えずに、自然に発せられた言葉だった。
「えっ……」
彼の顔があからさまに赤くなってから、私は自分の発言に気づく。
「あああ! ごめんごめん、変な意味はないんだよ」
自分で言ったのに苦笑いをしてしまった。だけれどなんだか、この時間が永遠に続けばいいな、なんて思った。
しかし現実はそうなるはずもなく、夕方になってお開きとなった。何度も感謝の言葉を述べてくれたが、感謝したいのはこちらの方だ。
その日から、美咲は気付けば、頭が隼人の事でいっぱいだった。
一年生の時に付き合ってた元彼には、こんな気持ちにならなかったな……なんだろ、この気持ち。
もやもやして苦い、しかしどこかふわふわして甘ったるいような不確かな感情が、美咲の心に渦巻いていた。
◆
今日はなんて素晴らしい一日だったのだろうか。
憧れの美咲さんと、クレープを食べに行った。しかも、奢りで。
途中、彼女のクレープが落下してしまうというアクシデントはあったけれど、それでも話をするだけで楽しかった。二時間くらい話していたらしいが、体感では十分に感じた。生きててよかったぁぁ!!
でも、今日のことで美咲さんが僕のことをどう思っているのか、分かった気がした。恐らく、最も近い例えは、昔から知ってる、近所の子。みたいな感じだろう。
「デートみたいだね」と言ったあの発言はさすがにドキっとしたが、美咲さんの方はぽかんとしていて他意はない感じだったし、僕のことを異性としてみているわけではないのだろう。
まあ、そりゃそうだよな……
自宅のベッドに腰掛け、咳払いを二回した。
僕みたいな人間と、あんなにキラキラした人が、話をできただけでも奇跡だもんな。
少し甘すぎたバナナスペシャルも、美咲さんがするバイトの話も、全部いい思い出だった。
「桜の花びらが散れば……思い出は消える……」
もう歌詞を覚えてしまっていた。初めて聞いた時から、ずっと胸に残っている。
桜。なんて美しく、儚い存在なのだろう。もちろん立派に咲き誇るその姿も美しいが、少しでも触れたら壊れそうな華奢な様子が、さらにまた美しい。まるで、この歌を歌っている、あの人みたいに……
とっくに届かないと知った想いを胸に閉じ込め、隼人は眠りについた。
*
それから、ちょうど一週間後。美咲さんにさくら祭りで出会って、三週間が経っていた。
今年の桜は、例年よりだいぶ遅い開花だったので、さくら祭りの時は満開ではなかった。ちょうど、この一週間くらいが、ピークの時期だろう。
今日も今日とて、僕は自転車に跨り、駅前へと向かう。もはや、習慣として体に染み付いていた。とは言いつつも、まだ一桁の回数しか行ってはないんだけど。
空は所々雲があるが、それでも気持ちよすぎるくらいの天気だった。
いつもの駐輪場に自転車を停め、噴水広場へ向かった。
お、今日もちゃんといる。楽しみだなぁ。
お気に入りのバンドのTシャツに、下はパーカーを巻きつけたスカート、といったラフな服装の彼女に近づいていくと、向こうの方から気づいてくれた。
「おっはよう! 隼人くん! いよいよ満開だねぇ〜私の歌も一番映える時期だよ」
「こんにちは。今年も綺麗に咲きましたね。今日も楽しみにしてます」
「ちょっと準備するから待ってね〜」
まだライブは始まっていないので、当然、客は僕だけだ。それでも、最近は多い時で10人ほどの人が足を止めて彼女の歌を聴くまでになった。確実に、そして着実に成長していると言えるだろう。
と、思っていた、その時だった。
ザーーーー!!!
突然、ゲリラ豪雨のような激しい雨が降り出す。
その異常なまでに大きい音に、僕も美咲さんも、「何事!?」と上を見上げた。
「嘘でしょ?! 隼人くん、あっちの方に避難しよう!」
そう言って、美咲さんは屋根付きのバスターミナルの方を指差した。
「分かりました! 」
雨音であまり声が聞こえない。
「あっちまでダッシュしよう!」
美咲さんはギターと荷物を担ぎ、僕は自分のリュックを傘代わりにして、五十メートル程離れたバスターミナルに駆け出した。
残り二十メートルくらいの地点で、靴にちょっと浸水してきているのが分かった。僕は少しだけ速度を上げた。
そして……
ゴロゴロ……ピカッ!
