ファインダー越しの未来
イラスト:桧野陽一さま (http://10819.mitemin.net/)
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:ヒューマンドラマ
この作品は3,338字となっております。
「久しぶりに帰って来たのに、あんたまた出かけるの?」
「うん」
「うん、って。そのマイペースなとこ全然変わってないよね」
みちるが呆れているうちに、彰はどこに行くつもりなのか荷物を肩にかけて重そうに出て行く。
大学生で一人暮らしをしている弟が冬休みを使って帰省すると連絡を寄越した時には、少し神妙な時間になると思っていた。
一人親として懸命に家族を支えてくれた父親が事故で他界してから一年。父親と喧嘩ばかりだった彰は、忙しくて帰れないと葬式にも四十九日にも帰って来なかった。みちるは薄情者とも思った。でも親戚中で彰のことを責める言葉を聞いて、今では同情の方が強まっていた。
だから、彰が帰って来ると聞いて、父親の話をしたいと思っていた。思い出でも、悪口でも何でも良かった、ただ家族でないと分かち合えない父親の記憶を語り合いたかった。
それなのに。帰省して三日。みちるが仕事で家を開けている時の動向は知る由もなかったが、毎晩彰は家を出る。はじめは自分を避けているのかとも思ったが、どうも本当に目的があって出かけているらしかった。
(久しぶりに実家に帰ってきて何よ)
今日のみちるは虫の居所が悪く、どこに何をしに出かけているのかを突き止めてやろうとして、彰の後を追いかけた。
こんな夜にどこに用があるというのか。あの重そうな荷物は帰ってきた日に触ろうとして必死に止められたものだ。黒いナイロン製の四角いバッグ、形は父親が愛用していた小さなクーラーボックスと似ている。大事なものだから、と姉にも触らせない荷物とは一体何なのか。
タクシーにでも乗られたらどうしようかと思っていたが、彰は歩いてどんどん進んで行く。案外、目的地は近いのかもしれない。みちるは外の寒さに今の格好を後悔しながらも、弟をどう叱りつけようかと考えることで気を紛らわせた。
それから周りをきょろきょろと見渡して思う。
(この先って、海しかないけど)
いかがわしい場所に行こうものなら憂さ晴らしに目一杯叱りつけられるが、夜の真っ暗な海に行って何ができるというだろう。弟の行方に不安すら感じてきて、みちるは音を立てないようにしながら急いであとを追う。
古びた小屋を曲がると、海の波の音がかすかに聞こえてくる。漂う潮の香りはいつものことだが、波の音はここまで入って近付かないと街の喧騒に掻き消されてしまう。夜釣りに行った父親を迎えに行くみちるの日課が唐突に終わってからは、足が向かなかった。
堤防を進んで行く彰を、みちるはしばらく眺めた。これ以上追いかけても行き着く場所は同じで、釣りくらいしかすることはない。今日も堤防の奥では夜釣りに励んでいる人が何人かいるらしい。小さな光がいくつか、闇の中に煌々と光っていた。
しかし思い立って、みちるも堤防に上がる。父親とそうしていたように今度は弟の隣で釣りを眺めるのもいいかもしれない、と思ったからだ。今日まで話せなかったことをここでなら話せるかもしれない。
彰は釣り人たちから少し離れたところに立っていた。手にしていたのは釣竿ではない、カメラだった。
真剣な表情でファインダーを覗き、シャッターを何度か切る。顔を離して釣り人を眺めてはまたファインダーを覗く。その様子が思いの外くっきりと、月明かりに照らされている。
みちるは少しして、彰がしゃがんでバッグに手を差し入れると声をかけた。
「カメラ、趣味なの?」
彰はみちるを見上げ、悪戯がバレた時のような幼い笑顔を見せた。
「趣味、うん。今は趣味だけど、もうすぐ仕事になる、かな」
「え、プロのカメラマンになるってこと?」
「カメラマンというより、写真家だね」
突然の、あまりにさらっとした報告にみちるは呆気に取られた。カメラが好きだなんて一度も聞いたことがなく、仕事にしようと思えるところまで技術を持っているとは思いも寄らなかった。
みちるが黙っていると、彰は立ち上がり困ったように眉を下げて姉を見た。久しぶりに正面に対峙した弟は、知っている頃よりずっと大きくなったように思えた。
「ごめん」
「……なにが?」
