愛に狂い散る
イラスト:イラスト:麦原 矜帆さま(http://20706.mitemin.net/)
指定ジャンル・必須要素:和風
→→ ジャンル:和風・純文学
この作品は3,751字となっております。
時は平安。季節は木の葉が夕焼け色に染まる頃。
ある参道には、冷えた空気の中に蒸気を生むような荒い息遣いが駆けていた。
内大臣は一心不乱に走っている。目的地はない、だが人を追いかけてひた走っていた。自分のものになると思っていたーーもはや自分のものと確信していたのにするりと抜け出た女を追いかけて。
早朝に突然走り出て行った彼を屋敷の者たちはどう思ったろう。正室も側室も、誰一人とて彼の想い人の存在を知らない。屋敷を出ることが少しばかり増えたのを不思議がる程度で、生真面目な性格の彼に外に素性知らずの女がいるなど、誰の思いにも上らなかった。
短く太い息を吐き、慌てて吸う空気に唇が冷える。鼻先も額も悴んで、瞬きをする毎に眼の冷たさを目蓋に感じた。
垂纓冠はとうに何処かに落ちて、引き摺る裾が枯葉を撫でてがさがさと乾いた音を立てる。その騒々しさと、息と、喉奥で鳴る隙間風のような音が彼を包み、女の背中を見つけることだけに意識が研ぎ澄まされていく。
その女とは、何処でどのように出逢ったのか彼自身も覚えがなかった。庶民の女と出逢う機会はそうそうなく、加えて村の外れの小さな小屋のような家で独り住む謎多き女が相手であるのに、靄がかかったように思い出せずにいる。知り合ってから、また女の元に通うようになってからどのくらい経つのかも解らない。とても長い間そんな暮らしをしてきたような、しかしほんの数日前に火種が生まれた恋のようにも思えた。
恋などという齢でもないのに、と女の家に行く度に彼は思っていた。とはいえ、浮き足立つ心を感じるに、それは明らかな恋の色香を放っていた。他の誰と肌を触れても形式的な感情しか浮かばなかったはずの心が。その女を見るだけで、ただの獣のような衝動が身体の奥で沸騰した。
気は急くのに、脚は思うように進んではくれない。息遣いだけは一丁前に先を行く。何度も脚が空回っては転げそうになって、そんな無様な身体を何とか立て直して走り続ける。
何故この先に居ると信じているのか、自身でも説明できない。
届けられた文を見て愕然とした。ここから、自身の元から離れることを記した文に震え上がり、夢中で走り出した。女が、この先の神社の鳥居は青いのを知っているかと話していたのを思い出し、殆ど願いめいた気持ちで彼は足を向けた。
彼にとっての女の印象は、青だ。
青紫に似た、さらに深く鮮やかな色をした小袖を好んで着ていたのが主な理由であるが、凛とした佇まいや女の持つ清閑さも相まって、女を象徴する色として脳裏に刻み込まれた。女の透けそうに白い肌にその色はよく似合う。
女は、九十九と名乗っていた。肌が白いのみならず、たおやかな長い髪も目を隠すほどの睫毛も生まれつき白いらしい。「人様より足りぬものが多い故、我に相応しい名と思うております」とも語っており、彼はそのようなことは決してないと諭した覚えがある。
九十九は村の外れに住んでいたが、庶民とは思えなかった。言葉も立ち居振る舞いも実に気高く、あの小袖も上等なものだ。何かの事情で今の暮らしに就いたのであろうが、詮索はしなかった。彼にとって九十九の存在以上に価値のあるものなど、何一つなかったからだ。
遠くに、青い何かを目にした。それが鳥居だと気付くと、すぐそばに見慣れた小袖姿があった。
「九十九、九十九……!」
塞いだ喉に活を入れ、その名を呼ぶ。長い白髪が風に靡き、その足は止まったが声の方を向こうとはしない。
しかし、そんなことは御構い無しに彼はその背中に語りかける。息は絶え絶えで膝は笑っていたが、黙ってしまえば最後、九十九が同じ色をした鳥居に紛れて消えてしまうような気がしたのだ。
「突然、去ぬなど、何故、何か不満が?」
九十九は答えない。
「屋敷に来いと言うたのが、嫌だったか? わは何時でも、御前を正室に置けるよう、手筈を整えておる。今が嫌と言うなら、御前が良いと言うまで、御前の元に通おう」
「……我のことなど、お忘れ下さい」
九十九はまだ背を向けたまま、言葉を返す。暫く意味が理解出来ず、ようやく拒絶の意と受け取った。目の前が赤く染まるのは、熱情の所為か木の葉の所為か。
「そのようなことが出来る筈もない! わは御前を、御前だけを愛しておるのに!」
「……内大臣様は我を美しいと、そう言うてくださいます」
「嗚呼、心のままを言うておる」
「故に、変わって行く我を見せとうないのです」
九十九の言葉に思わず彼の口元は綻ぶ。自身のことが愛せないのではなく、寧ろ愛する故に愛されたままの姿で居たいと願っていると感じられた。老いたとて九十九は美しかろうと想像し、彼はゆるりと九十九に近付く。