「きゃあっ!」
天変地異のような強い雷が起こる。空の色は一瞬で濁り、聴覚が奪われた。
それでも構わずに、隼人は走り続けた。しかし、だ。あることに気づいた。
さっきまで聞こえていた、後ろをピチャピチャと走る音が聞こえない。
残り十メートルといった所で、後ろを振り返ってみる。
隼人の視界に映ったのは、もっと後ろの方でかがんで震える美咲の姿だった。
「美咲さん!」
走ったルートを引き返す。雷に怯えているのだろうか。彼女の震えは止まりそうになかった。
「貸して!」
彼女から、ギターケースと荷物を半ば強引に奪い取った。そして、彼女の手を取り、無我夢中で走り出す。握ったその手は冷たく、小刻みに振動していた。
「はあ、はあ、はあ……」
普段、運動をしない隼人の息切れは酷いものだったが、なんとか屋根の下に到着した。着くとすぐに、その場にへたり込んだ。ギターはケースに入っているので無事だったが、ニ人の服と髪はびしょ濡れだった。
「ごめん、美咲さん……気づけなくて」
僕がもっと早く気づくべきだっただろう。まさか、雷に怯えているとは。
「怖かった……お世話になりっぱなしだなぁ……これじゃ、どっちが年上か、分かんないよ」
彼女の頬を滴り落ちるのは雨だろうか。涙だろうか。目は赤みを帯びていた。
ようやく震えが止まったようだ。僕は、繋いだままの手を見て、思わず飛び上がってしまった。
「うわぁ!? ごめんなさい、気色悪いことしちゃって!」
握った手を離そうとすると、逆に、もっと強く握り返された。
「もう少しだけ……このままでいい?」
美咲さんは僕の方ではなく、降り続ける雨を見ながら言った。表情は読めない。けれど、僕の顔が紅潮していくのは、自明だった。同じく、自分の顔は見えないのに。
*
どれくらい経っただろうか。雨は多少弱まったが、止む気配はない。
僕は濡れた服の寒さから、ひとつくしゃみをした。それに気づいた美咲さんが、こちらに振り向いた。
「まずいね。風邪ひいちゃう。ついて来てくれる?」
「え?」
「結局また、走ることになっちゃうけど」
返事をする間もなく、今度は、美咲さんに手を取られ、どこかに連れられる。いつの間にか、繋いだ手は温かくなっていた。
走って三分くらいだろうか。手を取られ着いた先は、少し古めのアパートだった。木でできた優しいロビーは、どこか懐かしい匂いがした。
美咲さんに、「こっちだよ」と言われ、同じように階段を登る。3階分。
まさか……
ガチャッ
「散らかってるけど……上がって。シャワー浴びなよ」
心臓はせわしなく動く。気を失いそうなフラフラした意識の中、靴を脱ぎ、フローリングの床の上に足をつけた。
◇
昔から、雷が苦手だった。それは、幼少期のトラウマから来るもので、山で一度、遭難しかけたことがあった。家族で行った、山登りの最中だった。
不運にも、その時ちょうど強い雨が降り出し、雷雨となった。
数十分後、必死な顔をした両親が探しに来てくれた。それ以来、雷を見たり聞いたりすると、体が身震いをして、言うことを聞かなくなる。
もし、今日、彼がいなかったら……
無事帰宅した自室で、そんなことを思う。
私を助けてくれた勇敢な男の子は、今、私の部屋のシャワーを浴びている。
ギターと荷物を持って、手を引いて走ってくれた。初めて触った彼の手は想像以上に大きく、立派だった。
やっぱり……男の子なんだな……
私の方が年上なのに、たくさん助けられてしまった。今までも、ずっとそうだ。母性をくすぐられて可愛いなんて思ってたけど、ちょっと違うかもしれない。
今、はっきりとこの感情を表現するなら、それは紛れもなく、『恋』の気持ちだ。
だけれど、私がこの気持ちを彼に伝えることはない。彼はまだ高校生。これから、多くの人と出会っていく。そんな輝かしい彼の青春を、私が奪うなんて真似はできない。
もどかしい想いを抱えながら、美咲はタオルで髪を拭いた。
この時間もいつか終わっちゃうんだろうな。そしたら君はいなくなって、私はまた一人になる。だからこそ、今だけはこの幸せを噛みしめよう。
ああ。どうしてくれるの。全く君は……