「父さんの葬式に帰って来なかったこと。色々言われたよな?」
みちるは首を振る。確かに色々なことを言われたが、今更それについて言うべきことは何もなかった。
「本当は帰って来ようと思ってたんだけど。ちょうど僕の写真を見たいって声をかけてくれた人がいて、その時を逃したくなかったんだ」
「そっか」
「あと、カメラのこと相談しなかったのも、ごめん」
「別にいいよ、家族だからって何でも話さないといけないわけじゃないでしょ」
みちるがそう言うと、彰は違うんだと申し訳なさそうに言う。実際、姉一人にだけ何も言わなかったことを申し訳なく思っていた。
「父さんには、相談してたんだ」
「え、連絡取ってたの?」
みちるが驚くのも無理はなかった。家の中で、思春期の彰は父親と言い合ってばかりだったから。でもその言い合いも、全ては彼の夢に繋がっていた。
「父さんはずっと、生半可な思いで夢を語るなって言ってた。僕だって簡単に言ってたわけじゃないから、反発して。でも僕が家を出る時、言ってくれたんだ」
『タイミングを逃すな』。父親はそう言って彰を送り出した。
『社会に出れば視野を広く持っている必要がある。いつどのタイミングで掴むべきチャンスが巡ってくるか分からない、掴むべきチャンスが目の前にあるのにそれを見逃すようじゃあいけない。たとえどんなハプニングがあっても絶対に掴んで、離すな』
たとえ親の死に目に会えなくても。父親はそうとは言わなかったが、一人親になると話した時と同じ、固い決意とその裏に少しの寂寥感を隠した声で彰に語った。彰が受けた人生最初で最後の父親からのアドバイスだ。
彰がさっとカメラを構えて、シャッター音が静かに鳴る。その横顔には一点の曇りもなく、父親の言葉に従った自分を誇りとさえ感じている。みちるにはそう見えた。
そして今日の彰は饒舌だった。
「それでその時の人が、もっと色んな写真を見たいって言ってくれてて。自分の好きな場所とか写真に残したい景色をとりあえず300枚撮ってきてほしいって言われてるんだ」
「300枚?!」
「大学卒業までの期間はもらってるよ。認められたら、アシスタントから始められそうなんだ。反応からすると好感触かなって思うんだけど、でもこの300枚にかかってると思う」
「それでもアシスタントからって、気が遠くなりそうね」
「そうかな? こんなチャンスがこの歳で巡ってきたってだけで、僕は恵まれてると思うけど」
本心だった。いくつになっても夢に手をかけられさえしない人が山ほどいる。それなのに自分には、夢に近づくために一緒に歩こうとしてくれている人がいる。夢を現実にするまでの長い道のりに同行してくれる人がいることは、どんなにありがたいことか。彰はそのことをよく理解していた。
「それで、ここを撮りに来たの?」
「最初に撮るのは父さんがいいと思って」
みちるが聞くと、少し恥ずかしそうに彰が笑って、カメラに目を落とす。
「父さんがいた場所、父さんが見た風景。ここには父さんの記憶が詰まってる。僕の、一番残したい景色だ」
みちるはその景色を見た。
静かに、小さなライトの光に浮かぶ釣り人。真っ黒な海の中に沈む月。見上げれば星が無数に瞬いて、目を瞑れば波が楽しそうに堤防に打つ音が鮮明に聞こえる。
父親と何度も見た景色。それは確かに、父親のいる景色だ。そしてみちるにとっても「一番残したい景色」だ。
「あんた、大人になったね」
「なんだよ、急に」
「本当にそう思っただけ」
家族の形は変わっていく。家族の在り方も。でもきっと、それでいい。どう変わっても家族だ、とみちるは思う。
彰がファインダーを覗くたび、その目には沢山の景色が映る。未来という名の、色とりどりの景色が。
「早くプロになって、お姉ちゃんの結婚式でカメラマンやってね。家族割引で」
「なら早く彼氏作んなよ、じゃないとこっちが待つはめになる」
「このやろ、生意気な」
わたしはこの目にどんな未来を映せるだろう。みちるの心は少し高揚していた。
(明日、あの人に電話してみよう)
父親を亡くしてから色々なことを諦めかけていた自分の心が、むくりと起き上がるのを感じた。
桧野陽一さま、ありがとうございました。
高校時代に少しの期間、写真部だったことがあります。一眼レフで撮るのが楽しかったなぁと思い出しました。
今はスマホで簡単に撮れるけど何だか味気なくて、写真を撮ることはほとんどなくなってしまいました。