バレンタイン前編
うとうととした微睡みの中でノックをする音が聞こえた。次に静かにドアが開き、部屋に人が入ってきた気配がした。
「おはようございます」
いつものように朝の紅茶を執事が持ってきたらしい。とりあえず布団から顔だけを出してみる。
すると予想通り目の前には麗しい顔をした執事がいた。性別は男のはずなのだが、整いすぎた美貌のため女に見えないこともない。体つきも細いわけではないが、筋肉質というわけでもない。
性別が分かりにくい上に、この国では珍しい黒髪、黒瞳がより一層、執事を神秘的に魅せている。
が、私には関係ない。
顔だけ出した亀状態から少し脱出して紅茶に手を伸ばす。いつまでも動かないでいると、目覚まし代わりに辛辣な言葉を浴びせられるからだ。
上半身を起こして紅茶の匂いを堪能する。微かに香るレモンは爽やかな目覚めにちょうどいい。
私がベッドに座り紅茶を飲んでいると執事のカリストが櫛を取り出してすき始めた。自慢ではないが、私の髪は寝ている間に何故か絡まり跳ねるのだ。おかげで朝起きた時の頭は爆発している(カリスト談)。
以前は頭を爆発させたまま服もそこらへんにあるものを適当に着ていた。だが、その姿にカリストが静かに怒り、屋敷の主としてふさわしい姿をしろと何度も言い続けた。
しかし面倒なので拒否し続けたら、最後には根負けしたカリストが毎朝私の身支度を整えることで決着した。
おかげで今は朝起きて紅茶を飲んでいる間に髪を整え、服を準備してもらえるので、かなり楽をしている。最近は服の着替えを手伝うと言わなくなったし、あのとき根負けしなくて良かったと、しみじみ思う。
全ては根性の勝利だ。決して呆れられたわけではない。
髪が整ったら服を着替えて朝食になる。
メイドのカルラが焼きたてパンとともにスープを持ってくる。いつも通り食べていると声をかけてきた。
「クリス様、バレンタインというイベントをご存知ですか?」
「いや、知らない」
初めて聞く言葉だったので手を止めてカルラを見ると満面の笑みでこちらを向いていた。
その笑顔に思わず顔がひきつる。最近、よく見るようになったこの笑顔なのだが、大抵は裏でロクでもないことをたくらm……考えている。
「遠い東の国にある文化らしいのですが、最近商人が広めているそうです」
「広めている?」
「一年に一回、お世話になっている人や、好意を持つ相手に花やお菓子を贈るそうです」
「あぁ、そうやって菓子や花を買うように仕向けるのか」
商売魂に感心しているとカルラが強く頷いた。
「で!今日がその日なんです!クリス様もぜひ買って贈りましょう!いや!お菓子を手作りして贈りましょう!」
「……なぜ私が?そもそも誰にあげるんだ?」
「もちろん犬に!」
屋敷には小さな牧草地もあり馬や鶏だけでなく、ヤギや羊やウサギ、あとそれを守る番犬もいる。
「犬や動物に菓子はやるな、と子どもたちにも言っているだろ」
話にならないと食事を再開するとカルラが笑いながら背中を叩いた。
「いやですわ、クリス様!そっちの犬ではありませんよ!」
叩かれた勢いで眼前にスープが迫る。と、いうか鼻先がスープで濡れた。
だがカルラは気づかずに楽しそうに話を続ける。
「クリス様から貰えるのを、きっとそわそわしながら待っていますわ!」
そこで、ようやく話の食い違いに気がついた。
「ちょっと待て。そもそも世話になっている人に渡すんだろ?私はあの犬を世話している立場だぞ」
「細かいことを気にしたら負けです!」
「なら負けでいい」
「それでは話が進みませんわ!治療院研究所には休む連絡をしましたので、今日はお菓子を作っていただきます!」
「勝手に主の予定を決めるな!」
渾身の叫びをカルラが水のようにサラリと流す。
「さ、早く食べて下さい。みんなキッチンで待ってます」
「みんなってなんだ!?お菓子作りに、そんなに人数はいらないだろ!そもそも私は作ると言っていな……」
「作っていただけますよね?」
どす黒い渦巻きを背負ったカルラの満面の笑みに対し、頷く以外で生き残る道を見いだせなかった。