自分の気持ちは理解しているのに、表に出すことは許されない。何かの試練を突きつけられているみたいだった。
◆
シャワーを浴び終えた僕は、美咲さんに渡されたスウェットのズボンと、彼女のお気に入りのバンドのパーカーに着替える。
続いて、美咲さんもシャワーを浴びた。彼女の格好は、同じく紺のパーカーに、使い古されたジーンズといった出で立ちだった。
それから、僕は台所を借りて料理を作った。僕が料理ができることを、彼女は心底驚いていたが、休日は家にいて暇な僕は、ご飯なんかを自分で作ると知ると、なぜかショックを受けていた。
そして、雨で濡れていないか、ギターの手入れを入念に行ってから、チューニングまでし始めた。
フライパンを振る僕の後ろで、ポロンポロンと、暖かいメロディーが聞こえる。
完成した食事を、ちゃぶ台くらいの高さの、四角いテーブルに運んだ。メニューは、エビとベーコンのチャーハン、そしてコーンスープ。全て、冷蔵庫にたまたまあったものだ。
二人で向かい合って手をあわせる。
彼女から、薄っすらと石鹸の匂いがした。心は驚くほど穏やかで、幸せに感じた。
僕より先に、チャーハンを口にしている。ちょっと緊張する。
「うん、すっごくおいしいよ」
「よかったです。吐き出されたらどうしようかと」
「今まで食べた料理の中で、一番、かも。ちょっぴり悔しいなぁ」
嬉しそうにはにかむ。僕もつられて口元の角度を上げた。
「まあ、何事も経験ですから。これからですよ」
「あはは、隼人くんがお母さんだったらいいなあ」
心臓はドクドクするが、それでも心地よいリズムを作っている。
いつの間にか、雨は小降りになっていた。
「ああ……満開だったのに、散っちゃったかもしれないですね。この雨で」
一年で一番美しい時期に、こんな災難が降りかかるなんて、桜も不幸者だ。
「そうかな? 私はそうは思わないけどな」
返ってきた答えが意外だった。思わず聞き返す。
「どういうことですか?」
「もちろん、桜って満開の時が一番綺麗だけど、その後も綺麗だと、私は思うの。何も言わず、切なげに散っちゃうような感じがするけど、その花びらは風に乗ってはるか遠くまで届くんだよ。それが地面に落ちたら、ピンク色の絨毯を作るの。そして何より、ちゃんと毎年咲いてくれるんだよね。ずっと受け継がれていく。なんか、感動しない?」
本当に楽しそうに話す人だな、と思う。さっきまでのことがなかったみたいに。この人が笑うと、周りの雰囲気も明るくなる。何度も思う。まるで、桜みたいな人だ。
「へぇ、そういう考え方もあるんですね」
「私も歌手、というか、想いを世間に伝える人間の端くれとしてさ、思うんだよね。桜の花びらみたいに、私の言葉が届いて欲しい、そしてその届いた人の心に可愛い絨毯を作って、私の想いがどんどん伝染して、受け継がれていけばいいなぁって。この季節になると、絶対に思い出せるような曲を、私は作りたい」
「美咲さんならできますよ。絶対に。現に、僕の心に届いているんですから。何十年経っても、僕は美咲さんの歌を覚えてると思います」
何の含みも嘘もない言葉。初めて、自分に素直になれた瞬間かもしれない。
「ありがとう。君がそう言ってくれるなら、本当にそんな気がしてくるよ」
そう小さく言い、彼女は熱々のコーンスープを口にした。部屋には、コーンのいい匂いが充満していた。
*
それから4日後の水曜日。
この間の豪雨で、多くの桜は散ってしまった。中には、もう葉桜になっているものまである。
今日は職員会議とやらで、高校の授業は午前中までだった。それはつまり、美咲さんの水曜日ライブに行けることを示す。
一度、学校をサボって水曜日に行ったことがあったが、罪悪感もあったし、何より美咲さんに、「ちゃんと高校行かないとダメだぞ〜」と言われたので、以降訪れてはいなかった。
時刻は午後一時三十分。いつもならもう始まっている時間だ。
自転車を立ち漕ぎに切り替え、息を切らしながら坂道を登った。
ふふ。まさか平日に来るなんて、ビックリするだろうな。
百メートル先に、いつもの駐輪場が見えた。
