雲の海に
イラスト:桧野陽一さま (http://10819.mitemin.net/ )
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:純文学
この作品は2,601字となっております。
何もかも、考えるのをやめたかった。
今日が終われば明日、明日が終わればそのまた明日。その価値なんてないと突きつけられながらも、生きることを強いられている。その日々が痛くて、苦しい。
階段を一段一段、慎重に上っていく。大した運動もしない身体ではこんな軽い山登りもきつかったけれど、ふらふらになりながらもここまで来れた。階段の先には展望台がある。ここを上り切れば、最後の一歩が踏み出せれば、僕の人生はゴールだ。途中リタイアと言われても、もう関係ない。言われたって分かりはしないんだから。
冬の朝はしんとしている。こんな朝早くだから人がいないのもあるけど、四方八方に空気の糸が張り巡らされているような。触れてしまったら大きな爆発でも起こりかねないような。そんな緊張感に似た冷たさが、辺りに漂っていた。
最後の一段に足をかけ、ぐっと踏ん張って上がりきる。
そこにあるのは不思議な光景だった。これを雲海と言うのだろうか。山々が雲から顔を出して、まるで海に浮かぶ小島を見ているようだ。僕の立つ展望台も雲の中に浮かんでいるように見える。ひんやりと濡れた柵に身を乗り出して下を覗いても、雲の切れ端がうねるのが見えるだけだ。
「死にます?」
急に声がして、起こしかけた身体のバランスを崩す。何とか立て直して振り返ると、知らない女性が立っていた。歳はあまり変わらないくらいに見える。霧の立つ山の幻想的な雰囲気に似た儚げな印象で、先程の気軽な声かけがなければ天女にさえ思えた。
女性は一歩進み出て、何かに気づいたようにはっとした。
「ああ、ごめんなさい。違いました?」
「え、えぇと」
「こんな朝早くにわざわざ山登ってここまで来てるってことは、お仲間かなぁって思っちゃって」
お仲間。それはつまり。
こんな美人も冴えない僕と同じようなことを考えてしまうのだと思うと、人は案外平等なのかもしれない。少しほっとして慌てて答える。
「あの、違う、こともない、です」
はっきりそうだと言えばいいのに、目を会わすこともできずあたふたしてしまった。大きな決心をしてここまで上がってきてもそうなのだから、人生上手く立ち回れるはずもない。
僕の答えに女性は嬉しそうに顔を華やがせ、手を取らんばかりに駆け寄ってきた。
「貴方がここを選んだのもコレですか?」
「コレ?」
女性は下を指差す。そこにはただ雲海が広がっているばかりだ。何のことか分からず首を傾げると、無邪気に笑う。
「雲海の中に落ちたらどんな気分なのかなぁ。そんなちっちゃな疑問を最期に解決したいと思って」
とても純粋で子どものような疑問。きらきらと光ってさえ見える言葉の中で、「最期」というフレーズだけ翳って聞こえる。身をもって体験するほどの疑問ではない、つまりそれはついでで、この人が死を決めてしまっていることを感じさせた。
僕の決心は、この人ほど強いだろうか。
「……僕は、誰にも迷惑かけずに済みそうな所がここだったから……」
「あ、いいですね」
「いい?」
思いを聞いたからマナーとして自分の考えも答えただけだったのに、なぜが肯定された。随分気弱な考えだと思うのだけど。
「だって自分がいなくなった後のことを考えているんでしょう? それってすごく優しいと思います」
「優しい?」
「電車に飛び込んだりすると諸々費用がかかって残された家族が大変とか聞くし、トラックの前とか飛び出すのも迷惑ですよね。ビルから飛び降りても後始末するのきっと面倒だし、誰かがトラウマになるかも。
でも、普通そういうことって考えないんですよ、その瞬間で自分の人生は終わるから。自分が死んだ後の誰かの人生なんて知るか、って大体の人は思ってるんですよ」
だから優しい人だと思います。そう言葉を締め括った。
そんなに深く考えていたわけじゃない。何となく、ひっそりと誰の邪魔にもならない所で終わりたかっただけだ。でも折角の褒め言葉を否定するのも気が引けて、思わず出た照れ笑いだけに留めておいた。
この人はどうして、人生を終わらせようとしているのだろう。詳しく聞くつもりはないけど、その必要なんてないように思える。無論、他人には分からないことばかりだろうけど。
無遠慮に見つめていることに気付いて視線を外す。冷えた手を擦り合わせる行為は、目的地と逆行しているようで何だか可笑しかった。
「あの、どうします?」
この人は唐突な人なんだな。急に漠然とした問いかけが飛んできて、顔を上げる。彼女は思案顔で続けた。
「このままいくと、心中っぽくなっちゃうかなぁって。ほら、若い男女ですし」
「はぁ、ああ……」
言われればそう思われなくもない、か?
不思議なことを気にする。この人も十分、「自分がいなくなった後のことを考えている」と思う。
「死のうとしてる女と恋人に見られるなんて嫌じゃないですか?」
「この場合、あなたも同じ状況ですけど」
「わたしは全然。だって死んじゃうし」
どうやら僕のことを気にしてくれているらしい。そのくせ自分のことについては本当にあっさりしている。
変なの。でも同時に、こんなにあっけらかんとした人さえもこの道を選ぼうと決意させるこの世界が、とても怖かった。
死を選んじゃいけない、あなたは生きるべきだ。そんなこと、僕に言えるはずもない。そうすることでしか解決策を見つけられないから、人は時に生より死を選ぶ。
何が正解だろう、生き方や死に方に答えがあるなら。どうやって生き、どうやって最期の眠りにつけば認められるだろう。
本当は、どうしたって納得すらできないのだと、死の淵で思う。もっとこうしたかった、ああしておけばよかった。戻れない「もしも」ばかりが霧のように視界を包む。それは雲海の中を落ちるように、濁った白で行く手を遮る。
死ぬのは怖い。死んだつもりで頑張るほどには力が残っていない。僕は本当はどうしたいのだろう。彼女は本当はどうしたいのだろう。
雲海を見つめていた彼女の方へ歩み寄る。思いの外近付きすぎて、彼女の睫毛に付いた霧の粒がよく見えた。
なんて美しいんだろう。この淀んだ世界の中で、彼女はどうしようもなく純粋に美しいと思った。
赤く染まった手をそっと握る。彼女は思わぬ出来事に僕を見上げた。重ねた冷たい手では暖め合うことはできないけど、冷たさを共有することはできた。
「どうしましょうか……?」
「雲海が晴れるにはまだ時間がありそうですね」
僕の問いかけに彼女はそう答えて、小さく笑った。
桧野陽一さま、ありがとうございました。
当初はもっとハッピーな話を考えていたんですが、イラストの「触れられそうなのに触れてはいけない」ような雰囲気(個人解釈)には「死」を合わせたくなってしまって。あえて女性はおしゃべりに。
二人はどういう結末を選ぶのか、この先はそれぞれの解釈で。