「変わり行くことは清きことよ。葉が色付けばこのように、異なる華やかさで地面を満たす。……九十九への愛おしさが変わる筈もない」
穏やかに、甘やかに。文字ひとつを取っても、溢れんばかりの愛情の熱を感じられるように。
九十九は彼の声に胸を押さえる。そうして問う。
「どのような姿でも愛せると?」
「愚問であろう。わはもう御前以外は何も要らぬとさえ思うておるのに」
即座の返答に、九十九が遂に振り返る。にたりと歪む口元に、背筋につうっと冷たいものが伝う。初めて見る表情であり、違う女とさえ見えた。九十九は末恐ろしい顔をして、愉しげに言葉を吐く。
「ほう、この姿でも愛せるとな?」
青い鳥居の下で、落ちた木の葉が一斉に舞い上がる。その全てが足元に落ちきると、九十九の姿は消えていた。
その代わり青い鳥居の向こうで、幾つもの尾を揺らす青き狐が彼を見詰めている。あまりのことに何を考えれば良いかと考える間もないまま、何時か耳にした名が口から零れ落ちた。
「……九尾狐……」
「うむ、頭は働いておるようだ」
男とも女ともつかぬ声が二重、三重に絡みながら耳の中で囁く。咄嗟に手で耳を覆うも、侵入した声を振り払うことはできない。
「どうだ、今の気分は。愛した女が妖怪の見せた幻とは、難儀であろう」
「九十九、なのか、九十九が」
「疑うならかの夜の、蜜の如き主の言葉を真似て聞かせてやっても良いが」
そうされぬとて理解した。透き通るように白い顔。青紫に似た、さらに深く鮮やかな色。纏う奇妙な程に惹きつけられる空気にさえ、九十九の影を見た。否、それら全ては九尾狐のものであった。
九尾狐は可笑しそうに、尾を揺らしながら話を続ける。
「何故出て行くか、であったな。答えは、主を揶揄うのに飽きた故。それで十分であろう」
何の為に、と考えたと同時に九尾狐は機嫌良く口を開く。
「生身の狐が化かす理由は利益なれど、我は道楽。退屈しのぎの可愛い戯れよ」
「道楽……」
九十九との時間が頭を過る。これ程まで愛が募るのは妖であった故なのか、そう一度は落胆したが、彼は直ぐ様頭を振る。そして、今度は声に出して問うた。
「……揶揄うのに飽きたと言うたの?」
「うむ」
「ならば、飽きねば九十九はわのものに……?」
彼の言葉に、なんと酔狂な、と九尾狐の笑む声がする。
嗤われたとて、願ってしまうほど九十九に心を奪われていた。それが妖の力と分かってもなお、九十九以上の者は居ないと思えた。酔狂でも何でも良い、九十九を手に出来るのならば己が妖となることさえ厭うものではない、と心の中で九尾狐に打ち明けた。
九尾狐は思わぬ熱量にやや驚きを見せたが、直ぐに含みのある笑みを見せ、淫靡に尾を揺らして見せた。
「そこまで九十九を求めるか」
「嗚呼」
「では九十九が手に入るなら、我が空狐となるために主と子孫の寿命を少しばかし渡せと言うても頷くか」
提示されたものの大きさに目を見張る。九尾狐を飽きさせぬだけでも難儀と想像がつくのに、自身の寿命のみならず子をも越えて子孫までとは。まるで呪いのようだと考え、やはり妖なのだと思い至る。
さりとて、これで引いては意味がない。力強い眼で、深く頷いた。
「面白い、ここまで酔狂とは恐れ入る。そこまで言うなら良かろう。妾との子をたんまり頼むぞ」
九尾狐の承諾に息を飲む。本当にこの手にまた九十九が抱けるのだと思うだけで、彼の心は震え、身体中に伝染した。その様子を満足そうに眺め、九尾狐は艶めかしく微笑む。
「飽きさせるなよ。主を生かすも殺すも我次第。しかし我を愉しませられる間は、主の気に入る声で鳴いてやろう」
元の鳴き声は忘れたのでな、と呟いて九尾狐が青い鳥居の向こうから一歩歩み出る。瞬間、九十九の姿に変わった。
彼は駆け寄り、ひしとその躰を抱き締めた。間近で見ても、妖の面影はない。たおやかな白髪も、鳥居に溶け入りそうな小袖も、透けそうに白い顔も。全ては愛したままの姿で、自らの腕の中に居ることを彼は確かめた。普段は容易に触れることも気後れするその頬を撫で、再び掻き抱いた。
「お約束は、必ず」
耳元で、柔らかな吐息と共に九十九の声がする。念を押すのは九尾狐への誓い。九尾狐と九十九を唯一重ねるもの。それを彼は九十九への誓いと理解した。
たとえ明日、命尽きようとも。
たとえ子らが呪いに苦しもうとも。
女のために散らす命を誇りとさえ思う自らを、酔狂と嗤った。
麦原 矜帆さま、ありがとうございました。
九尾狐――妖狐を調べてみると色々あるんですねぇ。位(?)としては空狐より天狐の方が上のようですが、妖力は空狐が上だとか。
妖狐だってそういうものを望んでも良いのでは、と。
次のお話とも繋がっているので、よろしければ。