もう少し。どんなリアクションするだろ。
「はあ、はあっ、はあっ」
ようやく到着した。一秒でも待ちきれなくなり、小走りで噴水広場へ行く。
走って視界が揺れる。噴水との距離はだんだんと近づき、いつものように、可憐に歌っている彼女が見える……と思っていた。しかし、今日は何やら様子が違う。
美咲さんは、確かにそこにいた。白いワンピース姿で、ギターも持っている。
ただ、そこにもう一人、彼女に話しかける男がいた。
遠目からなので顔はよく見えなかったが、スーツ姿で、五十〜六十代くらいの男だ。かなり体格がいい。
彼女は何やら嬉しそうに話していたので、怪しいやつではないだろう。時々、大きめの声も上げながら、笑っている。僕は、なんとなく出て行きづらく、タクシー乗り場の看板に身を潜め、様子を伺っていた。
数分後、男はにこやかに微笑み、その場を去った。僕は、彼女の前に姿を晒そうか迷ったが、誰もいないので出て行くことにした。
近づいていく僕に、彼女は気づかない。終始、ニヤニヤしながら後ろを向いて荷物をゴソゴソしている。
「美咲さん。こんにちは」
振り返った美咲さんは、不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「あれ? 隼人くん? 今日、学校は?」
「たまたま早く終わったから来てみました」
「へ〜そういうことか。ねえねえ、聞いて! 隼人くん!」
「ど、どうしたんです? 凄い勢いだけど……」
明らかに良いことがあった顔だ。あの男と関連しているのだろうか。
「今ね! 突然スーツ姿の男の人に話しかけられたと思ったら、まさかまさかの、レコード会社の人だったの!」
さっきのあの男で間違いなさそうだ。って、レコード会社……? え? マジで?
「それでね、私の歌を褒めてくれて、ぜひうちからデビューしないかって! まだインディーズだけど!」
急すぎる展開に、頭が混乱する。
「え、えっと、それは、美咲さんの曲がCDになって、世に出回るってこと……」
「CDが出るかは分からないけど……とにかく、もっと多くの人に知ってもらえるし、音楽で生きていけるかもなの! やっと夢が叶った……」
今にも泣き出しそうだな彼女だった。
「音楽で生きていく、って、契約とかしたりってこと? これからの活動は? 路上ライブは?」
僕は何を聞いているのだろう。
「一度、東京の本社に来て、改めて話をさせてくれって。もしかしたら、東京に住めるかもね? そしたら、大学はやめることになっちゃうけど」
東京に住む……? じゃあ、もう……世界がいつもより暗くなった。
「す、すごいね、おめでとう……」
どうした? なぜ僕は素直にこれを喜べない? ずっと願ってたはずだ。美咲さんの曲がより多くの人に届くなんて、良いことに決まってるじゃないか。一番のファンとして、今まで見てきたんだから……
なのに。
どうして僕は笑えない………………?
「あれ?隼人くん? どうしたの?」
僕の顔を覗き込むように話しかけてくる。
「よ、良かったね、おめでとう! これからもっと有名になると思うよ! 美咲さん、天才だし! そしたら、こんな小さい街でライブするようなこともないしね!……」
柄にもなく、大声を出してしまった。分かりやすいくらいに彼女の肩がビクッと震えた。
なんだこれ。こんなの、僕の言葉じゃない。やめてくれ。本心じゃない。喉が焼けるように熱い。
「隼人くん……? 怒って……るの……?」
彼女は、完全に僕の異変に勘付いている。
「そんなわけないだろ! な、何言ってんだ?! バッカじゃないの?」
口から衝いてからハッとした。もう手遅れだ。これ以上関われば、僕はもっと傷つけてしまう。
「ご、ごめん! 用事思い出したから帰るね!」
一度も振り返らず、駐輪場まで駆け出した。
「隼人くん!?」と言った声が背後から聞こえたが、もう彼女の顔は見れなかった。
この感情は何だ……?
心のどこかで、美咲さんの素晴らしさを知るのは、自分だけだとでも思っていたのか?
僕の口から出る言葉は何なんだ? 誰のもの? 僕は彼女に嫉妬していた?