朝食を食べ終えてキッチンに入る。普段は使用人の場所だからと、入ることを拒まれるが、今日は良いらしい。メイドたちが、どこか楽しそうに雑談しながら菓子の材料をそろえていた。
「あ、クリス様!」
メイドたちの中心にいたエマが笑顔で出迎える。出産をして、デカかった腹がスリムになっている。
「体調はいいのか?赤ん坊は?」
「簡単な家事ぐらいなら出来ますよ。子どもはモリスとファニーに預けてきました。数時間ぐらいなら大丈夫ですし、何かあれば知らせてくれます」
「そうか」
他のメイドが嬉しそうに話す。
「エマが作るお菓子は絶品だから、こういう時に教えてもらわないと!」
「あのふんわりとしたシフォンケーキを作るコツをぜひ知りたいですわ。どうしても、しぼんでしまうの」
「私はこの本に載っているマカロンという可愛いお菓子の作り方が知りたいわ」
キャアキャアと可愛らしく騒ぐメイドたちを数歩後ろから眺める。するとエマが数冊の本を渡してきた。
「気になるお菓子がありましたら教えて下さい。一緒に作りましょう」
聖母のような輝く笑顔に拒否権は滅殺された。
「……わかった」
キッチンの後ろに行き、本を読みながらエマのお菓子教室を伺う。
「お菓子作りのコツとして分量は必ず本の通りにして下さい。料理などでは少々適当でもいいですが、お菓子作りではダメです。あとケーキのスポンジなど柔らかく膨らませるお菓子では粉を混ぜすぎないように。メレンゲはしっかり泡立てていいですが、粉と混ぜるときはサックリと数回混ぜるだけで泡を潰さないようにして下さい」
「あら、そうなの?思いっきり混ぜてたわ。だから膨らまなかったのね」
「私なんか目分量で適当に作っていたわ」
明るい声で華やかな雰囲気が包む。本を読んでいると、ある単語で目が止まった。
「これなら薬品棚にあったな」
「クリス様、どれか作りたいものがありますか?」
「これだが……」
気になったページをエマに見せたら、満面の笑顔で両手を叩いた。
「ぜひ作りましょう!」
「あぁ。ちょうど薬品棚に材料があるから持ってこよう」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい。原材料から作るおつもりですか?」
「そうだ」
何故かエマの顔が盛大に引きつった。
お菓子作りを終え、昼食を食べた後、庭で午前中に手作りしたお菓子の試食会が始まった。
庭の中心にテーブルを何個も置き、その上にメイドたちが作ったお菓子を並べている。それを屋敷で働いている全員が食べに来ている。男たちの中には菓子の礼か花束を渡している者もいる。みな楽しそうで笑顔が多い。
「天気もいいし、たまには良いか」
庭の端にあるテーブルセットの椅子に腰かけて様子を眺める。そこに可愛らしい箱を持ったエマが現れた。
「しっかり冷えて綺麗に出来ました」
「これで完成か?」
「はい」
箱を受け取ると、中を見ることなくテーブルの上に置いた。
「犬には明日にでも渡そう」
「それでは駄目です!今日中に渡さないと!」
「何故だ?」
「今日がそういう日だからです。明日では、ただのプレゼントになってしまいます」
「それでもいいだろ」
「ですから、それだと意味がないのです」
「よく分からんな」
腕を組んで考えているとカリストがやって来た。
「その噂の犬がやって来ましたよ」
「まぁ!」
エマが嬉しそうに両手を両頬に当てて恥ずかしそうに顔を左右に振る。いや、なんで恥ずかしがっているんだ?
そう思っていたら、いきなり決心したように握りこぶしを作って顔を近づけてきた。
「クリス様!自分の手作りだって言ってから、お渡しして下さいね!」
「いや、別に手作りって言わなくても……」
「言って下さいね!」
「あ、あぁ……」
笑顔なのに脅迫されている気がする。満足そうなエマはカリストに声をかけた。
「早くお連れして下さいな」
「カルラが案内しています。もうすぐ来るでしょう」
「まぁ!では、私は裏で覗き……いえ、見守っていますわ」
エマがスキップをしながら離れていく。なんなんだ一体?周囲は楽しそうなのに、嫌な予感しかしない。ここだけ別世界なのか?
自分の屋敷で、しかも主のはずなのに疎外感が半端なかった。