積み木が崩れる音がする
イラスト:桧野陽一さま (http://10819.mitemin.net/ )
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:純文学
この作品は1,999字となっております。
「行かないでっ!!」
浅い呼吸を繰り返す。身体中を冷たい汗に覆われ、その一滴が重力に負けて顎先から布団の上へ落ちた。
「……ゆ、め」
酸素を求めて喘ぐ唇から文字が零れ出る。それでやっと、あの光景が夢だったのだと気付いた。
200mを全力疾走した後のような疲労感が圧し掛かり、またベッドに身を横たえた。
無意識に跳ね起きるほど、切羽詰まっていたのだろうか。それほど強く、あの見知らぬ相手に心を委ねてしまっていたのだと気付く。
目覚ましが鳴る。その音でまた心臓が跳ねた。――学校に行かないと。
歩いて15分。それが学校までの道のり。
通学路半ばにひとつだけある信号が青になるのを待ちながら、目を瞑る。
暗がりの中にぼんやり浮かぶセーラー服。呼び声に耳を傾けず、強い意思をもって遠ざかるくせに、窺うように視線を向けたあの少女。
夢の中で、あの少女は確かにわたしの希望だった。深みにいて、独りで立ち上がることもできず、泣くことも許されず、隠れて歯ぎしりを続けるわたしを、救い出してくれる希望。そのはずだった。
どうしてそう信じたのかは分からない。わたしたちはただ黙って、積み木をしていた。セーラー服を来た女子中学生が、ふたりして幼い子どものように、真剣な顔でカラフルな積み木を重ねることにすべてをかけて。
わたしはそうしながら、背を高くしていく積み木を崩したくて堪らなかった。崩れる音の爽快さや、少女の違う表情を求めていた。けれどそうする前に、少女はわたしから去っていった。
また、会えるだろうか。もう一度、あの硬く冷たい場所から降りて、わたしの元へ戻ってきてくれるだろうか。
校門を抜け、校舎へ入る。クラスメイトが肩を掠めて過ぎて行った。
すれ違った先生に小さく挨拶を返す。今日は授業で当てられることもないし、学校で声を出すのは今ので最後だろう。あのクラスの中で声を出すのには勇気がいる。あの緩んだ空気の中で、わたしの声は溶けない氷のようだ。
教室中央の席は見張られているようで居心地が悪いけれど、ふとした時に注目を浴びるよりはずっといい。読書をしていれば何も耳に入らなくなって、たったひとりの世界が簡単に生まれる。眠れば生まれる夢のように、だけど夢の方が広く自由だ。ここでのわたしの世界は、ページを捲る指先の動きだけが許されている。
いつも夢の中にいられたらいいのに。そうしたら「希望」を縛り付けておくことだってできるのに。必死で明日のその先を待つわたしは、「希望」がなくてはくずおれてしまいそうだから。
本を開いたまま、頭の中では積み木のことを考える。あの、カラフルな積み木。
暗い空間に散らばった鮮やかな色を、ひとつひとつ重ねていく。青、黄色、赤、緑、紫、オレンジ、青、赤……。見えない指で持ち上げては重ねる。その度、やはり崩したくて仕方がなくなる。あとひとつ置けば、あとひとつと、そう思ってはまた次を重ねた。
がやがやとうるさかった教室が静かになる。緑の積み木を重ねようとしていた手を止めて、顔を上げる。
担任の先生の脇に、女子生徒が立っている。左右に結った黒く長い髪。大きく理性的な目。何も伝えてくれない表情。同じものなのに誰よりも慎ましく見えるセーラー服。
……「希望」だ。あの少女が、目の前にいる。
先生は少女を転校生だと紹介した。自己紹介するよう促されて少女は口を開く。にこりともしない少女が口を閉じ、先生が満足そうに頷いたことで終わったと分かったけれど、わたしにはどういうわけか聞こえなかった。他の人の声は聞こえるのに、少女の声だけがわたしの耳には届かなかった。
先生が後ろの席を指差して、着席するよう伝える。
少女が歩き出す。わたしの席に近付いてくる。正面を見たまま、わたしのことなんてまったく気付かないように。
わたしが知っているだけ? この子は本当に、わたしのことを知らないの?
気付いてほしい。現実でもわたしの「希望」になってほしい。もうどこにも行かず、わたしを置いて行かず、わたしをあなたの行く先へ連れて行って。
願いを込めて、その無表情を追う。気付いて、気付いて。
大きな衝撃音がしてもわたしは視線を外さない。閉め切った窓に黒いカラスが何羽もぶつかっているらしい、クラスメイトの声と悲鳴と、目の端にぼんやり動く黒い塊で理解する。それでも少女を見続ける。少女も前を。
――こっちを見た!
わたしの横を通り過ぎる時、少女はわたしを初めて見返した。奥深くまで見通すような目でわたしを見た。
知ってる、分かってる、この子は、「希望」は、わたしを知ってる!
わたしの机にそっと触れて、少女は歩いて行った。少女の触れた部分に無意識に手を伸ばしていた。すると指先に、なかったはずの凹凸を感じる。
《 ようこそ 》
指の下でちりちりとその文字は消えていく。
わたしは招かれた、「希望」の元へ。
頭の中で積み上げたカラフルな積み木は、今にも崩れそうにふらふらと揺れている。
桧野陽一さま、ありがとうございました。
ちょっとファンタジーに。
積み木は最終的に崩したくなるタイプの子どもでした。なんででしょう、明確に「終わり」を感じるからかな。