いや、それとも自分に……?
僕の頬には、鉛のように重い涙が伝っていた。
何も考えず、自転車を引っ張り出してきて、強引にペダルを漕ぎだす。頭の中には砂嵐が飛び交っている。
そこから、どうやって家に帰ったのかすら、今では思い出せない。
ただ、僕が彼女を傷つけて、もう二度と顔向けできないという事実だけが、深く僕の心をえぐった。
*
ハッキリと意識が戻った時、僕はベッドに突っ伏していた。
いつもの安らかな布団の匂い。目は少し腫れている。
あれから、何時間経ったのだろうか。二年前に買った安物のアナログ時計の針は、7を指していた。
次々に、思い出がフラッシュバックしてくる。思い出したくもないのに。
「なん……なんだよ……」
訳も分からず涙が溢れてくる。僕が今流している涙の意味とは何なのだろうか。
自分のためでもない。美咲さんのためでもない。僕は誰のために泣いているのだろう?
「う…………ぐっ…………」
コツ、コツ、コツ
階段を上がってくる音が聞こえる。
まずい。母親だ。泣いている姿を見られるわけにはいかない。
急いで布団の中に潜り込んだ。
ガチャッ
「あんた、ご飯は? って、何で制服のままで寝てるのよ?」
もちろん何があったのかを知らない母親は、あっけらかんな口調で聞いてくる。
「い、いらない。今日は調子が悪いんだ」
「そう? なら、ちゃんと着替えて寝るのよ」
ウチの母親は割と冷淡な性格だ。今はそれがありがたかった。
何かを口にする気にもならない。次に目開けた時には世界が崩壊していることを祈って、深くて暗い海に沈んでいくような感覚が、隼人を襲った。
◇
どうしてこうなっちゃったのかな。
美咲は、いつもの噴水広場の前で、ぼーっと無気力に立ち尽くしていた。
一曲目が終わって、休憩中に、スーツ姿のおじさんに声をかけられた時は、本当にびっくりした。
不審者かな? なんて失礼なことも思ったりしたが、予想は大きく裏切られ、待っていたのは最高の結末。
日本でも一二を争うくらいの大手レコード会社の、お偉いさんだった。
本社は東京にあるけれど、たまたま出張で福井に来て、そこで私の曲を聴いてくれた。一目で才能があると直感したって言ってくれていた。本当かどうかは分からないけれど、こんなにも私の作った曲を褒めてくれる人は、知っている限り二人目だ。最初の一人は……
薄々気づいていた。私にとって一番のお客さんでもあり、友達でもある彼に、好意を寄せられていることは。
けれど、それを認めてしまえば、全てが変わってしまうような気がした。このまま、曖昧な関係を続けていければ、それでもいいと思ってた。
夢を叶えるのなら、それはできない。
彼は高校生だ。まだまだこの先、明るい未来が待っている。あんなに優しい彼のことだ。きっといい人に出会うだろう。
これでいいのよ。これで……
「はや……とくん……好きだったのに……ごめんね……」
涙腺は崩壊していた。溢れ出す想いが止められない。後ろにあるこの噴水の音で、私の泣いている声はかき消されているだろうか。
隼人くん。あなたはずるい。私は言わなかったのに。ずっと好きだったのに。私はお別れの言葉なんて言わなかったのに。これじゃまるで、私が悪者みたいじゃない。せめて、最後くらいは。笑ってバイバイって言いたかったよ。
名前しかわからない。高校も分からない。家も知らない。そういえば、学年も知らない。もう会えない。
一生で一度しか掴めない奇跡を手放したような、そんな感覚。
私は、絶対に有名な歌手になるよ。あなたがどこにいても見つけられるような人間に。だから、待っててね。
美咲はギターを手に取り、再び"あの歌"を歌い出した。
観客はいない。誰に届けるでもなく、ただ一人の男の子ことを想って。
『桜の花びらが散れば思い出は消える〜私を忘れてあなたは生きてね〜翌年も覚えてくれているのならまた会いましょう〜この想い、忘れないでね』
その日はちょうど、福井の桜の終わりの日だった。
目に映るのは葉桜が増えてきた。そんな景色に心を痛めながら、それでも美咲は歌い続けた。
◇
一世一代の奇跡を失ったあの日から、既に二週間が経っていた。
月はもう五月。高校二年生になった(学校の都合上、入学式が四月の半ばにある)僕は、クラスが変わっても、相変わらず生活は今まで通りだった。
友達は出来るにはできたが、皆、どこか機械のように接している気がする。
クラスでは既に数組のカップルができており、その眩しさに目を瞑りたくなる。
コミュニケーションって大事なんだな。やっぱり。中学校の時に避けずに努力すればよかった。
朝のホームルームまで、読書をして時間を潰す。目的も何もない、無気力に生きている。あの日から、誰かと話すことは憂鬱以外の何物でもなかった。
ちょうど、読んでいる恋愛小説のクライマックスだった。
ヒロインが難病で、医師に余命宣告をされたことを、付き合っている相手に伝えるシーン。
『私のことは忘れて、あなたは生きて』
『そんなこと出来ないよ。君を忘れるなんて』
『あなたはこれからも生きるの。いい人を見つけて、その人を好きになるの。約束だよ』
思わず目頭が熱くなったが、学校では泣くに泣けない。
そんな僕の耳に、唐突に、後ろの席の女子の言葉が入ってきた。
「ねえ、橘 美咲って知ってる?」
耳がピクリと反応する。すぐにはこの名前の主を思い出せなかった。
「ああ〜知ってるよ、みーちゃんって呼ばれてる人でしょ? 最近有名だよね。『花びらが散れば』って曲歌ってる人でしょ? なんか、わずか一週間でインディーズからメジャーデビューしたっていう」
間違いない。美咲さんだ。ここ最近、音楽もインターネットも避けていたので、全然知らなかった。女子高生の間では結構有名らしい。やはりあの後東京に引っ越して、活動しているようだ。美咲さんがどうしたというのだろう。
「それでさ、私結構好きだったんだけど、今流れてきたニュース見たら、なんか交通事故に遭っちゃったらしいよ? 横断歩道歩いてたら、車に跳ねられちゃったって」
え………………?
「マジ? で、どうなったの? 無事?」
「いや、なんか、ライブで石川にいて、偶然事故にあっちゃったみたいでさ、病院に運ばれたけど、まだ意識不明らしいよ。このまま起きてこなかったら、私、やだなぁ」
石川? 交通事故? 車に跳ねられた?
何を言ってる…………?
頭が突然痛くなる。ひどいめまいが起こる。目の間が真っ暗になった。
嘘だ。人が車に追突されたのを、そんな軽い口調で言えるはずがない。「駅前に新しくパンケーキ屋ができたんだ〜」みたいに言えるはずがないんだ……
僕は読みかけの小説を乱暴に置き、後ろを振り返る。
後ろの席の女子二人は、当然、驚いていた。
「ごめん、その記事、見せてもらっていい?」
僕の声は震えていた。
「い、いいけど……」
スマホを受け取り、ゆっくりと画面を確認する。
『シンガーソングライター、橘 美咲、自動車事故で意識不明の重体』
なんだよこれ…………
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
こんなことがあるはずが……
気づけば、リュックを背負って教室から飛び出していた。廊下を全速力で駆け抜ける。
途中、担任とすれ違ったが、声をかけられる間もなく、生徒玄関に飛び込み、震える手で靴を履き替えた。
荒い手つきで自転車を掴み、死にそうなくらい速くペダルを漕いだ。
高校から駅までは近い。数分で着いた。
何度も来た駅前。噴水広場を通り過ぎ、駅構内までダッシュする。
あった。
快速、金沢行き。あと二分で発車だ。
券売機には誰も並んでいなかった。死にものぐるいでホームまで階段を駆け上がる。
隼人が二番乗り場に着くのと、列車がホームに滑り込むのは同時だった。
「はあ……はああ……」
心臓が悲鳴をあげている。
自由席で、充分に空きの席があるにも関わらず、座らなかった。ただ、扉の近くでへたり込んだ。
財布には五千円。スマホもある。あと四十五分で着く。
自分でもニュースを確認しようと、電源をつけ、橘 美咲と検索する。
サイトの一番上に、何人も望んでいない記事が載っていた。
何度見ても、結果は変わらない。
その後、Twitterで検索してみると、事故の目撃者らしき人がツイートしていた。
救急車は、石川県立病院に美咲さんを搬送したらしい。
『チャララン♪ 次は、金沢。金沢』
空気を読めない明るいアナウンスが鳴った。スマホをカバンにしまい、ドアの前で身構えた。
シューーー
先ほどよりかなり人が多い駅に着く。
駅名表示は、金沢駅。
扉が開くと、人の群れを掻き分けて猛ダッシュした。
何度も人にぶつかりそうになる。
改札を出て、タクシー乗り場に直行した。
「すいません! 石川県立病院まで! 急いでください!」
タクシーの運転手は、年老いた男性だった。
「分かりました。シートベルトをお締めください」
頼む……! どうか神様がいるのなら、今だけお願いします。僕の人生なんてどうでもいい、ただ、彼女に力を……!
タクシーを飛ばしてくれたお陰で、7分で到着した。
運転手に何も言わずに五千円札を押し付け、無思考で病院の中に入った。
病院内は、混乱に陥っていた。
大勢の、ファンと思われる人達が、病院関係者に、「みーちゃんは大丈夫なんですか!」と問い詰めている。
そんなことをしてもどうにもならないと、全員分かっているのに。
人の集まり具合で、彼女のいる病室は明白だった。
二◯八号室。
異常な人の群がりが出来ていた。
病室前で、ファンを通さないようにしている医師たちは、
「手術で最善は尽くしました。後は回復を祈るのみです」と、ずっと同じ返答をしていた。
その人混みを掻き分け、最前に押し入ろうとする。
「通してください! 大切な人なんです!」
そう叫んで進んでいくが、一向に進めない。
今度は、更に大きな声で叫ぶ。
「通しください!! 大切な人に……美咲に会わせてください!!」
一瞬だけ、沈黙が訪れた。その隙を見計らい、一番前まで進んでいく。
扉の前に立つ医師は、不思議そうな顔をしていた。
「もしかして、小野 隼人さんですか?」
「はい。そうです」
なぜ、この人は僕の名前を知っているのだろう。だが、今はそんなことはどうでもいい。
「待ってましたよ。お入りください。あなたの名前を、ずっと言っていました」
重い扉が開かれ、中に通される。
以前より少し髪の伸びた美咲さんが、呼吸器をつけて横たわっていた。医師から、大きな声を出さないよう忠告される。
久しぶりに見る彼女の顔。ゆっくりと近づく。
柔らかな彼女の手を握り、精一杯の声を絞り出した。
「美咲さん……会いに来たよ。ごめんね。本当に……ごめんね……」
折角ここまで来たというのに、そんな言葉しか出てこない。
◇
美咲の意識は、青くて暗い海の中にあった。
底の見えない瓶の中を、ゆっくりと沈んでいくような感覚。意識は自分では操れない。
このまま、どこに行っちゃうんだろう。
最後の記憶は、スマートフォンを見ながら運転している車が、私の横に飛び込んできた所までだ。
私は死んだの? ここはどこなんだろう。皆目、見当もつかない。
すると、遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「美咲さん……」
この声の主を、私は知っている。けれど、彼はここにはいない。いるはずがないんだ。これは、私の作り出した幻聴なんだろう。
君は……こんな時にまで助けてくれるんだね……
ふと、誰かに手を握られるような感覚に陥る。
え……? 誰……?
こんな場所に人がいるのだろうか。その手は、私をゆっくりと引き上げてくれた。少しして、水中から、輝かしくて美しい、太陽が見えた。
この手の感触も、私は知っている。
ああ、やっぱり君だったんだね。
◆
その時、奇跡が起きた。
プツリと切れていた糸が元どおりになるように、美咲の目が開いた。
その場にいる、医師、看護師、そして僕。全員が息を飲んだ。
「はや……と……くん……」
弱々しいけれど、今まで聞いた音の中で、最も綺麗な音だった。
「会いに来たよ。美咲さん。ごめんね。この前は」
より一層、強く手を握った。
「ううん……いいの……隼人くん……あなたがずっと……好きだったの……」
「僕もだよ。ずっと、ずっと、美咲さんの全てが好きだった。大好きだったよ」
大粒の涙が、彼女の頰を伝っていくのが見えた。それは、光に反射して、飛び散っていった。
「私の言葉……受け継いでね……あなたなら……出来るから……絶対……約束だよ……」
「分かったよ。僕が君のギターで、ずっと届け続ける。約束しよう。そのために、早く治して」
「ダメ……花びらが散れば思い出は消えるの……あなたは、私を忘れて生きるの……でも、私の意志だけは忘れないで……春になったら、きっと思い出せるから……」
そんなこと、あっていいはずがない。彼女が死んでいい訳なんて、世界のどこにもない。
「何言ってるんだよ。 早く復帰して、一緒に、一緒に……」
ベッドのシーツに、何個も水たまりができた。その液体は、僕の目から零れ落ちたものだった。
彼女は、少し笑った。
「バイバイ、隼人くん……さっき、恋人って、大切な人って言ってくれたよね……嬉しかった……今まで……ありがとう……」
美咲は、静かに目を瞑った。隼人の眼には、美咲が最後に見せた、桜が咲くかのような笑顔がいつまでも焼き付いていた。
ピー……
生命の終わりを告げる、無慈悲な電子音が鳴った。
彼女の心臓は、動くのを止めてしまった。
「う……う……うぁ……ぁ……」
僕は、ただひたすらに。
美咲さんの手を握り、嗚咽を漏らして泣き崩れた。
心の中で、何かが崩れる音がした。もう、美咲は目を開けない。
隼人の泣く声だけが、白くて無機質な病室にこだました。
いつまでも、いつまでも。
◇
◆
あれから三年。
隼人は大学二年生になっていた。
地元の学校に進学し、歌手になるという夢を叶えるべく、受験勉強とギターの練習を両立した、高校生活を送った。
それもこれも、ある一つの約束のためだ。僕が憧れ続けた、あの美しい、桜のような女の子との約束。
桜に関する思い出と言えば、それ以外思いつかない。
そして、彼女の曲をいつも聴いていた、この噴水広場。同じ場所に立ち、あの時と同じ曲を披露する。毎週、水曜日と土曜日に。
最近になってようやく、お客さんがそこそこ集まってくれるようになった。
様々な面持ちの人々が行き交う街で、僕は今日も歌う。
『桜の花びらが散れば思い出は消える〜私を忘れてあなたは生きてね〜翌年も覚えてくれているのならまた会いましょう〜この想い、忘れないでね』
歌い終わって、ギターをケースに入れていると、スーツ姿の男の人に声をかけられた。六十代くらいだろうか。すごく体格がいい。どこかで見覚えがあるような気がするが、思い出せない。
「君、ここでいつも歌ってるの?」
「はい! 毎週水曜日と土曜日に、この噴水広場で歌ってます!」
怪しい人ではなさそうだ。
「偶然かな? 実はね、私は何年か前に、ここである女の子が歌っているのを聴いてね。彼女はぐんぐん売れて行って、今は訳あって引退しているんだけど」
「へえ……そうなんですか」
おっと……? もしかしたら、僕はその女の子を知っているかもしれない。
「なんだか懐かしいなぁ。歌っている場所もここだった気がする。そうだ、君、歌手として生きていくことに興味はない?」
僕はビックリして、口をあんぐりと開けてしまった。
「マジですか?! え、ってことは……」
「うん、私はとあるレコード会社に勤めているんだけど、君には素質があると思う。ぜひ、東京の本社で契約をさせてもらいたいんだけど、どうかな?」
「も、もちろんです! 本当に、ありがとうございます!」
その男は、柔和な笑みを浮かべて、去って行った。
今日も一生懸命に咲く、桜の花を見て、隼人は語りかける。
美咲さん。君の意思は確かに届いていたよ。いつか、僕も追いつくから。
彼女は桜のような人だった。
あの笑顔は間違いなく世界一の美しさだった。そして、僕はいつまでも、彼女の一番のファンであり続ける。
思い出というものが、今の僕らの糧になっていたとしても、それは未来には及ばない。
今を精一杯生きる。それだけで十分だった。
彼女はもういない。けれど、彼女の歌は、言葉は、意思は、確かに残り続ける。永遠に。
しまいかけたギターを再び取り出し、隼人はまた歌い出した。観客はいない。
ジャララン……
他の誰のためでもない。大切な約束を交わした、ある一人のために。歌う。
花びらが散っても思い出なんか消えやしないさ。僕の心には今でも、君がいるよ。
その歌は春風に乗って、桜の花びらと共に、どこまでも飛んで行くような気がした。
世界の端っこまで届くことを、ただひたすらに願いながら。
花びらが散れば 終わり